第三章 僕と学校と判明と親交

第9話 僕と学校と判明と親交 -01

    一



 久しぶりに夢を見た。

 昔のことを、夢に見た。

 僕は風邪をこじらせて肺炎になりかけたことがあった。しかし入院する程ではなかったので、ちょっとした診察と薬を貰いに行くだけで良かった。

 そして、先生に「もう完全に治りました」と言われて、最後の通院となったその日。

 僕は、ある少女と出会った。

 少女は、病院の控え室の椅子に一人で本を読んでいた。その少女の服装は入院服だった。僕もその時、母親が先生と話をしていたので一人だった。僕はその頃から、いや今もだが、とてもつまらない子供だった。そのうえ余計なことも知っている、大人にとってはとても扱いにくい子供だっただろう。だから、進んで彼女に話し掛けることなどしなかった。

 しかし――彼女は違ったようだった。

 彼女は僕に気づくと本を閉じ、僕の方へと歩み寄ってきた。


「ねぇ、君。これ知ってる?」


 彼女は自分が持っている本の表紙を、僕に見せてきた。

 それは『走れメロス』だった。


「知っているよ」

「じゃあ、これを誰が書いたか知ってる?」

「太宰治だろ」


 そう答えると、少女はふるふると首を横に振った。


「これはきっと、メロスが書いたと思うの」

「メロスが?」


 うん、と少女は頷く。


「この話きっと、メロスがセリヌンティウスに送ったものだと思うの」

「は?」


 そんな話は初耳だ。

 ――いや、それ以前に、走れメロスは太宰治の作品だから、そんなことはあるはずがない。

 だが彼女は、真剣な顔で続ける。


「この話を普通に見ると、セリヌンティウスは馬鹿だよね」

「馬鹿?」


 友人の身代わりになるという、熱い友情心がある男じゃないか。それを馬鹿だと言うのか?

 彼女は頷く。


「だって、メロスに言われたからって、いいよって言っちゃうんだよ。おかしいでしょ」

「だから、それは熱い友情が……」

「友情が何? セリヌンティウスだって家族もいたでしょ? メロス以外の友達もいたでしょ? なのにメロスのためだけに死にに行くなんておかしいよね?」

「……なるほど。言われて見れば」


 メロスを信じていた、といえばそれはそれだけど、それも甚だおかしい。一人の友人とその他では、天秤が違い過ぎる。人の命は平等である。故に天秤が違う。


「だからメロスはこの本で、そんな馬鹿なことをしたセリヌンティウスに、お前は馬鹿なことをしたんだよということを教えたんだと思うの」

「……」


 そう言われると、そう思えるから不思議だ。


「でも、セリヌンティウスが何で死にに行ったかを考えて見るとね。多分こうだと思うの」

「……うん」


 僕は彼女の話に、すっかり飲み込まれていた。

 彼女は「うん」と頷き、そして言った。


「実はセリヌンティウスは……病気だったんだよ。すぐに死んじゃう」

「……」


 なるほど。それなら納得できる箇所が多い。セリヌンティウスが不治の病だったりすれば、最後は格好よく友人のために、と思うのも不思議ではない。それに、太宰治はセリヌンティウスについて細かい描写をしていない。だからその可能性もある。


