レヴェル・プラネット

アナウンスされた通りの時刻に警告音が鳴り、軌道エレベーター外殻の宇宙線シールドが雨戸のように格納されると、久しぶりに部屋を自然の光が跳ね回った。

その瞬間、僕のまつげの辺りには七色のスペクトルが爆ぜ、その予想外の圧力に思わず手で目を覆ってしまった。

こんなに強いものだったっけ。

いままでサボりにサボりを重ねていた瞳孔は突然の光量増加に驚いて、ほとんど対応できなかったようで、目を瞑っていても真っ白な残像が眼球の裏辺りに焼きついたようになっている。一ヵ月のブランクは易しくなかったようだ。急いで引き出しを開けて薄目でサングラスを探り出し、慌てて装着したが、まだ少し目が潤んでいるのがはっきり感じられた。

眩しかった。でも少し、嬉しかった。

「これじゃ緑星だ」

半日ほど経って光にも慣れてきたのでサングラスをはずし、直接外を覗いてみた。

それまで壁だった部分は天井から床まで大きな窓になり、その幅は寝転がっても足りないほどで、上部から3分の1程度はバウムクーヒェンの床と同じ、淡い緑色のグラデーションになっている。

窓から大地を見渡すと、いつの間にかずいぶん近づいており、宇宙から見た時には分からなかった地球と火星の違いが段々分かるようになってきていた。

遠くから見た火星は地球となにも変わらない印象だが、近づいてみると必ずしもそうではない。高空から見た緑は普通の樹木のようだったが、影の具合から察すると実はほとんど低木のようで、地を這うように生える彼らの腰の曲がりから火星の気圧の低さが伺える。そしてそんな低木もあまり生えていない部分には芝生のような草地か、苔の群生地が広がっており、イメージ通りの赤茶けてゴツゴツした火星の大地の部分はそれらの間を肩身狭そうに点在する程度しかない。

つまり、緑と赤の勢力は地球と似たように圧倒的で、赤い面積の存在はまさにレッドデータといった感じだ。

この圧倒的な適応力は遺伝子改造の賜物だろう。広葉樹らしき木がほとんど無い植生を見る限り冬は厳しそうだ。

地平線から足元に視線を移すと、まっすぐに伸びる帯状のエレベーターケーブルが見える。そしてその先には白っぽく円形に広がる街が繋がっており、似たようなものが結構な距離をとって大地の緑の中にポツリポツリとうかんでいる。どうやらこれが火星の都市らしいが、まだ高度が高いため、詳しい部分は良く見えない。しかしなんでまたこんな風に離れているのだろう。近いほうが何かと便利に思えるし、パッとみただけでも惑星上にはまだかなりの土地が余っている。また、街がとても綺麗な円を描いているのも不思議だった。

そんなことをつらつら考えていると、回生ブレーキの音が少し大きくなった。地上が近づいてからというもの、減速をかねて本格的に発電しているらしく、この音がかなり耳障りで、連絡船の空調が恋しくなるくらいだ。

考え事を中断され、いい加減うんざりしてきたので少しでもこの騒音を遠ざけようと布団をかぶったとき、机上のLAAの画面が光った。

通信だ。

といっても、この星の上で、僕のことを知っている人間は、まだ一人しかいない。

「おーい、けい、元気かー……ってあれ、寝てるのか?もしもーし」

父だ。そういえば着いたら連絡しろと言われていたんだった。「あー」とかなんとか適当に返事をして布団から這い出し、点灯している通話ボタンを押すと、キーンという水琴窟のような音がして、向こうの様子と共に画面の右隅にこちらの映像が映った。薄緑色の半透明レイヤーに書かれた接続完了というメッセージは出てすぐに消えた。

向こうの背景は明らかに室内からだが、周囲の音はいやに騒がしい。

「あ、出た。寝てた?ごめんな、でも軌道エレベーターに着いたら連絡しろって……おい、お前顔すごいな。真っ白だぞ」

父親はというと少し日焼けしており、いつも通り頭にタオルを巻いて、汗でまだら模様になった黒いTシャツを着ている。一ヶ月も先に火星入りしているのだから、サイケなアルミホイルのような全身スーツか、ラップフィルムでできた透明なジャケットを着ているのではないかと期待していたのにガッカリだ。写ってはいないが、どうせ下だっていつも穿いているジーンズのハーフパンツに便所サンダルなのだろう。

