キェルケゴールの子供たち

大江湊

ハイテク三途の渡し船

いくら傑作とはいえ、こう何度も観ていると、起承転結の起で寝てしまうくらいなんのことはない。その瞬間、展開の全てが重なり、目の前を火花のように跳ね回る。そして、消える。

最初の台詞を聞けばもう十分だ。

灰色のスリガラスのような視界の向こうでモヤモヤした塊が動き、折り重なった雑踏のような声がその周りを飛び回ったかと思うと真っ白な視界はすぐに暗転し、気がつくと煌々とした光が目の前にあふれた。

スタッフロールが丁度始まったところだった。

やっと2時間か。

画面の明かりだけでほのかに照らしだされた部屋は影が支配しており、隅のほうはまったく見えない。座っているソファの背もたれから流れるエンディングテーマは室内を満たす木々の環境音とあいまって殺風景な部屋をより一層寒々しくさせている。

はあ、と吐き出した吐息は、画面を鋭く切り取る光に押し返された。

ヒンヤリとした顔に生暖かい風を感じた。ような気がした。

大きなあくびで眠気のカスを吐き出し、身をよじらせて伸びをすると、背中が小さな音をたてた。

やあ、また良く眠っていたね。

ああ。もう何度見たか分からないからね。

もう良い加減、外に出てみようか、体のなまりはそろそろ限界だ。錆付いたような膝を思い切り伸ばし、壁に浮かぶヴァーチャル・ウィンドウが映し出す外の映像を何気なくみた。

枠の中にぽつんと浮かぶそれは気持ち大きくなったようにも見えた。もうじきに親指の爪くらいにはなるだろうか。

ためしに指で輪を作って待ってみたが、やはりそんなにすぐには大きくならなかった。ずいぶん減速しているようだ。

出発から今までの日々は流れる時間を切り取った一瞬の永遠のようで、死ぬことも無く、このままずっとここにいるのではないかという不安が頭を支配し始めていたところだったので今日の朝の新着情報は少し信じられなかった。だが、この様子だとあと数日で到着というのは本当なのだろう。

今まで自分が進んできたそれなりの時間と途方もない距離を考え、カウチに身を預けて薄暗いなかに浮き上がる天井を仰いだ。

その白い、少しアールのついた平面には陰影のついた沢山の線が走っており、実物を見たこともないマスクメロンの表面のようで、言い知れぬ高級感をかもしだしている。ふと、トロール漁船に捕らえられた魚はこんな気持ちだったのではないかと思った。目の前には動かぬ網目模様が陣取り、自分たちをどこかへ追い立ててゆく。そして着々と水揚げの時は近づいている。

もう一ヶ月か。

この天井には慣れたが、かすかに聞こえる空調のうなり声にはまだ慣れない。立体スピーカーから流れる森のような木々のざわめきを縫って、今もほんのわずかだが聞こえている。これに慣れるには、多分、もう一往復では足りないだろう。

木立のおしゃべりに身を沈めてぼんやりしていると、視界の隅の点滅に気がついた。映画が終わったことを知らせるエジェクトパネルが光っている。

まどろんでいたせいか、まだ少し、ものの輪郭がぼやけている。目をこすりながら手探りで机をなでると明滅は消え、洞窟に落ちる水滴のような音がして、もはや子守唄と化している映画のカードが吐き出された。

もう少しで、この音ともお別れなんだな。

そう思うと、必ずしも悪いばかりの場所ではなかったなとも思う。特にパネルを操作したときの音はとても気に入っていた。地球じゃどれもこれも整えられた音楽のような音ばかりで、その力作のどれとして、この部屋の一音の透明感にかなうものはなかった。

どんな飲み物でも本当に美味しい水には歯がたたないようにだ。

本当に美味しい水?

