第43話 ボクと誤解と水と恨み -05
五
「……はぁ」
ボクは溜息ではなく、小さく息を吐いた。
「うん。何かすっきりした」
事実、決意した時にボクの涙は止まり、不思議と落ち着いた。
「……」
さっきボクは、これからずっと無理をするということをちゃんと認識した。
覚悟もした。
これで、いつものボクに戻れる。
でも。
でも、ただ一つだけ。
ボクは彼が好きだ。
その気持ちを隠すことは出来ても、笑顔は作れない。
このことだけは無理矢理、笑うことは出来ない。
無理をしても、出来ない。
だから――
「その気持ちがある限り、ボクは……笑わない」
ボクは、窓に描かれた泣いている笑顔を掌で消した。
――ちょうどその時。
ガラガラと音を立て、教室の後ろの扉が開いた。
奇妙な歌と共に。
「きょ、きょ、きょきょ今日はいっちばーんだよーん。『高見隊員、戦闘準備!』『どこで戦闘ですか?』『デパートや! 今日はバーゲンやねん!』。ららら相手は最強、大阪のおばっちゃーん……って、うおっ!」
「……」
どんな登場の仕方ですか、高見君。彼は目を思い切り見開いて、ボクを見る。
「い、いたのか、鈴原さん?」
「いたよ」
「……今の見た?」
「見たって?」
「あの……その……さっきの……」
もじもじする高見君。
その時、思った。
ボクと彼の台詞は逆じゃないのか。っていうか、本来だったらボクが焦るべきではないのか。あんな醜態を晒していた訳だし……まぁ、彼が先にこんなに狼狽してくれたことから、彼がさっきのボクの言動を聞いていたのでは、という心配はしなくていいということがすぐに分かったのだが……うん。だから、どうでもいいのか、これ。
とりあえず今は、彼に返答しなくては。
「見てないよ」
嘘をついてみた。
「うわぁ! やっぱり見られたんだぁ! もう、この世に住めない!」
あっさりばれた。
「いやいや。ボクに見られたって、別に構わないじゃない」
「だって、恥ずかしいじゃん」
彼は顔を真っ赤にして思いっきり首を振った。というかそもそも、別に振り付けをしていたわけでもないんだから、見られたことよりも聞かれたことの方を恥ずかしいと言うべきじゃないのか、と疑問に思ったが、あまりにも細かいことなのでスルーした。
そして彼は人差し指を唇に当て、必死な顔で手をパンと叩いて頭を下げた。
「鈴原さん、お願いだから誰にも言わないで」
「分かった。言わないよ」
ボクはこっくりと頷き、周りを見渡して、彼に対しての慰めの言葉を口にした。
「まぁ、真美と奈美がこの場にいなくて良かったね。いたらどんなことになるか……っていうか今、ロッカーの中にでもいそうだけどね」
「あぁ、それはないよ」
「流石にそうか。でも、あの二人なら……」
「いや、確かにあの二人なら有り得るけど……今日は、絶対にないんだ」
「……何で?」
きっぱりと断言する高見君に、ボクは理由を訊ねた。
「だって、あいつらは親戚の法事で昨日から北海道に行っているんだってさ。んで、三日ほどあっちにいるらしいから、明々後日まではいないよ」
「え……?」
その言葉に、ボクは絶句する。
「そんなこと、ボク、聞いていない……」
親友として、それはちょっと悲しい――
「あー、あー……」
高見君は困惑した表情で目線を上に泳がす。
「あいつらに止められてたんだけど……まぁ、いいや」
やれやれと額に手を当て首を振った。
「あいつら、鈴原さんに心配してもらいたかったんだそうだ。学校側に風邪だって言わせてな」
「……何で?」
「さぁ。そして心配して家に訪ねてきた鈴原さんを翻弄するつもりだったんじゃないか? 例えば『カメルーンに引っ越しました』とか玄関に張ったりな。全く、何を考えてんだか……」
「本当、何を考えているのか分からないね」
「あー心配、と言えばさ……」
高見君は目線を天井に向けたまま、思い出したかのように言った。
「鈴原さん……大丈夫?」
「はぁ?」
何なんだ、突然?
わけが分からない。
「何が?」
「あの……いや、その……」
高見君は悩むように顎に手を当て、「うーん」と唸っていた。だが、何かを決意したように頷くと、気まずそうにこう言った。
「……実は俺、昨日……見ていたんだ」
「昨日?」
今日じゃなくて?