「そりゃ一ヶ月も陽を浴びてなけりゃ白くなるよ。これでも一応元気だよ」

「まあ、確かに、俺もそうだった」

「でしょ?あと連絡の件は、正直、ごめん。忘れてた」

「おい、浮かれすぎだぞ」

父は少しニヤついて続けた。

「まあ、でもその気持ちも分からんでもないがな」

父の表情からは新しい生活を迎えての希望や、やる気みたいなものがにじみ出ている。

僕は、どうだろう。

「だから連絡してくれて良かったよ。で、そっちはどうなの」

「ああ、それかー。参ったよ。なんか湯沸しのシステムが二転三転しててなー。俺はもう木燃やしちゃえばいいじゃんって思うんだけど、やっぱりそうもいかないみたいでな」

そりゃそうだ。燃やす樹なんかここにはそうそう無いだろう。地球で「真水をくみ上げて、海水と混ぜたいのですが」というようなものだ。怒られるに決まっている。というか、

「木ーぃ燃やすのは駄目なんですか?あ、廃材とかでもいいです」

と地球での打ち合わせで発言して、火星のコーディネイターは眉間にしわを寄せていた。

「うまく行きそうなの?」

「まあ、正直分からんな」

「分からんって……」

間髪入れず返答が帰ってきた。いつも「分からん」だけは即答だ。なにかそういうポリシーがあるのだろうか。

しかし、そんなに迷走しているのならこの音は何なのだろう。止む気配が無いし、よくよく聞いてみると何種類かの重機のようなものが稼動しているようだ。

「分からんけど、とりあえず建物を作っているところなんだ。はは」

やっぱり工事の音だったのか。にしても、とりあえずって、本当に大丈夫なのだろうか。相変わらずの楽観主義には閉口する。でも今回のは今までのとは格が違う。年中行事の、財布を落として「やっちまったよ、はは」とは比べ物にならない。ガスもねえ、石油もねえ、コークスなんか見たことねえ、そして木だって燃やせない。一体、そんな星でどうやってお湯を、それも大量に沸かすんだ。情熱か。情熱を燃やすのか。それは置いておいても、そんな状態なのに工事しちゃってるってどういうことなんだ。大丈夫なのか。いろいろ考えると少なくとも僕の気力は火星の土を踏む前に燃え尽きそうだ。

生暖かい眼差しに気付いたのだろう。父は取り繕うように言い訳を始めた。

「いや、でも何とかなるらしいんだよ!こっちで色々面倒見てもらってる偉い学者さんがいてな、『ちょっと予想外なことがあったんだけど、何とかするからとりあえず建てちゃってください』って言ってたんだから!」

「それ先に言ってよ」

向こうの人が言うのなら、何とかなるのは間違いないか。元々電気か太陽で沸かすはずが、父親の説明を聞いて容量か何かが足りないことに気づいたのかもしれない。そしてその新たなプランの根回しに時間がかかっている。とそんな感じか。そんな感じだと信じたい。

「まあ、ならいいけどさ」

「そんなこんなで図面を書き換えたから時間がかかったけど、それ以外は8割方完成しているからな。お前がこっちに着くころにはほとんど出来てると思うぞ」

あれ、なにか、言っていることに違和感を感じる。内容に対してではないのだが、言葉の手触り、みたいなものに。

頭上の発電音がまた少し大きくなった気がした。

「……着くって、迎えには来てくれるんだよね?」

その瞬間、不自然なほどに間髪いれず、父は急に芝居くさい表情を作り、心底申し訳なさそうな感じを装って、心から言ってそうな風で答えた。

「ごめんなあ、実はな、お父さんは、こっちで、作業の総監督的なことをしなくちゃいけないんだ、ほんとうに、ごめんなあ」

やっぱり、違和感は間違いではなかった。思いつく限りで最悪のシナリオが的中してしまった。

「いや、無理だよ!頼むよ!ターミナルがオフラインなんだよ?何も調べられないし、だからどう行くかもわからないし、っていうか電話もかけられないし、どう考えても行けないよ……!」

そういうと父親は少し黙った。確かにそうなんだよな。という顔だ。こういうときはいつも彼の中で天使と悪魔が戦っているのだ。

少し間があったが、その戦いにはすぐ決着がついたようだった。

「あー、地図送っとくし!いまのうちにターミナルに転送すれば見れるでしょ?それにこっちの人はみんな親切だからなあ、聞けば大丈夫!最寄りの駅までは迎えにいってやるからな!」

なぜ天使はこんなに弱いのだろうか。よくよく考えてみたら、大体の物語で天使って悪魔にやられてないか?

