第一章 僕と夕日と電車と出会い
第1話 僕と夕日と電車と出会い -01
一
こんな話を聞いたことがあるだろうか。
溜息をつくと、その分だけ幸せが逃げるらしい。
しかし、それは嘘だと思う。
もしそれが本当なら、僕は今日だけで既に九七回分も幸せが逃げていることになる。しかし一日に、九七回も幸せがあるものだろうか? いや、ないだろう。
……まぁ、どうでもいいことだけど。
「はぁ」
本日九八回目の溜息をし、僕――
綺麗なオレンジの夕焼けが反射するホームで列を為す人々の一番前に、僕は一人きりで立っていた。
唐突に告白させてもらおう。
僕は、この世界がひどくつまらなかった。
僕は何でも出来た。
勉強も運動も何の努力もせずに、人の上を行くことが容易に出来た。
しかし、これは自慢ではない。
むしろ、これは僕の『劣等感』である。
頂上にいる者は、自分が下に降りることはしない。
いや、出来ない。
だから、一番の者は『一番』下には、決してなることが出来ない。
何でも一番になることは、絶対的に不可能なのである。
僕の両親もそれを十分に理解していたのだろう。僕に「一番になれ」とは、一度たりとも言わなかった。
だが、両親はそれ以上に僕を苦しませることを言った。
「自分のやりたいことをやり通せ」
それが、僕の『劣等感』の原因だった。
やりたいこと。
僕にはそれがない。
何をやっても、物足りない。
何をやっても、すぐに頂点に立って終わってしまう。
何か足りないものがあれば、必死になってそれを補おうとするが、それがない。
だから、つまらない。
……そういえば、小学校四年の時の担任が、授業中にこんなことを言っていた。
「人間は、何かの目標のために生きているのです」
だからみなさん、目標のために頑張りましょうと続くのだが、正直な話、先生は阿呆だなと思った。
その『何かの目標』が僕にはないのだ。
なら、僕は何のために生まれ、何のために生きているのだろうか?
生きる意味が見つからない。
この世に生きているのがつまらない。
だから僕は――死にたかった。
死ねば、何か変わるかもしれない。
もしかしたら、僕は死ぬために生まれてきたのかもしれない。
その考えに辿り着いたのは、一ヶ月前のことである。
しかし、僕は未だに生きている。
頂上にいる者が自分から下に降りることが出来ないように
生きている人間が、何もなしに死ぬことは出来ない。
結局は、僕が考えている理由では、死ぬに値しないということか。
「……はぁ」
九九回目。また幸せが逃げたらしい。
ふと、今の僕にとって幸せとは何だろうかと考える。
死にたい僕にとっての幸せは――死ぬきっかけを与えられること。
この状況では、例えば、線路に突き落とされるとか――
――その時だった。
「え……?」
誰かに――本当に背中を押された。
無防備だった僕は、地面から足が離れていくのを感じた。
落ちたのだ。
違う。――落とされたのだ。
僕はホームの下へと転落した。
腹部を少し打ったが、大したことはない。
――だが。
僕はホームへと戻らず、痛みで動けない振りをしてうつ伏せの状態で倒れていた。
理由は単純明快。
このままの状態でいれば、死ぬことが出来るからだ。
しかも誰かに押されたため、賠償金などの心配をしなくていい。被害者なのに払わされたらたまったものではない。もしそうなったら鉄道会社を訴えるしかない。もっとも、そうなった場合には既に死んでいるので訴えることは出来ないのだが。
なんて考えながら、安堵も含めて口元を緩める。
――そうだ。死んだ時刻くらい覚えておこう。
ふとそう思い、右腕に付けた時計をちらと見る。
時刻は偶然にも――午後四時四四分だった。
しかしこの時、僕にとって不幸なことが二つあった。
一つは、電車が来るまでに時間があったこと。
そしてもう一つは――
可愛い女の子が降って来たことだった。
「痛ーっ!」
華麗に着地出来ず、彼女は線路に尻餅を付く。
あまりにも突然だったので、僕は彼女を凝視する。
青みがかった長い髪。白い肌。少し大きめな眼。整った顔は綺麗というよりも可愛いと言える。ただ、意志の強そうな眼をしていた。
と、その眼を彼女は僕に向け、そして訊ねる。
「えっと……大丈夫?」
彼女の言葉。
それは助けを求めるものではなく――僕を心配する言葉。
最初僕は、彼女も落とされたのだと思っていた。
だが、違う。
どうやら彼女は、自分から降りてきたようだ。
つまり――僕を助ける為に降りてきたということだった。
「あ……」
その彼女は、突然、小さく声を漏らす。
その瞬間、大きな警笛音が鳴る。
それは、僕が待ち望んでいた――電車が到着する合図。
「やばっ!」
彼女は焦った様子で立ち上がろうとする。
が。
「……っ」
すぐに彼女は顔を顰め、しゃがみ込む。どうやら降りた時に何処かを痛めたらしい。
それでも、彼女は膝を立て、線路からの脱出を図ろうとする。
そして――
「早く!」
彼女は――僕に向かって必死に手を伸ばす。
その手は、僕に助けを求めている手ではない。
僕を助けようとしている手だった。
しかしながら、彼女は気が付いていない。
いや、気が付いているのだろうか?
