第45話 ボクと誤解と水と恨み -07

    七



 翌日の朝。

 天気は快晴。


「いってきます」


 ボクはかなり早めに家を出た。その顔には、笑みが零れていた。

 今日からは普通に過ごせる。真美と奈美が戻って来るまでというタイムリミットまでに間に合った。さて最初に何を話そうか。昨日のテレビの話でもしようか。でも、昨日ボクはテレビ見てないしな。何だろうか。あ、そうだ。昨日数学のノートを学校に忘れたから宿題やっていないんだよな。だから英時に見せてって言うか。うん。それがいいな。そうしよう。

 そう考えながら、誰もいない教室にハイテンションのまま入った。

 その瞬間――


「……え?」


 思わずボクは目を疑った。


「何……これ……?」


 ボクの机の上には、窓際に飾られていた――花瓶があった。

 菊の花に差し替えられて。


「ちょっと……これは……」


 フラッシュバック。

 静かな部屋。

 あるおばあさん。

 ボクに綾取りを教えてくれた。

 ボクはおばあさんが好きだった。

 でも、ある日。

 おばあさんは黄色い花になっていた。


「――っ!」


 吐き気がした。しかし、ここで吐くわけにもいかない。


「……っく」


 ボクは左手で口を押さえながら花瓶を元の場所に戻した。そこでやっと落ち着いた。


「全く、縁起が悪……」


 そう言いながら自分の席に座る。


「……何これ?」


 ボクは自分の引き出しの異常さに気がついた。

 何かくしゃくしゃになった紙が詰め込まれている。

 ボクはそれを一つ手に取り、開いてみた。


「……!」


 それは――ボクの数学のノートだった。

 調べてみると、案の定、全部のページが破り取られ、くしゃくしゃに丸められて机の中に突っ込まれていた。


「――っつ!」


 また吐き気がした。今度のは強烈だった。

 ボクは急いでトイレに向かい、全てを戻した。



「……はぁっ……はぁっ」


 胸が、痛かった。

 ボクは右手で胸を押さえた。

 ……大丈夫。

 ボクはゆっくりと息を整えた。

 一体、何だ、これは?

 机に置かれた菊の花。

 机に詰められたくしゃくしゃの紙。

 破り取られたノート。

 これは、もしかして、いや、もしかしなくても――


「……いじめ、じゃないか」


 明らかにいじめだった。

 しかし、何故されるのか、全く判らなかった。自慢でも何でもないが、そんな人の恨みを買うようなことは……いや、一人だけある。

 たった一人だけ。


「……でも、そんなわけないな」


 ボクは首を軽く二、三回振る。

 さて。

 まず、あのゴミを片付けなきゃな。あと、数学の宿題をしなきゃ。幸い数学は五時間目だから今からやれば十分に間に合うだろう。

 とりあえず。

 このことを他人に……特に英時には知らせてはいけない。心配させるわけにはいかない。

 ボクが我慢すればいい話だ。

 おそらく、一時的なものだろう。だから何の反応も見せなければ、すぐにやめるだろう。


「……誰だか知らないが、やってやろうじゃないか」


 ボクは大きく深呼吸をし、頬を二回パンパンと叩いて気合を入れて教室へと戻った。

 戻ったボクは、何もなかったかのような顔をしながら数学のノートを捨てた。全部片付ける前に人が来なくて幸いだった。予備のノートがあったので無事に宿題も終えられ、ボクは変化を悟られないように昨日までと同じように伏せて過ごしていた。実際、少々具合も悪かったし。

 そうやって休み時間も寝ているおかげだろう。あれ以上のいじめはなかった。


 しかし、四時間目の体育の時だった。

 外靴に画鋲が入っていた。


 入っているだろうと予想していたから、踏まずにすんだ。

 事が起こったのは、四時間目が終わってからだった。

 すっかり油断していた。


「……っつ」


 制服の袖口に、画鋲がたくさん刺さっていたことに気がつかなくて、そのまま袖を通してしまった。幸運なのか不幸なのか分からないが、画鋲は地面に落ちずに刺さったままだったので、誰にも見られることはなかった。ついでにその後に気がついたのだが、スカートを一周するように画鋲が刺さっていた。