「大丈夫じゃないよ!さっき心配してたとかなんとか、」

「いや、これ仕事だから!工事監督もね、大切な仕事だから!」

「それは分かるけど現実にむ……」

「あ、なんか、呼ば、呼ばれてる!じゃあ!気をつけてな!」

「おい、こら、おいちょっとまて!ちょ!」

切られた。

僕の心の電源も切れた。

突き指しそうな勢いで画面に指を押し付けてLAAをスリープさせ、脱力しててフラフラとベッドへ倒れこんだ。

象牙色のベッドマットはやわらかく変形して僕を包み込み、窓からは落ちかかってオレンジを帯びた太陽が射し込んでいた。

ベッドサイドに置いた水槽もキラキラと太陽光を反射しており、目を細めながら眺めていると、丁度一匹のヘンゲリィが細い水草の隙間から顔を覗かせた。

「お前ら、他人事じゃないぞ……」

つぶやいたが、魚は答えない。

ちらりとこちらに目をやると、すぐにキラと尾を返し、再び水草の中へ消えた。

うめきながら大きなため息を吐いたが、どうしようもないことには変わりなかった。

どうすんだ、これ。

丸くなり、掛け布団に逃げ込んだ。ヴーヴーいう発電音が不安を増幅する。こうなったらやるしかないが、どうすればいいのだろう。やれば出来るとはよくいったもんだ。やって出来るのは何を、どうやるかが分かっているときだけだ。浮遊感をおぼえて、足も布団へ引っ込めた。

そうしてしばらく亀を続けてだんだん息苦しくなってきたとき、部屋のLAAが光り、父親から地図が送付されてきたことを告げた。

しぶしぶ甲羅から首だけ出すと、部屋の壁はすっかりオレンジに染まっており、窓の外もオレンジ一色だった。吸い寄せられるように窓辺に立ち、眺め渡すと、思わず息をのんだ。

大地の緑と、太陽のオレンジと、空の紫と青と紺、そして、気持ちほどの赤い土。買ってもらった絵の具を初めてあけた時みたいな、一つ一つのチューヴに感じたドキドキをそのまま塗りつけたような景色が視界170度にひらけていた。なんとなしに見ると、不思議なことにヘンゲリィも全員出てきて、同じ様に夕日を見ていた。

地球で見たことの無い景色。ここがこれから僕の生きる八千万キロ離れた世界で、何もかもが地球とは違う。

そう実感した。

しばらく、本当に時間が止まっていたのかもしれない。目の前は薄暗くなっていた。色は混ざりきってしまったようだった。ヘンゲリィ達もとっくに帰っていた。

感動がひけば後悔が姿を現す。改めてこれから待ち受ける苦難に相対し、LAAの前へ座った。

何より言葉がわからないのが致命的だ。

こんなことならバウムクーヒェンで少しやっときゃ良かったなあー……。

ああー……。

地図をLAAからターミナルに転送し、一通り見てみるが、全く分からない。本当に地図だけしか送られてこなかったのだ。

『お前のチケットを使えばお金を払わずにここまで来ることが出来ます。そこに書いてある目的地を確認して気をつけてきてください。父より』

「だからその目的地はこの地図のどこにあるんだよ……ってか字が読めないよ……」

こういうときにすべきことは一つ、不貞寝だ。幸い到着は明日の昼。まだ地上までは半日ほどある。起きて辞書をターミナルに入れておけばなんとかなるだろう。地図の解読もその後だ。