「でも……だからかな? セリヌンティウスはきっと、幸せだったと思うの」

「……何で?」


 僕がそう尋ねると、彼女は――悲しそうに微笑んだ。


「だって、死ぬ前に何かの役に立てたんだよ。友人の役に立てたんだよ。そして自分のために友人に話を残してもらえたんだよ……だけど……私は……」


 彼女は、悲しそうに微笑んだまま下を向いた。


「私には、メロスはいない……」

「えっ……?」


 ……今思えばなんと愚かだったのだろう。

 その言葉を聞いて、僕は残酷な質問をしてしまった。


「君には……友達がいないの?」

「うん……」


 彼女はゆっくりと視線を天井に向けた。


「だって私は……死んじゃう病気なんだもん」

「……!」

「だから友達を作っちゃいけないの。その友達が泣いちゃうから」


 当時の僕は、この時やっと自分の愚かさに気がついた。

 彼女の表情は、僕の言葉でさらに曇ってしまった。


「私は、とても苦しかった。注射とか、点滴だとか……苦しいのは、まだこれからも続く」


 彼女は、ふらふらと窓まで歩いていった。


「でも……私にはメロスがいないんだよ。だから、止める人はいない。私が役に立てる人もいない。だったら……」


 その時、窓から強い風が吹き、彼女の髪を巻き上げた。

 そして彼女は、顔だけ振り向いて――僕に告げた。


「だから私は……もう死にたい」


 彼女は微笑みを浮かべていた。

 悲しい、微笑みを。

 死にたい。

 彼女のそれは……生半可な言葉じゃなかった。

 幼く、愚かな自分でもそれは分かった。

 重い。

 重い言葉だった。

 彼女はもう一度僕に微笑むと、後ろを向いてどこかへ歩き出そうとしていた。

 その時、僕は愚か故に、自分の考えていたことを口にしていた。


「死ぬなんて――もったいないよ」


「……え?」


 彼女は振り向いた。その表情は驚きで満ちていた。


「もったい……ない?」

「うん。そうだよ」


 僕は頷く。


「だって、死んだらそこで終わりなんだよ。これから面白いことがあるかもしれないのにもったいないじゃん」

「だから、私はそこで終わりにしたいんだよ! この苦しみから!」


 彼女は声を大にして言った。


「だから死にたいんだよ!」

「だからそれがもったいないって言ってんだろ!」


 何故だか分からないが、おそらく大声には大声で返すという単純な子供の理屈だったのだろう、僕は今まで出したことのないくらいの大声を発していた。


「死にたい死にたいって言うな! 僕は生きたいよ! だって死んだら本当に何も出来なくなっちゃうじゃん!」

「君に何が分かるのよ!」

「分かるよ!」

「何が!?」

「少ない時間でも何かは出来るってことがだよ! 残された時間で思い出を作ることが出来ることも! 人を笑顔にすることも! 大好きものをお腹いっぱいに食べることも! そして……」


 僕は彼女の眼を真っ直ぐに見てはっきりと言葉に出した。


「君のための本を書くことも出来る。だから僕は――君のために本を書く」


 我ながら、今思うと恥ずかしい話の流れだ。この頃から、大切な場面で無理矢理に思いついた結論に繋げようとする。この場合も、「死ぬなんて、もったいないじゃん」って言葉から、どうにか綺麗に続けたかった。続けて、伝えたかった。


「これで、僕は君にとってのメロスになるわけだ。だから一つ、君に言いたいことを言うよ」


 僕は彼女を真剣な表情で、こう言った。

 笑顔もプラスして。


「お願い。だから完成するまで……死なないで」


「……!」

 彼女は不意をつかれたように驚きの表情を浮かべた。やがてその表情は泣きそうになり、首を振って眼を瞑り、そして彼女は――こっくりと頷いた。


「……うん。分かった」


 そう言う彼女の表情は紛れもない

 本当の笑顔だった。

 今度は柔らかな風が、彼女の長い髪を優しく揺らした。

 ――とても綺麗だった。

 思わず、僕は見蕩れてしまった。


「あの……」


 僕は彼女のその言葉で、はっと気がついた。


「な、何?」

「あの……握手を……」


 彼女は、はにかんだように笑みを浮かべて、おずおずと右手を差し出してきた。


「……うん。分かった」


 僕は何か照れくさいなと思いながら、その手を握り返した。

 僕達は数秒間、見つめ合った。

 すると、お互い笑い声を上げた。

 何がおかしいわけでもない。

 でも、笑った。

 一きしり笑った後、僕は彼女に尋ねた。


「君、名前は?」


 彼女は、優しく微笑み、そして口を動かした。


「私の名前は――」

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