第42話 ボクと誤解と水と恨み -04

    四



「……」


 泣き疲れて、いつの間にか眠ってしまったらしい。気が付くと、時計の短針が五と六の間を指していた。帰って来たのは七時近かったから、時間が遡ったというより、一回りしたと考える方が現実的であろう。


「……もう、朝か」


 声が嗄れている。喉が思いきり乾いている。

 昨日の夜のことは……あまり覚えていない。

 泣いた。

 声は出さないように枕に押し付けて泣いた。

 だから、枕の布はしわくちゃになっていた。


「……後で洗濯しなくちゃね」


 そう呟いた、その時だった。


 トン……トン……


 ボクは、何かが窓を叩く音に気が付いた。


「……まさか」


 ボクは急いで飛び起き、カーテンを開けた。


「……」


 外を見たボクは落胆した。

 窓を叩いていたのは――大粒の雨だった。


「……何を期待しているんだろうか、ボクは」


 昨日と同じように、英時がいると思ったのだろうか?


「全く……思いっきり寝ぼけてるな」


 だが――寝ぼけ頭でも分かる。

 昨日あったことは、夢じゃない。

 昨日の出来事があって、今がここにある。


「……学校、行きたくないなぁ」


 外のどしゃぶり雨を見て、ボクは思わず呟いた。

 いや、雨だから行きたくないのではない。

 英時と会いたくないのだ。

 いや、会いたくないわけではない。

 一晩泣いてある程度は落ち着いたとはいえ、英時に会ったその時に、どういう顔をすればいいのだろうか……それが分からない。

 だから、学校に行きたくない。

 本当、どうしよう……


「……あぁ、もう。悩んでもしょうがないか。うん。学校に行きますか。どうせ行かなかったら行かなかったで、あの二人に心配されていらぬ詮索をされるだろうしね。うん。何とかなるよ」


 そこに誰がいるのでもないのに言葉に出す。そうしないと、行動に移せなかった。

 学校では普通にしていればいい。英時とそんなに親しくなかった頃に戻るだけじゃないか。簡単なことだ。


「あはは、ってな」


 一笑。


「さぁ、こんな気持ちのいい雨の日には、さっさと学校に行ってしまおう。早起きは三文の徳だ。早登校は一六文キックだ」


 意味不明なことを口に出し、ボクは鼻歌を口ずさみながら学校へ行く用意をし始めた。



    ◆



「……さすがに、まだ人は来ていないか」


 朝早くの学校は、とても静かだった。今日は雨だから運動部も朝練はないだろうし、あったとしても体育館だ。この教室からは遠い。実際、この教室に入るまでの間に誰とも会わなかった。

 そして教室にも、誰もいなかった。

 だからだろう。少し変なことを考えてしまった。


「……こういう誰もいない時ってさ、誰かの椅子の匂いを嗅いだりするのがセオリーだったりするんだよね。中学生くらいの男の子だったら。たて笛とか舐めたり、机の中探ったりするだろうなあ。でも、ここは高校だし、高校生にもなってそんなことする人なんか……ここにいたりして」


 さすがに高校生だからたて笛なんかは置いていないし、ましてや椅子の匂いを嗅いだりなんか変態的な行動はしないが、机の中くらいは探ってみようと思う。


「さて……誰のにしようかな」


 この際だ。真美、奈美の机でも漁ろうかな。そこで弱みを握っておくのも悪くない。というか推奨。それとも高見君の机の中を漁って、真美と奈美に売るのもいいかも。でも、普通だったら、好きな人のとかのを……

 好きな、人……


「……」


 ……静かだと、色々考えてしまうな。


「いけない、いけない。笑顔笑顔」


 そうだ。笑わないと。

 いつものボクにならないと。

 憂い顔なんてしていたら、あの二人に感づかれてしまう。

 ……きちんと笑えているだろうか?