クラクラしてきた。とにかく、起きたら考えよう。

LAAの通信パッドにターミナルを置き、データのコピーを始めると終了までの時間が表示された。2時間か。まあ、その間は何も出来ないんだ。寝よう寝よう。

ベッドテーブルのタッチボタンに触れると瞬時に窓がグレーに変色し、そのままボタンを指で回転させ、部屋が薄暗くなるくらいの濃さに設定した。

そのうち視界も真っ暗になった。


******


それから半日後、日が昇り、朝になっていた。

エレベーター港のゲートをくぐった僕の足は、生まれたての小鹿のように震えている。賽は投げられた。

寝るときに窓を暗くしていたのがいけなかった。到着まで一時間を知らせるアナウンスまで僕の安眠は妨げられなかった。よくよく考えてみれば寝る前にLAAで行き方を調べておけばよかったのだが、荷物をまとめたり、着替えたりしているうちに制限時間は無くなり、やっと準備が出来たと思ったらエレベーターは轟音を立てて煙突のような減速トンネルへ吸い込まれた。操作などにも手間取り、結局調べられたのは今から着く場所が「シェフィールド」という火星でも一、二を争う大都市であるということだけだった。

上から見た街は灰色だったのでもっと味気ない場所を想像していたのだが、到着ロビーは恐ろしく高いガラス張りの天井から光が燦燦とさしこんでおり、とても開放的だった。なんでも、火星殖民当時の雰囲気を取り込んで設計されているらしく、良く見るとガラス張りの天井には何本かの骨以外には支えになるようなものは見当たらない。当たり前だがテラフォーミング前の火星には大した大気が無かったため、当初の街はこうした透明の加圧テントで覆われていたそうだ。それを再現しているのだろう。確かに、売店や案内カウンターなどは小さな建物のように作られ、さながら第二の空を持つ街のようだ。

エレベーター港は過去何度もテロに晒されているので、安全のため、街から離れた山の上に建設されている。どうやらまずはシェフィールドの中心部へ移動し、そこから何かしらの手段で目的地へ行くしかないようだった。

とりあえず、これから向かう街を見ておこうと思い、展望台へ向かった。

こういうときテクノロジーには感謝してもしきれない。外部との通信が出来ない僕のターミナルでも、看板の単語を撮影すればそれの意味が分かる。本当に、寝る前に辞書を取り込んでおいてよかった。

長いエスカレーターで別の棟に移動し、そこから少しエレベーターに乗ると、目の前に展望台の自動ドアが現れた。水槽を逆さにしたようなガラス張りの空間は正方形の骨組みに囲われており、二重になっているドアの向こうには草地を踏まないように敷設された、デッキに繋がる小道が見える。

緊張と興奮を抑えるようにゆっくり歩き、二枚目のドアをくぐると、気圧差で風が起こり、生暖かい冷気が髪の毛の間を流れて地肌に触れた。

一歩踏み出すと、ひさしの部分の影がより黒く見え、それを切り抜く白い光の強さは今が夏であることを強く訴えている。歩を緩めず影から出ると、熱線が頭上から降り注いだ。気温は地球に比べればたいしたことは無いが、光線の熱さはさすがだなと、なにがさすがだか分からないが、思った。涼しい風に吹かれて熱い光に焼かれてるその感触は、まるで露天風呂に入っているようで、少し笑った。

道はガラス繊維を編んだプラスチックのような感触だ。その両脇には表面に水滴を溜めたコケがじゅうたんのように広がっており、時々吹く風でキラキラ光る粒が飛び散るのが見える。高度はかなり高いようだ。すこし耳が痛い。そのうちデッキが見えてきた。階段を上がり、その上に立つと、自分が信じられないほど大きな丘の上にいるのだと初めて分かった。

眼下の景色的に考えればその高さは飛行機に乗っているときと同じくらいで、正面には低い円柱のようなシルエットのシェフィールドの街が厳かに広がっている。まるで風は全てそこから起こっているようで、時々吹く、顔を洗うような風のせいではっきりと直視することが出来ない。街は小道のコケのようにキラキラと輝いており、ここからでも分かるほど高いビルが高密度に立ち並んでいる。