上手い喩えをしたと思った瞬間、疑問が沸いた。果たして僕はそんな水を飲んだことがあったっだろうか。

あった気が、する。だが、それがいつの事だったのかは思い出せない。もしかして、何かでそう思い込んでいるだけで、僕の中にそんな経験は存在していないんだろうか。だがそれも思い出せない。

まあ、どうでもいい。

きっと、そんなあやふやな記憶が保管されている場所みたいに、ここにも、もう二度と足を踏み入れることは無いだろう。

背もたれを思い切り倒して、もう一度あくびをするとそそれすらどうでも良くなった。

そのまま、手足の先にまだ少し残った眠気に体を任せていると、のどの渇きを思い出した。寝ている間ずっと口をあけていたのだろう。奥がカサカサする。

何か飲もう。

目をこすって立ち上がると、背もたれはきしみを上げて元に戻り、それがスイッチだったように目の前の画面がスリープした。

画面の明かりだけが照らしていた部屋は窓の外と同じ暗闇に包まれ、わずかな空調と枝葉のささやきだけがあたりに立ち込めている。

日の没した魔物の森に放り出されたようだったが、なんてことはない。ここには決してそういう類のものはいない。だから目が慣れるまでそこに佇んでいるのは、明かりのスイッチを手探りで探すことより簡単だった。

こんなことならパネルのスタンバイ補助光をOFFにしなければよかった。こういうとき、タッチパネルは不便なんだよなあ。

机を適当にぺたぺた触っているとアンビエントな風のざわめきが消えた。環境音が消えたということは、近いな。そう思った矢先、すぐに部屋の中心がじわりと明るくなり、空間が光で満たされた。

眩しい。

目を細めて見た、照らし出されるそこは、当たり前だが、そこのままだった。

部屋は長期の滞在を考慮して広めに作られていて、壁の色は自分の好みで変えられるが、面倒くさいのでしばらく前からグレーにしている。天井はパッと見では分からないくらいの緩やかなU字を描いおり、その曲線に沿っていくつかのチューブ型の電灯とスポットライトが埋め込まれている。この普段使いのチューブ電灯は少し暗いため、テキストを読むときは別に用意されたスポットをつけないと目が疲れる。

これらの他に、向こうの一日をシミュレートしている明るい電灯も天井の中心部に用意されているが、使っていたのは最初の一週間だけだった。

これは感覚を向こうの一日に合わせるためのライトだが、生活リズムなんか、現地で一週間もすれば身につくだろう。むしろ、今必要なのは向こうで暮らすためのリセット期間、今までの習慣を脱ぎ捨てるための空白なんだ。

などと格好いい理由を考えてみたのだが、本当のところは一日の時間に明暗があると時間を長く感じて耐え難かったというのが大きい。それに、向こうとこっちで一日の時間にそう大して差など無い。

なんとなくまだ活動する気分にはなれず、チューブ電灯を消してスポットライトを点灯した。

こうすると、天井の小さなへこみから放たれた強い白色光が、床に敷き詰められた透明タイルとその下を揺らぐ黄緑色の液体に反射し、天井に光の波を映し出す。そうして生まれた輝く網がゆらり、ゆらりと動く様子は、まるでプールにもぐって水面を眺めているようで、その美しさは輝きに飲み込まれそうなほどだった。モノ入れやテーブルを這いまわり三次元に広がる光の網は、見慣れたこの部屋の凹凸ををあらためて浮きあがらせた。

この時、環境音を波打ち際にすれば時に奇跡的なタイミングで音が光の動きに重なり、まるで羊水に包まれているようにリラックスできる。これはこの旅で唯一の収穫と言っても過言ではない。

僕はこの時間が大好きだった。

いつものように床に大の字になり、ゆらめきを眺める。タイルのヒンヤリした温度が服を通して背中を冷ましていく。冷気が肺にまで上がってくると、今度は胎児のように丸くなり、目を閉じて波音に耳を澄ませた。まぶたの裏で、光の網が自分を上から包み込み空中に持ち上げるイメージを浮かべて、しばらく身を任せていた。

