第2話 僕と夕日と電車と出会い -02

    二



 その後、彼女は事故の当事者ではあるが被害者ではないという理由もあるが、足の怪我が心配だったため無理矢理女性の駅員さんに頼んで医務室の方へ連れて行ってもらった。

 そして僕はというと、


「足を滑らせて落ちてしまいました」


 連れられた駅員室でこう述べていた。落とされたことを言わなかったのは面倒だったからである。よくあることなのか、事務的に二、三言注意を受けると、思ったより早く解放された。

 駅員室を出ると、ちょうど彼女がここに向かって来るのが見えた。足を引き摺っているが、駅員の姿は傍にない。恐らくだが、彼女が強く断ったのであろう。


「送るよ」


 彼女の足の痛みの原因は間違いなく自分にあるので、僕は勧んでそう申し出た。

 その帰路。

 夕日が映えるコンクリートロードを、僕と彼女は歩いていた。彼女は足をヒキヅッて時々休憩を入れながらも、ゆっくりと自身の足で歩いていた。僕はせめてと彼女の荷物を持ってペースを合わせて黙々と歩いていた。


「……ところでさ。一つ聞きたいことがあるんだけど」


 突然、彼女はそう沈黙を破った。

 立ち止まって彼女の方を見る。


「聞きたいことって?」

「うん……あのね」


 彼女は、その吸い込まれそうな瞳を僕に向けた。


「どうして、落とされたことを言わなかったの?」

「……え?」


 僕は少しだけ硬直した。


「落とされた、って……何で……?」


 何で知っているのか、と口にしそうになった。

 僕は、駅員に「自分で落ちた」と言った。

 しかも彼女には「死にたい」と口にした。

 その状況で誰が、僕が落とされたと判るだろうか?

 駅には下校途中の学生が大勢いた。あの中で、僕が落とされたと判るためには、僕の姿をずっと見ている必要がある。

 まるで、犯人のように――


「ん? もしかしてボクを疑ってる? 言っておくけど、ボクは犯人じゃないよ」


 彼女は眉をしかめた。


「っていうかさ、突き落としておいて助けるなんて甚だおかしいでしょう?」

「うん……まぁ、確かにそうだな」


 それに彼女は、僕が落ちた場所から近かった、明らかに違う所から降りて来た。もし彼女が犯人なら、長い棒か何やらを使わない限り無理だろう。

 だから、彼女は犯人ではない。


「じゃあ、何で落とされたということが分かったの?」

「それは見ていたからだよ。落とされたその瞬間を」

「え……?」


 驚きの言葉を口にしてしまったが、少し考えれば分かったことだ。

 僕が落とされたことに気が付いたから、あんなにもすぐに線路の下に来てくれたのだ。

 ――ならば、彼女は知っているはずだ。

 僕は彼女に訊ねた。


「ということは……僕を突き落した人を見た?」


「ごめん。見ていないんだ」


 彼女はゆっくりと首を横に振った。


「……そうか」

「あの角度じゃ誰が突き落したかは見ていないんだけどね……あ」


 と、彼女は手を一つ打つ。


「でも腕だけは見えたんだよ。で、ここに腕時計があってさ。普通だったけど……何となく覚えているから、見れば判るよ。多分」

「いや、普通の時計なら同じものをつけている人が何人もいるだろうから、それが決定打にはならないんじゃないかな?」

「確かにそうだよね」


 そうだ。判るはずがない。

 そんなもので判るなら周りにいた人々は気付いているはずだ。犯人は周りの人が気付かない程さりげなく突き落としたのだろう。


「……ねえ?」


 彼女は、下を向いたまま訊ねてきた。


「もし……もし犯人が判ったら、その……どうするの?」

「……どうするって?」

「いや、あの、その……仕返しとか」


 あぁ、そういうことか。


「何もしないよ」

「えっ……」


 彼女は顔を上げ、眼を見開いて僕を見た。


「何で?」

「何で、って……何で?」

「だって突き落とされたんだよ? 命の危機にあったんだよ? なのに……って殴るとか同じ目に合わせるとかそういうことしろっていう訳じゃないけど……でも矛盾してるけどさぁ……っあぁ! もうっ!」

「……混乱してるなぁ」


 思わず笑ってしまった。


「復讐する訳がないじゃないか。だって僕は

「へ……?」


 彼女は呆気にとられた顔をした。その顔を見てまた顔がにやけてしまう。

 だって……


「だって僕は死にたいんだよ?」


 そう。

 僕は死にたいんだ。

 だから、恨むはずなどない。



 きっかけをくれて。

 そう。

 僕が死ぬための条件を満たしてくれて。


「だから僕が犯人を恨むことはな――え?」


 僕は思わず言葉を止めた。

 彼女の肩が、小刻みに震えていた。

 もしかして――泣いているのか?

 ……何がなんだか分からない。


「何で……?」

「何でってこっちが言いたいよ。何でそんなことを言うの?」


 彼女はキッと睨みつけ、声を荒げて僕の胸倉を掴んだ。どうやら泣いていたのではなく、怒っていたらしい。それも、足の痛みが吹き飛ぶ程に。


「何でそんな簡単に死ぬなんて言うの? 死ぬってことが本当に判ってるの? 何でそんなに死にたいの?」

「……」


 それは……


「……やりたいことが何もないんだ」


 彼女のあまりの真剣な言動に、僕は思わず、自分の気持ちを正直に話し始めてしまった。


「自分の生きる理由がない……この世がつまらない。だから……」


 ――……あれ?