なんという場所に来てしまったんだろう。まだどこにも到着していないというのに、僕は途方にくれ、少しの間その場に立ち尽くしていた。


ケーブルカーで地上に降りたつと、さっき思い知ったはずの街の巨大さに再び圧倒された。

どうやらさっき光る水滴のように見えたものはビルの上から地上に光を届けるための反射ミラーのようなものらしい。見た目とは裏腹に街は明るかったし、彩りも、全体的にガラスとコンクリートで作られた建物が目立つが、空から見たように灰一色ということは無かった。

心の準備をしていても、建物も圧巻だった。

駅から駅へ渡る空中通路から見える建物は最も低いものですら地球の15階建てくらいに相当し、その背後には上のほうの窓を数えることすら出来ないほどの巨大な建物がパイプオルガンの背のように聳え立っている。そして、それらの間をこれまた大きな人々がさっさと大またで移動していくのだ。女性だってみんな、僕の身長175センチと同じか高いくらいで、頭一つ分低い僕の孤独感は進むほどに強くなっていった。

もちろん素晴らしい発見もある。今僕が歩いている空中通路の下には片道6車線はあろうかという目抜き通りが通っており、そこを走る流線型の車の少し上空を“空を飛ぶバイク”のようなものがブンブンと飛んでいる。

それはバイクの前輪と後輪をぶった切ったような物体を用意して3倍洗練したようなフォルムで、飛行機のような羽はついていないようだ。皆が大体同じ様な高度を飛んでいるということは、そんなに高くは舞い上がれないのかもしれないが、それは煙も立てずに、ジェット機のような高音とスズメメバチのような低音をわずかに纏って、箒星のようにキビキビと動く。その様子は、乗る人が腹ばいで寝そべるようなカタチでまたがっているため、まさに、魔女や魔法使いが秘密の会合に向かっているようだ。確かに低重力ということはあるが、さっぱりどんな仕組みか分からない。分からないが、とにかく鳥のように飛んでいる。

やっぱりここは地球とは違うと何度目か分からないくらい実感した。鳥になるという人類最多の夢が叶うようなこの場所は、もしかしたら、どちらかというとあの世に近いのかもしれない。何を隠そう、僕もその夢を持つ一人の人間だ。本当にここは、ワクワクする、素晴らしい場所だ、夢なら醒めないでほしい。そう鼻息荒く歩を進めていると、向こうからまた火星の人が歩いてきた。

何気なく顔を見ると、なぜ今まで気づかなかったのだろう、端正な白人系の顔立ちには緑色のビー玉のような眼がはまっていた。

僕は息をのみ、次の人も、その次の人も注意深く顔を観察してみた。

さっきの人は濃かった。今の人は薄かった、人により濃淡の差はあれど、これではっきりした。

火星の人々の眼は緑色をしているのだ。

もちろん、僕の眼は茶色だ。軌道エレベータ上からこの星は火星ではなくて緑星だと思ったが、さらにここでは黒目ではなく緑目らしい。

周り全てが自分と違う瞳の色。そういえば昔、カシューが言っていた。「もう正直、青い瞳の話題はうんざりだ」と。そのときは良い話題のタネがあってうらやましいと思ったし、「そもそも目が青いのは格好いいじゃないか」なんて彼に言ったが、いざ逆の立場に立たされてみると、彼の感じていた孤独感や、お前は異質であるということを突きつけられる気持ちが分かるような気がした。

そして、同時に、今まで抜け落ちていた地球での思い出が胸に溢れて、どうしようもなく悲しくなった。ここがあの世だとしたら、もう会えないカシューや、相良さがらはいま、元気でやっているのだろうか。僕が地球のことを忘れていたように、彼らも僕のことを忘れて地球の今を過ごしているのだろうか。

雑踏の音のように、申し訳なさと、寂しさと、やるせなさと、色んな思いが混ざり合って、自然と涙が溢れ、立ち止まった。展望台のデッキとおなじ素材で出来ている床に点々と涙が広がった。

「いま、どうしてる?」

その言葉だけしか考えられなかった。


「Kio okazas !?」

前を歩いていた青年が大きな荷物を引きずりながら道端で急に泣き出したことは、火星といえどもあまりない光景らしく、インパクトがあったようだ。目を擦りながら顔をあげると、おじさんが心配そうに立っていた。おじさんは白人系の見た目で、もともと高身長の遺伝子を持っていたせいか、他の人からも頭一つぬきんでて大きい。大方の火星人と同じく、年齢の推定が難しいが、大体30から40歳位だろうか。やっぱり彼も銀色のスーツは着ていなかったが、左右非対称に開いたジャケットの襟が異世界を感じさせた。