 まぁ、何というか、画鋲をたくさんお持ちで。

 何故か、ちょっと微笑ましく思ってしまった。


 だが――次のいじめで、そんな考えは吹き飛んでしまった。


 それは五時間目。

 今日最後の時間。

 数学の授業の初めだった。


「……こりゃないよ」


 思わず呟いてしまった。

 せっかく宿題をやった数学のノートが、罵詈雑言で埋め尽くされていた。


 バカ。

 アホ。

 地獄に落ちろ。

 悪女。

 消えろ。

 何とも頭の悪い言葉だ。

 しかし、次のページを開いた瞬間。

 心臓が踊り跳ねた。

 そこに書いてあったのは、ノートを二ページ使って見開きに書かれた、ただ一言。



『死ね』



「……っく!」


 あまりの胸の痛みに、声を漏らしてしまった。

 これは正直きつい。

 あれを体験しているボクに、この言葉は……

 この言葉だけは……


「大丈夫か? 鈴原」


 はっと顔を上げると、数学の増渕先生が心配そうな顔でこっちを見ていた。ボクは慌てて返事をした。


「は、はい。大丈夫です」

「本当に大丈夫か? 顔色が……」


 そこで先生は、表情を驚きに変えた。


「っ! ……お前……」


 しまった。隠すのを忘れていた。

 先生に、死ねと書かれたページをはっきりと見られてしまった。

 まずい。何とかしないと……


「いやぁ。参りましたね。これには」


 ボクは笑いながら冗談っぽく言った。しかし、先生は深刻な表情のままだ。


「参りましたって、お前……これはさすがに……」

「あはは。大丈夫ですよ」


 ボクは素早く、『死ね』と書いてあったすぐ下に『あまり騒ぎ立てたくないんです。すいません。大丈夫ですから』と書いた。


「先生。ボクの落書きにそんなに反応しないで下さいよ。授業はちゃんと聞いていますから。でも、すいませんでした。こんなのを書くなんて全く、馬鹿にも程がありますよね。あはははは」

「……まぁ、そうだな。だが授業中にするなよ」

「はい。すいません」

「では授業に戻るが……」


 先生は短くそう言い、何食わぬ顔をしてくれた。増渕先生はやはりいい先生だ。

 しかし、一つ疑問に思うことがあった。

 さっき説明していた時に、不安になって横目である人を見た。

 すると、ほぼ全員と言っていい人がボクの方を向いていたのに、ボクにはその人の後頭部しか見えなかった。

 何故だろうか?

 そう考えた時、ボクの中に一つの仮説が立てられた。

 ……何を考えているんだ、ボクは。

 そんなことあるはずがないだろう。

 そんなこと……


「……っ」


 胸が、痛い。

 ……ちょっと待って。

 まさか……。

 いや、そんなことはない。

 また、ボクの……


「……っく」


 ボクは声を押し殺して、机に突っ伏した。



    ◆



 増渕先生はボクのクラスの担任だったので、数学が終わるなりそのままホームルームへと繋がり、そして放課後になった。

 ボクは終了の挨拶と共に自然に教室を退室した。その際に増渕先生がボクに向かって手を伸ばしたのが見えたが、正直に構っている場合ではなかった。ボクは急いでトイレの個室へと駆け込み、左胸を押さえて息を荒げて蹲っていた。


「これはちょっと……まずいかも……」


 数学の時間は、ずっと机に伏せていた。いや、伏せずにはいられなかった。

 胸が、洒落にならないくらい痛かった。

 この感じをボクは過去に味わっていた。

 だから、まずいと感じていた。


「はぁっ……はぁっ……」


 胸の痛みをやわらげようと、大きく深呼吸した。そして、少し落ち着いてきた。


「大丈夫……ボクはまだ、大丈夫……」


 まだ、大丈夫。

 これは一時的なものだ。

 昔みたいにはならない。

 だって、もう治っているんだから。

『希跡』が起きたんだから。

 だから大丈夫。

 ボクは大丈――



 バシャン。



 ――っ!

 突然だった。

 声を上げる間もなかった。

 何が起きたのか、理解出来なかった。


 理解する前に、強烈な胸の痛みを感じた。


「あ……うっ……」


 ボクは体を縮めるように小さくなり、胸を押さえて倒れこんだ。

 その瞬間に、冷たいものがボクの顔についたのが微かに分かった。

 水だった。

 何故水が?

 その答えは一つだった。

 ボクは水を頭から掛けられたのだ。


「う……っぐ……」


 何が起きたのか理解した途端、胸の痛みは一層強くなった。

 意識が飛びそうな程。


「あ……っく……」


 ボクは奥歯を噛み締めて、右手は胸を押さえたまま、左手で個室の扉を開けることを試みた。

 誰がこんなことをしたのか確認しようとした。

 しかし、そんなことをしなくても、誰だか判った。

 声がしたのだ。

 その声の持ち主に、ボクは聞き覚えがあった。


 まさか……あの人が……


 と、認識した瞬間に――急に胸の痛みがやわらいでいった。

 何だか、とても眠たくなった。

 瞼がとても重かった。

 手足が自由に動かなかった。

 駄目だった。

 もう何も出来なかった。

 あの人はこう思っているんだ。


『死ね』


 このままだったら、そうなるかもしれない。

 でも。

 でも、ボクは――



 ボクはまだ――生きたい。



 そう思い強く奥歯を噛み締めると、手足が少しだけ動かせた。


「く……っう……」


 最後の力を振り絞ってトイレのドアの鍵を開けた。

 いや、開いたかどうか判らなかったが、確かな感触はあった。

 お願い。

 誰か、ボクを見つけて。

 誰か、救急車を呼んで。

 誰か……誰か……


 誰か……助けて――

 ボクの意識はそこで途切れた。

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