……ちょっと待って。
「まさか……」
高見君は、こくりと頷いた。
「昨日、鈴原さんと、鈴原さんが『先生』と呼んでいた人物が抱き合っていたのも。そして、それを見た英時が駆け出して行ったのも。そして――鈴原さんが英時の名を叫んでいたのも、全部」
「……っ!」
見られていた。
知っている人に。
しかも――英時の親友に。
「……そこでさ。一つ質問があるんだけど、いい?」
そう言う高見君の表情は、いつの間にか真剣なものになっていた。
高見君はとても重要な質問をするんだと、ボクは理解していた。その質問内容もある程度は予測できた。
だからボクは、首を縦に動かした。
それを見て高見君は小さく頷き、訊ねる。
「あの先生って呼んでいた人は、鈴原さんの――彼氏なんかじゃないよね?」
……驚いた。
てっきり「あの先生って呼んでいた人って、彼氏でしょ?」と訊かれると思っていた。
「どうしてそう思うの?」
「だって、あの状況だったし……」
「あの状況? 抱き合っていたんだよ、ボクと先生は」
「その後のことだよ。『英時』って、叫んでいたじゃない。彼氏の目の前で他の男の名を必死に叫ぶなんてことをする人はいないよ」
「確かに……そうだけど」
「あと、決定的なのは……今の鈴原さんだよ」
「今のボク?」
「うん。何と言ったらいいか……変だよ」
「変? 何それ。失礼じゃない? その言い方」
「うん。それが変だよ」
高見君は真面目な声で、こう続けた。
「ツッコミが甘い」
「……はぁ?」
え? そうなんだ。
でも……だから、何?
「ツッコミが甘いのとさっきのと、何が関係あるの?」
「つまり、鈴原さんの様子がいつもと違う、ということだよ」
高見君はゆっくりと教室内を歩き始める。
「昨日の鈴原さんの『英時』と叫んだこと、今日の鈴原さんのいつもと違う様子。一つ目のだけなら、英時に見せつけるために叫んだとも、まあ無理矢理にでもそう考えられる。二つ目だけなら、英時を振って悪いと思っているからだけとも考えられる。この二つから導き出される真実は、ただ一つ!」
ダン、と机を叩いて高見君はボクを勢いよく指差した。
「すなわち、君は英時に彼氏でもない人と抱き合っているのを見られてショックを受けているという結論だ!」
「異議あり」
ショックを受けたのは昨日の話であって、今日変に見えるのはおそらく、これから一生無理をすると決意したからである。
「でも、まぁ……異議でもないか」
実際、先生はボクの彼氏ではないのは本当だ。
ここまで見抜かれちゃ、しょうがない。下手に彼に探られてそれが英時の耳にでも入ってしまったら、決意が揺らぐようなことになるかもしれない。
「確かにそうだよ」
ボクは首肯した。
「ボクが『先生』と呼んでいた人は彼氏じゃない。あの先生は、ボクにとってとても大切な人ではあるけど、恋愛感情は一切ない」
先生は文字通り、ボクの命の恩人。
だけど、恋愛感情などはない。
そう。
「ボクにとっての恋愛感情の類は――」
――と。
そこまで言って、ボクは大変な間違いを犯しかけていることに気がついた。
この先は、絶対に言ってはならない。
言ったら、先程までの決意を全て破ることになる。
それは、絶対に駄目だ。
幸い、彼一人しかこの話は聞いていない。
彼の口さえ封じれば……
「……ねぇ、高見君」
「おぅ。何だ?」
ボクは静かに息を吸い、そして――
「きょ、きょ、きょきょ今日はいっちばーんだよーん。『高見隊員、戦闘準備』『どこで戦闘ですか?』『デパートや。今日はバーゲンやねん』。ららら相手は最強、大阪のおばっちゃーん」
「なっ!」
高見君は表情を歪ませ、硬直した。
「そ、それは……」
「これ、言われたくないよね?」
脅し。
本来なら笑みを浮かべながら言うのだろうが、今のボクは笑うことがどうしても出来ない。だから、そう言った時の表情は淡々としていたはずだ。おそらく、それが怖かったのだろう。高見君はカーテンの後ろに隠れて「はうはう」と言い始めた。
「な、何を要求するつもりだ! 金か! 名誉か!」
彼は本気で泣きそうになっている。そんなに怖かったのだろうか。
……まぁ、いい。
「ボクは君に、黙っていて欲しいだけだよ」
「……え?」
「先生が彼氏じゃないこと、そしてボクが言ったこと……あぁ、それと君が昨日見たボクの行動も今日話したことも内容も全部、誰にも言わないで黙っていて欲しい」
「……」
口を半開きにしながら高見君は、そこで少し考える仕草を見せた後、
「分かった。等価交換だな」
笑顔で左手の親指を上に立てた。まあ、全然、等価ではないのだけれど。