「あ…すいません……大丈夫です」

グズグズと涙と拭い、洟をすすりながら、冷静になった頭で、やはり『ありがとう』位は言葉を勉強しておくべきだったと後悔した。何を言っているか分からないが、英語なら通じるだろうか。

「あ、あいむおーけー、おーけー」

「^Cu vi havas doloron ?」

全然駄目だった。僕の発音が悪いのか、全く相手には届いていないようだ。しかし、むしろこれはチャンスでもあった。送られてきた地図と最終目的地だけではここからどうやっていくのか全く何も分からない。せっかく声を掛けてもらえたこの好機になんとしても手がかりを掴まなければいけない。まだ思考は正常ではなかったが、彼を逃すまいとして、僕は通じない言葉でなんとか喰らいついた。

「あ、あいむじゃぱにー」

そこまで言って気付いた。

いや、火星に日本はない。まずは地球人だってことを伝えないと。なんていうんだろう……地球はアースで、エイリアンから推察すると……あー、アーセリアン?

「あいむあーせりあん!」

「……earthelian?」

おじさんの目の前にトンボが飛ぶのが分かった。

奇妙な間が流れ、その間に通り過ぎてゆく人がジロジロ見ている気がするが、そんなの関係ない、旅の恥はかき捨てだ。

僕はポケットからまだこちらのスフィアには繋がっていない自分のターミナルを取り出し、メモ帳に絵を書いた。それにしても汚い絵だ。父親のことは言えないな。

「でぃすいず……まーず!」

おじさんの顔には、相変わらずクエスチョンマークが浮かんでいるが、神秘的な淡い緑色の瞳を見ると、必死にこちらの言いたいことを考えてくれているようだ。

「Mars……Marso?」

「おー!いえすまるぞー!いえす、いえーす!」

マルゾーが火星かどうかはしらないが、音が似ているし、大体あっているだろう。

「あーんど……」火星の内側に三つの同心円を重ね、中心には輝く太陽を書き込んだ。

「あいむふろむ……あーす!すぺぃすぷれーんできぃました!」

やけくそだ。地球から火星へ矢印をつなぐ。頼む、これで分かってくれ。

「Oh ! Sushi ! Tempura !」

「え?」

知ってはいるがこの場では絶対に聞こえてこないはずの単語がおじさんの口から飛び出し、僕の目は一瞬、宙を泳いで。彼の指差す先を見つめた。そこには餞別にと相良さがらがくれた『ザ・日本食ストラップ』のマグロと海老天がゆれていた。

これを貰ったのは僕が大事に飼っていたエビを彼に預けに行ったときだった。大切にしてくれよ、とエビをあげたのに、彼が差し出したそれが海老天だったときは二人して気まずい空気を味わったのだが、まさかこんなカタチで早速役に立つとは思わなかった。機会があれば、相良さがらにはお礼をいわなければならないだろう。

「BONE ! momenton !」

おじさんはそういってどこかへ連絡し始めた。

いったい何を話しているのだろうか。もしかして、保健所のようなところに電話して、

「野良小人を一匹捕まえたぜ!わっはっは!」とか言っているんじゃないだろうか。

あ、笑った。

話していたのは正味三分くらいだったのかもしれないが、僕の感覚では十五分くらいに思えた。電話を切ると、おじさんはペラペラと何か言い、その場を立ち去った。手の動きから察するにここで待っていろということらしい。助けてくれるのなら鬼でも悪魔でもいい。とにかく手がかりさえつかめれば。

その「誰か」を待っている時間はおじさんとしゃべっていたよりもはるかに長いものに感じられた。なんとなくまたあの空飛ぶマシンが見たくなり、壁際の手すりから身を乗り出したとき、肩をたたかれた。驚いて振り返ると、新しいおじさん、というよりはお兄さんだろうか。ラフな淡青のストライプシャツの男性が立っていた。