もちろん、この効果を生み出すタイルの下の液体はそんなリラックス効果を狙ったものではなく、有害な宇宙線から乗客を守るためのものである。

見た感じ粘りけのある液は薄く黄緑がかっており、そのなかにはポツリポツリとクリアブルーの粒が浮かび、液体のわずかな流動に合せてうろうろしている。

ひとしきり堪能し、また大の字になって天井に目を凝らすと、ビーズの色も波紋に合わせて波打っていた。

なにか飲むんだった。

水族館のトンネル水槽のようになった部屋で、すっかり冷え切った背中を感じて目が醒めた。

ゆっくり立ち上がり、簡素なキッチンに向かい、お湯を沸かしている間に顔を洗った。

この水は、まあ普通の水だ。でも、昨日くらいまで僕の体の中にあった水としてはもうこれ以上は望めないだろう。そういう意味ではとても美味しい水か。

手に溜めて一口飲み下すと、水分不足だった身体の隅々にまでうるおいがしみわたる。夏、雨に打たれる地面はこういう感じなのだろう。

顔を拭くと、冷えた反動で頬が熱くなるのを感じた。


******


この船は遠くから見るとドラム缶のような形状をしているが、近寄ってみるといくつかのドーナツを棒に差し込んだような格好になっており、その姿からバウムクーヒェン、と呼ばれている。一つのドーナツは外縁から中心にむかって四層に分かれており、そのもっとも外縁に近い階層が放射状に区切られて居住区が設けられている。その一室がここだ。そしてそれぞれのドーナツは回転しており、これにより擬似的な重力が発生させられている。つまり、この部屋の床は地球的な感覚で言えば壁にあたる。

だが、ドーナツではない棒の部分、船の本体であるスピンドルは回転していないため無重力だ。この中心の棒は先端から先端まで八等分されており、それぞれにドーナツが連結されている。つまりスピンドルの一セクションと一つのドーナツがセットになり、船は8つのゾーンで構成されている。そして安全保安上の理由から一般の乗客がゾーンの間を移動することは禁止されており、情報的にも遮断されている。

スピンドルの壁面にはそういう不自由を詫びるようにガラス張りの広い空間が作られており、社交的な人々はそこに集まっているらしい。ものめずらしさから初めに一度訪れた事があったが、ある出来事があってから二度と足を踏み入れることは無かったので、今はどうか分からない。

出航直後、まだこの空間がものめずらしかったころ。部屋のヴァーチャル・ウィンドウやLAA端末に表示されていた船外の様子は地球にいた頃には絵でだって見たことがないような、素晴らしいものだった。

みるみる小さくなる地球とそれにしたがって周りから湧き出てくるような光の粒に、明らかに僕は興奮していた。その景色をこの目で見たいと思った瞬間に部屋のドアは開いていた。廊下に出るための梯子を鼻息荒く上り、天井にあけられた穴から首を出すとドーナツを一周する長い廊下に出た。左右を見回すと、丁度、スピンドルと繋がるシャフトシューターに人が吸い込まれていくところだった。

この船の擬似重力は現地と同じ大きさに設定されているため、乗船直後は上手く歩けない。そのため、皆、床にくっつく靴を着用する。あちらこちらからパリッパリッという音がして、他の乗客も自分と同じ様に展望室へ向かっているのだと分かった。

シューターの壁に取り付けられたベルトコンベアのハンドルを握ると小走りくらいの速度で上昇し、しばらくすると視界が開け、薄暗いスピンドルへ慣性にしたがって打ち出された。

掴まっていたハンドルから手を離した僕は、体の予想に反し、ふうと吹かれたシャボン玉のように、浮いていた。

その瞬間は何が起きているのかよく分からなかったが、進行方向に設置されたマットにやさしく抱きとめられるとすぐに離れるようにという警告が聞こえた。後続とぶつかったらと慌てて壁に立ち、慣れないながらもなんとかそこを離れて一息した瞬間、意識が戻ってきたからだろうか、全身に震えが来るほどの胃が浮かび上がる感覚と眩暈にノックアウトされた。興奮で今まで気づかなかった宇宙酔いが想像を遥かに凌ぐ強烈さを持って襲い掛かったのだ。

宇宙の強烈な洗礼に慄いた体は今すぐにシューターに引き返すことを叫んだが、理性は、目的を忘れてはいなかった。自分が何を見ているのか分からなくなるほどの悪心に耐え、反抗する体を奮い立たせ、滝のような脂汗を流しながら、窓ににじり寄り、外をみた。