 ちょっと待って。

 何故だ?

 何で今、僕は――こんなに苦しいんだ?

 自分の思っていることを、ただ話しているだけなのに、どうしてこんなにも胸を締めつけられるんだ?

 ……判らない。

 何故か彼女を見ていると、そうなる。

 この気持ちは何だろう……?

 喜怒哀楽では表せない、複雑な気持ち。

 今まで、こんな気持ちになったことは、一度もない。

 ……その答えは、今は判らない。

 でも、この気持ちが分かるまでは――


「……まだ死ねない」


「え……?」


 彼女の胸倉を掴む手の力が緩んだ。


「どういうこと?」

「ごめん」


 あはは、と曖昧な笑顔を浮かべて、彼女に言う。


「なんか死にたくなくなっちゃった。さっきと違うけど……うん。まぁ、心変わりしたってことで。ごめんね」

「なっ……」


 彼女は思い切り睨んでくる。

 だが、すぐに肩の力を抜くように表情を緩める。


「いや……もう怒る理由はないよね……あいたたた」


 彼女は急にしゃがみ込んで足を抑える。やはりアドレナリンが分泌されていたことで痛みを感じていなかっただけだったのだ。


「大丈夫?」

「あ、うん。大丈夫だよ」

「無理しないでね。ごめんね」


 そう言いながら僕は手を伸ばすと、彼女は顔を背けた。


「あ、うん。でも……男の子にそんな触れ合うと噂が……」

「そういうことを言っている場合じゃないでしょう。ほら」

「あっ……」


 僕は無理矢理、彼女の手を握った。だけどそのまま立たせようと引っ張りはしない。それは彼女の足に負担が掛かってしまうからだ。


「もう手は握っちゃったよ。続いてこのまま肩も貸そうか?」

「流石に肩まではいらないよ。大丈夫……きゃっ」


 そう言って立ち上がった彼女に対して僕はすかさず身体を引き寄せ、少し屈み込んで怪我している方の足側の肩に入った。

 甘い香りが鼻孔をくすぐる。腕の柔らかな感触にも少しドキリとする。だけど表面上には決して出さずに表情を引き締めると、彼女が少し紅潮させた顔で問い掛けてくる。


「な、何を」

「やっぱり辛いでしょ? 手伝うよ」

「い、いいって!」

「あと少しだけだから」

「な、何が?」

「ほら」


 僕は右方向を指差す。彼女はその指の先を見ると「あっ」と小さく声を漏らした。


「ボクの家だ……いつの間に……」


 立派な一軒家の表札には、鈴原と掛けてある。やはり彼女の家で合っていたようだ。


「あと少しだけ頑張って」

「う、うん……」


 僕は彼女に肩を貸しながら、ゆっくりと玄関先まで向かい、そこで彼女から離れ、荷物を手渡す。


「玄関先まででごめんね。家族に変な勘違いされちゃうのは鈴原さんも困るでしょう? だから僕はここで帰るよ。じゃあね」

「あ、うん。それじゃあね……って、ちょっと待って」


 少しだけぼーっとした様子の彼女であったが、僕が振り向いた瞬間にその裾を掴んできた。


「どうしたの?」

「あのね……」


 振り向いた瞬間、僕は心臓が止まるかと思った。


「今日はありがとう」


 笑顔。

 真っ直ぐな言葉とその真っ直ぐな笑顔は、単純に綺麗だと思った。

 呆気に取られてしまった。おそらく口も開いていただろう。

 僕には、さっきの笑顔が、何か特別なものに見えた。

 また、無性に眼を逸らしたくなった。

 しかし、何故か。

 本当に何故かだが――

 あの笑顔をいつまでも見ていたかった。


「……こちらこそありがとう」

「え?」


 ……何を口走っているんだ、僕は?

 慌てて誤魔化す。


「いや、あの時、助けてくれて、って意味でさ」

「ああ、うん。考え直してくれたようで良かったよ」


 ……違う。

 本当は笑顔を見せてくれてありがとう、っていうのが本心だ。

 ……本心?

 何で僕はそんなことを思ったんだ?

 彼女の笑顔に、何故、ここまで心を動かされているんだ?

 それはそうと、彼女のさっきの笑顔を見てから、何か耳の中が五月蝿い。

 病気だろうか?

 それに何だか判らないが……とても恥ずかしい。


「それじゃあ、また明日」

「うん。じゃあまた明日」


 彼女が手を振るのを見ると僕は彼女に背を向けて帰路についた。

 今日は疲れた。早めに帰って静養しよう。

 休まないと、僕の中で何かがおかしくなる。

 いや、現におかしくなっている。

 耳がおかしい。

 その後、家に帰ってベッドに伏せるまで、僕の耳はほとんどの音を通さなかった。

 しかし、たった一つの音だけは――僕の耳の中でずっと鳴り響いていた。



 

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