「大きな荷物を持って泣いていたのは君かな」

「い、いえす、いや、はい!」

投げたボールが星を一周回って帰ってきた、そんな気がした。

彼は桜のように笑うと自然に手を差し伸べてきた。

「ミタムラです。よろしく、君は?」

突然のことに驚いて、あたふたと手を握った。

「あ、瑞水みずみ けい、です」

「ケイくんか。アレクセイから聞いたよ、いやあ、大変だったね。地球から来たんだろ」

ミタムラさんはギュウと手を握った。岩場から引き上げてもらえるような安心感が、胸いっぱいに広がった。なんだ、通じていたんだ。

「あ、はい、本当に、大変でした。あと、これからも」

彼はアレクセイさんより少し若く、会社の同僚ということだった。服装や髪型からからも人の良さがにじみ出ている。

「で、どこへ行くんだい」

早速水を向けてくれて助かった。所々端折っていきさつを話し、唯一の手がかりであるチケットと地図を見せた。チケットに書かれた最終目的地を見ると、今まで満開だった彼の桜は散り、眉間にうっすら皺が寄った。

「ここは……」

ただならぬ気配を感じて不安になった。僕が行くのはそんなに危険な場所なのだろうか。

「いや、遠いだけで危険は無いよ。でも、地名は知っているんだけど、どうやって行くんだろう……」

ミタムラさんはカバンからターミナルを出した。どうやら、行きかたを調べてくれているようだ。「ははー……。ほら見て、このラスノックっていう場所で一度乗り換えるんだよ。で、ここには出張で一度行ったことがあるんだけど、」

差し出されたターミナルは僕のものより一回り大きく、半透明の画面と金属製のフレームが火星の建物のようだった。

「リニアで二時間半くらいかかったなあ」

リニアで二時間半というと、

「だいたい1700キロくらいかな」

足元が揺らいだ。

「でも目的地はさらに先だよ。最後の目的地の、この、コーズィプンクトは、ちょっとまってね」

彼は画面を切り替えると僕の持っているあの地図を呼び出し、その場所を探し始めた。

「やっぱり、ほら、見てごらん、今いるのが、ここ。で、ラスノックが、」

ものすごい速さで地図が北北東へ流れていく。

「ここ。で、目的地はここからまた電車、これはリニアじゃないよ、電車にのって」

今度は東のほうに地図が進み、ある一点で止まった。

「ここがコーズィプンクト」

そこは湾に浮かんだ島のようなところだった。陸との間は細く海に分断されており、沈む前はそれなりに大きな山の頂だったのだろう。衛星写真で見る海はとても澄んでいて、半島でもなく島でもなく、大陸でもない、その中途半端な場所はとても綺麗だった。ここが僕のこれから住む場所か。

ミタムラさんはその場所をマークしたデータを僕のターミナルに送ってくれた。

そればかりでなく、スフィアに繋がっていないならこれだけじゃ不便だろうと、親切にも僕を最初の駅まで送ってくれた。なんでこんな親切にしてくれるんだろう。道中に尋ねた答えは意外なものだった。

「ここではね、意外かもしれないけど火星人であることと同じくらい、それぞれのルーツがとても大切にされているんだよ。だから僕は火星の言葉以外にも日本語が話せる。アレクセイの場合はロシア語だね」

そうなのか、火星には国がないと聞いていたから、みんな火星市民として暮らしているのかと思っていた。

「いやいやそんなことはないよ。まあ、そうなるのが一番なのかもしれないけど、植民から始まった僕らは結局根無し草で。だからこそ、それからいくら時間を経ても、根っこについた泥は、大切な自分たちの歴史だって、そんな感じなんだろうね。多分。だからね、実は僕は君が結構うらやましいよ。君の足元にはまだ沢山、人間の歴史の泥が残ってる。大切にね」

「はい」

僕の今までを総括し、これからを予言するようなその言葉に、僕はそれしか言えなかった。

「そうだ、大体、地域にはルーツごとにKomunumo……互助会みたいなのがある。コーズィプンクトにもあるだろうから、向こうに日本語が通じる人がいたら聞いてみるといい、こっちの言葉だって、何とかしないといけないだろう」