このままでは彼女も電車に轢かれてしまうことに。
しかも、彼女は足を痛めているようで、恐らく一人でホームに戻ることは出来ない。そんな彼女が、僕を救えるとは思えない。
そんな中、警笛音はどんどん近付いてくる。
彼女の表情が電車の方を向き、硬直する。それなのに、まだ逃げようとしない。
どうして彼女は逃げようとしないんだ?
どうして彼女は僕を助けようとするんだ?
どうして――
「……」
もう――あれこれ考えている場合じゃない。
「ったく」
体をバネのように跳ね起こし、瞬時に彼女の元へと向かう。そして彼女を抱きかかえてホームの下のスペースへと滑り込んだ。
そういう行動に出た理由は分かっていた。
僕は死にたかった。
だけど、誰かを死なせたくなかった。
刹那。
真横で、鼓膜が破れるかと思うくらいうるさくブレーキ音が響いた。
そう感じるということは、僕達は助かった、ということである。
「……はぁ」
一〇〇回目の溜息はホームの下、線路の上だった。
溜息と幸せの関係は本当だったかもしれないな。
こうしてある種の幸せが逃げて行ったわけだし――
「あ、あの……」
近くから弱々しい声が聞こえた。
その声がする方向――僕の腕の中を見た。
可愛らしい顔が近くにあった。
僕はこの顔に見覚えがある気がしていた。
いや、見覚えがあるというレベルの話ではなかった。
彼女が着用しているのは、僕の通っている高校の制服。
加えて彼女は、同じクラスの女の子。
僕の隣の席の女の子であった。
「あ、あの……」
彼女は蚊が鳴くような小さな声で話し掛けてくる。
「ん? あぁ、ゴメン。何?」
「降ろせ」
……耳がとてつもなく狂ったかな?
とりあえず降ろすことにしよう。
「ん……ありがとう……」
「いや……こちらこそ」
何となくそう返してみると、突如彼女は「というかさ!」と叫んで頭を抱える。
「ボクが感謝される立場になるはずじゃないか!」
鈴原さんって、こんな感じだっただろうか? 僕が知っている彼女とは違う気がする。僕が知っている彼女も明るいけれど、こんなテンション高くはなかった気がする。
それに忘れていた。
彼女は自身の一人称を「ボク」という、通称「ボクっ娘」だったのだ。
「あ……あの……」
戸惑いつつも、彼女に声を掛ける。
だが彼女は反応せず、呪詛のごとくぶつぶつと呟いていた。
「ボクが動けない遠山君をシュパッと助けようとしたのに……逆にボクが遠山君に、バビュッと助けられてしまった……動けない遠山君に……って!」
彼女は信じられないものを見たように僕を指差す。
「動けたの!?」
「見ての通り」
しまった、と正直思った。ころころ変わる彼女の行動に平常心を失ってしまったのか、正直に答えてしまった。
彼女は大きく開いた眼を尖らせて、僕に怒りをぶつける。
「何やってんの!? あのままだったら轢かれてたよ!?」
「そうだね」
「そうだねって……死んじゃうところだったんだよ!」
「そうだね」
「そうだねって死にたいの!?」
「そうだよ」
「そうだねって……えっ……」
彼女は絶句した。
当たり前だろう。
死にたいのか聞いて「そうだ」と答えられたら、普通はひくか、もしくはドラマみたいに「馬鹿! 死ぬなんて言わないでよ!」って言って頬でも叩くだろう。実際に他人に言ったことはないが、そうに違いない。
――そう思っていた。
「……だったらさ」
真剣な表情で、彼女は手の平をこちらに向けてきた。
「君の命、ボクにちょうだい」
「……はい?」
思わず耳を疑った。
彼女の口から、あまりの予想外の言葉が出て来たからだった。
「だから、死にたいなら、長生きしたいボクに命をちょうだい、って言ったの」
「いやいや、君、何処の死神なのさ?」
思わず口走った為にこちらとしても予想外の返しに、彼女は目尻を下げる。
「死神という言葉が出てくるあたり、結構二次元的なこと好きなの?」
「いや、そこまでではないけど」
「ああ、ライトオタクってやつだね。ボクもなんだよ」
「どうしてそんな告白を唐突にしてきたんだ?」
「え? だって遠山君が死神って……」
「あの……」
と、声が降ってくる。
僕と彼女以外の声。
そこで僕達は気が付いた。
中年の駅員が心配そうにこちらに声を掛けて来たことを。
そんな中、死神、死神と訳が判らない会話をしていたことに。
「……はあ」
僕は羞恥も含めて、一〇一回目の溜め息を吐いた。
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