第九章 僕と懺悔と怒りと白い世界
第47話 僕と懺悔と怒りと白い世界 -01
一
最悪だった。
何もかもが最悪だった。
時美君の話によると約一0分前、つまり僕が広人にうだうだ自分の悩みを言っていたその時間、佑香は倒れている所を発見されたという。それで今、救急車に乗せられているらしい。彼はその運ばれる現場にいて、周りにいる人から意識不明の重体であることを聞いたらしい。話に集中していて救急車のサイレンすら聞き逃していたなんて、本当に最悪だ。
僕はその話を最後まで聞くとすぐに教室を出て、階段を下り、裏門に止められているという救急車の所まで急いで走った。
しかし、僕が到着した瞬間に、救急車はサイレンを鳴らして行ってしまった。付き添いで行きたかったが、それは叶わなかった。
だが、今はそれを悔やんでいる場合ではない。
先生に佑香の搬送先を聞いた所、『大山市民病院』という近くの病院だったので、僕は荷物を置いたままなのも気にせず、タクシーを拾ってその病院へと向かった。
病院に到着するなり急いで佑香の居場所を聞いて駆け足で行くと、そこには佑香のお母さんが、悲痛な面持ちで座っていた。
佑香のお母さんは僕に気づくなり「あぁ、どうもな」と声を掛けてきた。
僕は頭を下げ、訊ねる。
「佑香の具合はどうなんですか?」
「判らない……」
佑香のお母さんは額に手を当て「一回救急車で眼を覚ましらしいんだけどな、すぐにまた意識失って……」と、唇を噛み締めた。
しかし僕はその言葉を聞いて、少しほっとした。
「でも、それって深い昏睡状態に陥っていないってことですよね。ならすぐに眼を覚ましますよ」
「そうかもね」
佑香のお母さんは微笑した後、眼を瞑った。
「でもね。眼を覚ましても、あの子は大丈夫じゃないでしょうね」
「え? どういうことですか?」
そう訊ねると、何故か佑香のお母さんは驚いていた。
「あんた……知らないのか?」
「知っているって……何がですか?」
「あんた、じゃあ何で佑香が倒れたか知っている?」
「え……」
そういえば、佑香が倒れたということで動転して、何で倒れたとかその場の状況とか全く聞くのを忘れていた。
「その様子じゃ、知らないようだね」
佑香のお母さんは短く息を吐いた。
「佑香は、心不全で倒れたんだよ」
「……心不全?」
想像も付かなかった単語が、そこにはあった
倒れたのは寝不足とか貧血だろう――などという希望は、最初からないことが分かっていた。そんなもので倒れたくらいで、意識不明の重体にはならない。だから、もっと重い何かだと思っていた。
ただ、認めたくなかった。
佑香は、すぐに元気になるものだと思いたかった。
だから言えなかった。
「心不全って……どうしてそんなものが……」
だが、分かっている。
訊いても訊かなくても、どっちにしろ物事は変わらないということを。
でも、僕は……。
「――昔々にな」
と。
唐突に佑香のお母さんはそう呟き、僕の方を見て微笑んだ。
「大層美しい女性がいたんだよ。それはそれはもてていた。んでその女性は普通にいい人と結婚してな。二人の間には、これまたすっごい可愛い子供が生まれたんだ」
佑香のお母さんは思い出すように上を向いた。
その表情は、とても嬉しそうだった。
「幸せだった。夫は優しくて、娘は日に日にどんどん可愛さを増していく。もうめろめろだったね。どっちにも。休日はよく公園に行ったよ。シートを広げてお弁当を食べたりしてな」
佑香のお母さんは僕に語り続けた。
佑香が犬を追いかけて行って迷子になって、それを探しに行った佑香のお母さんが迷子になって、そして元の場所にやっと戻ったら、そこには笑顔を浮かべている夫と佑香がいた話。
夫が日曜大工で作ったブランコが、佑香が乗った瞬間に壊れて、佑香のお母さんがそれをからかい、夫は佑香にぽかぽか叩かれて、結局作り直すことになった話。
色々な話を、佑香のお母さんは口にした。
そのどれもが――幸せそうな話だった。
「……それはそれは楽しい日々だったよ」
佑香のお母さんは眼を閉じた。その当時のことを瞼の裏に映しているのだろう。
しばらくして、佑香のお母さんは眼を開けた。
「だが……その幸せも長くは続かなかったんだ」
その時の佑香のお母さんの表情は、暗かった。
「夫には一つだけ欠点があってね。重要なことは秘密にする癖があったんだよ」
「……重要なことですか」
「そう。例えばね、佑香の一歳の誕生日の時にね、夫がプレゼントを何も準備していないように見えたから、私は絵本を一冊プレゼントしたんだよ。そうしたらね、その光景を見たあの人はひどく動揺してね。『娘の誕生日を今頃思い出したのかーっ』って怒ろうとしたら、あの人は後ろ手に何か持っていてね。それは私が買ったのと同じ絵本だったの。そしてあの人はトイレに行くっていいながら三〇分も戻らなくてね。トイレから戻ってきたあの人の手には、別の絵本があったんだよ。後から訊いたら、元々私が買うずっと前に用意していたみたいだね。それで当日になって私まで驚かそうとしたんだって。結局、自分が驚いてやんの。全く、馬鹿だよね」
あははと軽く笑った後、少し間を明けて「……そしてある日ね」と佑香のお母さんは続けた。
「私達はいつものように家族三人で朝食を摂っていた。夫は低血圧だから朝はいつも具合が悪そうだったけど、その日は特にそうだった。でも、あの人はフォークで目玉焼きを食べる佑香を優しく笑いながらじっと見ていた。佑香は見られていることに気がついて『パパ、欲しいの? じゃああげる。あーんして』って、目玉焼きを一生懸命切って、そしてあの人の口元に持っていった。あの人は嬉しそうに口を開けてそれを食べようとした。だけど――あの人の口の中に佑香からの目玉焼きは入らなかった」
佑香のお母さんは拳を握り締めた。
「急いで救急車呼んで病院に行って、そして手術が長い間行われてね……夫は無事一命を取りとめた。だけどね。その時、医者に言われた言葉を聞いて愕然としたよ。『再発したんですね』って」
「再発? 再発ってことは以前にも……」
「そう。あったらしいんだよ。でも、私は知らなかった……っ」
そう言った時、佑香のお母さんは唇を噛んでいた。
僕から見て判るほど、強く。
「目を覚ました夫に、私は訊ねた。『再発ってのはどういうこと?』って、責めるような強い口調でね。すると夫は、私から目を逸らしながらこう答えたよ。『ごめん』って」
「……」
「あの人は、先天的な心臓の病を持っていたんだ」
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