忘れていた。言葉だ、言葉はでかい。

「まあ、ゆっくりやりなよ。時間は地球の2倍だし、ここには数えられない時間もあるからね」

ミタムラさんはまた花のように微笑んだ。

何の事を言っているか良く分からなかったが、「数えられない時間」という言葉が素敵で、つられて僕も少し笑った。

駅に着くと親切のとどめに、ミタムラさんは僕のターミナルに『私は地球から来ました。コーズィクンプトに行きたいです。火星の言葉は分かりませんが、日本語と少しの英語は分かります』というメモを加えてくれた。

まさに親切痛み入りますという言葉は、今日のために何千年も前の日本人が考えたのではないだろうか。僕は再三ミタムラさんに頭を下げ、必ず何かお礼をと連絡先を尋ねたが、彼は定型通り、

「名乗るほどたいしたものではございません」と言って僕の申し出をやんわりと断った。

だが、もうこれ以上いくと僕の頭が地面についてしまうというくらいまでいくと、

「仕方がないなあ」

と笑ってアドレスを教えてくれた。

バウムクーヒェンよりも早く流れる景色を眺めながら、やっぱりあんなに無理やり聞いたのは、間違っていたかなと考えた。あの嫌がり方は本当に嫌だったからなんじゃないだろうか。

チューブの中を走るリニアは地球のものより遥かに高速で、すぐに街は見えなくなった。

そして、滑るような加速の結果、ついに風景は線になった。見えるのは空の青と大地の緑だけである。

都会から離れる割に意外と人は乗っている。ほとんど空いている席はない。

ふと窓から目を離すと、向こうから座席の取っ手を掴んでゆらゆら歩いてくるおじいさんが見えた。どうやら席を探しているようだ。くすんだ麻の風合いのシャツの中の背中は少し曲がっており、口には白い髭を蓄えている。通路を少し覗いてみると、前のほうもずっと満席のようだった。僕の隣は、空いていたが、荷物棚に入りきらなかった水槽が、でんと置いてある。

おじいさんはゆっくり近づいてくる。

水槽と、おじいさんを、交互に見た。

もう一度水槽を見たとき、水草の森の外に出てきたヘンゲリィ達と目が合った。

どうすんの。

どうすんだよ。

ま、別に、俺たちはいいけど?

「あの!」

若干判断が遅れたせいでおじいさんは少し席を通り過ぎていたが、それにしても目の前の背中には少し声が大きかったらしい。周りの席から無数の緑の視線が飛んてきた。

「あの、席、えっと、シート!ぷりーずしっだん!」

だめだ、やっぱり通じなかった。立ち上がって席を指差し凍りついた僕を、おじいさんの丸い目が細かく動きながら見つめ返した。5秒……?

8秒くらいか?長すぎるその間、わずかだったリニアのモーター音が大きく感じた。

それくらいの静寂だった。

もういいと、座りかけたとき、突然僕の背後に座っていた女性がおじいさんに何かつぶやいた。

二言ほど交わすとおじいさんは理解したようで、大きな口をあけて「おぁー」と驚くと、早口で何かを言い、握手を求めてきた。

「He said, "Thank you very much".」

そういって女の人がウインクしてきた瞬間に、やっと僕の時間も動き出した。

もしかしたら、ミタムラさんが僕に連絡先を教えたがらなかったのは、そのことを覚えておいて欲しかったからかもしれない。

「君ももうこの星の一員だよ。だからこれだけは覚えておいてほしい。この星を回しているのは、善意の贈り物なんだ。当たり前だけど、これはモノだけに限らないよ。誰かに何かしてもらったら、違う誰かに同じ分返す。そうやって小包がこの星を回っていって、いつの間にか自分の真後ろに届いてるって寸法さ、でも、相手から貰ったものは決して多くても少なくてもいけないよ。少なければプレゼントは巡りきる前に無くなってしまうし、多いと一周する前に持ってる人を押しつぶしてしまうからね。……なんて、ちょっと格好つけすぎだよね、でも大学の先生の言葉でね。これは本当だと思うよ」

水槽を膝に抱え、おじいさんの寝息を聞きながら、改札が見えなくなる一瞬、振り返るとまだそこにいて、僕に小さく手を振ったミタムラさんを思い出した。

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キェルケゴールの子供たち 大江湊 @minatooe

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