「……んじゃ、そういうことで」
話を切り上げ、自分の席へと戻ろうと高見君に背を向ける。
「……笑わないんだな」
「え?」
その小さく聞こえた声に、思わず振り向いてしまう。
彼は、また真剣な表情に戻っていた。
「まだ何か引っかかっていると思ったら、鈴原さん、笑わないんだね」
「……」
高見君は「ふぅ」と短く息を吐くと、微笑んだ。
「真美と奈美がいなくて良かったね。そんな鈴原さんを見ただけで、あいつらは何があったかを全部探り当てるだろうよ。俺が黙っていてもね」
でも、と高見君は続ける。
「このままじゃ、もしかして英時にもバレる可能性があるよ。言っておくけど、俺は君と英時がくっつくことを願っている。でも、何かの事情で駄目なんでしょ。その事情が何だかは知らないけど、鈴原さんは英時のことが好きだということを隠さなきゃいけないんでしょ。なら、まず今の笑わない鈴原さんを何とかしなきゃ。少なくとも、真美と奈美が帰って来る明々後日までには」
「……」
……全く。凄いな。
ボクが英時のことを好きだという前提で話している。ボクが英時を振ったということを知っているのにも関わらずに。
しかし――彼が言っていることは全部正しい。
意外と賢いんじゃないか、と思いながらじっと見ていると、彼は「な、何見ているんだよ! 照れるだろ」と本当に照れていた。
「いや、凄いな、と思ってさ。ここまでボクの状況、そして欠点を言い当てられるとは思わなかった」
欠点。
笑わないと、おかしく思われるのは分かっていた。だけど、今のボクは笑えない。他の人にならおかしく思われても別に支障ないし、英時はおそらく二・三日はボクをちゃんと見ようとは思わないだろう。
だから、問題は真美と奈美だった。
二人はボクがこうなった原因はおろか、何故断らなくてはいけなくなったかまで調べるだろう。
そうしたら、彼女達に負担を掛けてしまう。
ただの友達の段階で止めておかなければならない。
だから、調べられたくない。
だけど、今のボクは笑えない。
ならば方法は一つしかない。
無理矢理――
「分かったよ。高見君の言う通り、今すぐ……」
「ちょっと待った」
彼は鋭く制止した。
「今すぐ笑うっていうのは間違っているよ。どうせ笑えないだろうし、笑うにしても無理矢理でしょ。もっと変になるって」
「……」
「いい? 鈴原さん」
諭すような口調で、彼は言った。
「笑いたくなかったら、別に笑わないでいいんだよ」
「……」
「じゃあ、それだけだから」
高見君はそう言うと、何故か教室の外へ出て行った。
しかし、ボクはただ呆然と立っていた。
言われた瞬間に、ボクはあることに気がついたのだ。
ボクは、先生の言葉を、まだちゃんと理解してなかったんだ。
『泣きたい時には……絶対に無理矢理笑うな』
さっきまでは、無理をするなと言っているんだと思った。
でも、先生はもっと単純なことを言っていたんだ。
無理をするな、なんてものじゃなかった。
自分がやりたくないことをするな、というだけだった。
同じように思えるが、ボクにとっては全然違った。
泣きたい時には、泣いてもいい。
先生はそう言った。
じゃあ、泣かなくてもいいんですね。
ボクはそう返した。
そして先生は言った。
泣かなくてもいい。だが絶対に無理矢理笑うな。
これが無理をするな、ということで言っていたのなら、泣かないという行動も無理をしていることになる。
しかし、ボクは泣かないでいるのが、無理をしているということではなかった。むしろ、泣くということをしたくなかった。こう考えると、無理をしているのではないのかと思うが、それよりも泣くということをしたくないという気持ちを抑える方が無理をすることになる。矛盾しているが、実際そうだった。
要するに、ボクは無理をしているのではなくて、やりたくないことをやっていないのだ。
泣きたくないから、泣かない。
笑いたくないから、笑わない。
だけど、泣きたい時、すなわち笑いたくない時には笑うな。
先生はただそう言っていたんだ。
「……馬鹿みたい。こんなことに気がつくのにこんなに時間が掛かってさ」
ボクはそう呟きながら、自分の机に戻り、伏せた。
そう考えると――一つだけ。
好きだということを伝えたかったら、伝えてもいい。
先生はそれもいいと言っているのだろうか?
「でも……それだけは……」
それだけは、断定出来なかった。
いいのか。
悪いのか。
その答えを誰に求めることも出来なく、ボクは自分の中で自問自答を繰り返した。
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