 それを確認したい。幸い今日は雨で太陽が厚い雲で覆われて外は暗いので、わざわざ鏡のあるトイレに行くまでもなく、窓がその代わりとなる。


「……ちょっと確認しよう」


 ボクは窓際へと足を運ぶ。すると窓には、結露と言ったらいいだろうか、水滴がついていて、鏡の役割を果たしていなかった。故に、指を伝わせて水滴を払う。


「笑顔笑顔……っと」


 その際に、自分の顔と同じ位の大きさの笑い顔を窓に描いてみた。


「これは今のボクだ。うん」


 満面の笑みを浮かべる、窓に描かれた絵。

 それをしっかりとした笑顔で見ているボクを、窓の水滴の付いていない部分がはっきりと映している。


「よし。ちゃんと笑っているな」


 笑う。

 ……不意に、昨日の先生の言葉が頭の中に蘇ってきた。


『泣きたい時には泣かなくてもいいが、絶対に笑うな』


 大丈夫。

 今は、全然泣きたい時じゃない。

 昨日は確かに泣いた。

 笑えなかった。

 だけど先生が言っていることは、間違っている。

 泣きたい時には、笑えないんだ。

 つまり笑えている今は、泣きたい時ではないんだ。

 泣きたくないのは、もう吹っ切ったってことだ。

 だから、もう大丈夫。

 ほら、ボクはちゃんと笑え――


「……っ!」


 ふと窓を見たボクは、思わず硬直してしまった。

 さっき描いた笑顔の自分。


 それが――涙を流していた。


 両方の眼から。

 ぼろぼろ。

 ぼろぼろと。

 幾筋も。

 流れ落ちていた。


「……ははは」


 当たり前じゃないか。

 水滴のついた窓に描いたんだから。

 そりゃ流れ落ちるでしょう。

 でも……ボクはさっき言ってしまった。


『これは今のボクだ』


「これが……今の、ボクなのか?」


 笑っている。

 だけど、泣いている。


「……嘘だよ。そんなわけがない」


 そうだよ。

 これは所詮、窓に描いた絵。

 ボクは涙なんか流していない。


「そうだよ。違うよ。ボクは泣いてなんか……」


 だけど、そこでボクは窓を見て思ってしまった。

 ボクには――ボクが泣いているように見えた。

 窓に映るボクが、涙を流している。


「あはは……そんなわけがないじゃん。というより、そんな鏡のようにはっきりと見えるわけがないよ。何を考えているんだろうね、ボクは。あはははは……」


 そう言いながら、頬に手を当てる。


「……」


 指先が……濡れた。


「……違うよ。これは。窓の水滴だよ。あはは」


 笑い声を上げながらスカートの裾で水滴を拭き取り、乾いた指で再び頬に手を当てる。

 指先は――再び濡れた。


「違う……違う違う違う違う違う!」


 何度も、手を拭いた。

 何度も、頬に手を当て確かめた。

 だが、結果は――変わらなかった。

 いくら拭いても、いくら止めようとしても――涙は流れ続けた。


「違う……違うんだよ……」


 ボクは、もう理解していた。

 何で泣いているのかを。

 ただ、認めたくなかった。

 ボクはまだ――英時のことを諦めていないことを。


「う……うっ……」


 嗚咽が出始めてしまった。

 もう、我慢出来なかった。

 と――そこで。


「……そう、だったんだ」


 唐突に――昨日の先生の言葉の意味が判った。


『泣きたい時には泣かなくてもいいが、絶対に笑うな』


 これは、そのままの笑うなという意味ではない。

 先生は、こう伝えたかったのだ。


『無理をするな』


「先生……それが無理だよ……」


 無理をしないのが、無理。

 矛盾しているが、実際のボクはその通りだった。

 自分で言うのもさらさらおかしいが、今、ボクはかなりの無理をしている。

 無理をして――自分の気持ちを抑えている。

 これからも、その無理をしなくてはならない。


 ずっと。

 死ぬまで。


「……死ぬまで、か」


 あぁ、そうか。

 ようやく分かったよ。

 ボクは、一生こんな気持ちでいなければならないんだ。

 ボクは英時が好きだ。

 好きだから、傍にいて欲しい。

 でも好きだからこそ、傍にいてはいけない。

 傍にいたら、ボクは甘えてしまう。

 その結果、彼を苦しめることになる。

 それは駄目だ。

 絶対に。

 だからボクは無理をして、彼の傍にいることを諦める。


 諦めると、今――決意した。

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