そこにあったのは絵以上に絵らしい、遺伝子に刻まれた何十万年も前のイメージ、僕のアミノ酸が旅してきた夜空だった。光を吸い込む真っ黒な画用紙を背景に、綿菓子のような白い霞と蜘蛛の糸より細い繊維の塊がめちゃくちゃに交差し、筆で跳ね飛ばしたような星星のその向こう側には赤みがかったガスや、砂のようなきらめきや、何がなにやら分からないとにかく光の花畑が無限の深さと無限の数をもって存在しており、そしてそれらは光速で僕の瞳に吸い込まれた。

それは、宇宙は、全ては、そこにあった。全ての細胞が歓喜した。

ただし、感動は長く続かなかった。体中に最高の素晴らしさが染み込んできたからか、それに追い出されるように汚物が僕の口に殺到した。そのカタチを持たない悪魔は不安定に姿を変えながら口から羽ばたき、飛び散り、周囲の人々をかつて無い程の恐怖に直面させた。そして他の何人かの人々からも仲間を召喚した。

台無しだ。

今までこの場所で起こった感動や驚嘆の全てが台無しとなり、小さな騒乱がその場を支配した。

人々は僕の食道に殺到したそれのように、争って小さなシューターの入り口に詰め掛けた。幸いすぐにスタッフが駆けつけ空中に漂うそれと壁にたたきつけられたそれを吸い取り、最悪の事態は免れた。

そうして確かに広場に平安は戻ったのだが、僕の心は大時化の海のようだ。そんな場所に、二度といけるわけが無いだろう。スタッフにも顔を覚えられているに違いない。

禁固一ヶ月。それが僕に科せられた刑罰だったのかもしれない。

外に出るのはやめた。眺望はヴァーチャル・ウィンドウで楽しむことにした。そう、それにゆらゆらするこの光はスピンドルの広場には無い。

深くため息をつき、机においた完全密閉水槽を眺めた。

本当はそろそろ水を替えないといけないんだけどなあ。

20センチキューブサイズの水槽には、薄く敷かれたソイルに遺伝子操作で代謝能力を高められた水草がいっぱいに生えており、その隙間からは何種類かの魚が顔を覗かせ、窮屈そうな顔でこっちを見ている。他にも沢山飼っていたのだが友人にあげてしまった。

ステルバイや、ゼブラダニオは元気でやっているかな。

密閉水槽は生態システムを安定させるために複雑な条件で生体に点数をつけ、その点数が水槽の環境包容力を上回らないようにしなければならない。計算の結果、連れてゆける魚の数はこの組み合わせが最大だった。仕方がないとは言え、置いてきたみんなとはもう二度と会えないというのは、まるで自分が星になってしまったようで、少し感傷的になる。今まで逝かせてしまった魚たちも、こんな気持ちだったのだろうか。

その分こいつらを大切にしないと。

向こうにはどんな魚がいるんだろうな。お前たちの仲間もいるのかな。

というか、向こうの水は大丈夫かな。

魚は答えない。じっとこちらを眺め、プッと草の中へ消えていく。見る間に全員が水草の後ろに隠れ、ついに表から見えるところにはいなくなり、ガラスに反射した自分と目が合った。

動くものがなくなると急に眠気が沸き起こったのでベッドに移動して、寝る努力を始めようとしたとき、天井からノイズと共に、出発以来聞かなかった機械的な声が響いた。

「皆様、大変長らくお待たせいたしました。当機はおよそ48時間でリベラプトEVSへドッキングし、皆様を軌道エレベーターへご案内できる予定です。お客様のお荷物のお預かりは現地時間で明日の朝7時より順次行う予定でございます。こちらの準備が出来次第LAAにてお知らせいたしますのでアナウンスにご注意くださいますようお願いいたします。安全保安上、ドッキング12時間前よりお部屋はロックさせていただきます。恐れ入りますが、外に出る御用はそれまでにお済ませください。これより三時間後、火星の大気を利用した減速を開始いたします。大変危険ですので、20分前の警告までに必ず……」

あわてて飛び起きて自分の近くの壁に仮想窓を呼び寄せ覗いてみた。指で輪を作って比べてみると、いつの間にかそれは大きいビー玉くらいになっていた。

やっと、その顔が見えるようになってきた。

僕のこれからのふるさと。緑の星。生まれ変わった星、僕も生まれ変わる星。

「はじめまして、これからよろしくお願いします。火星さん」

思わず挨拶した。

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