(19)弔いの場所

 

 翌日の早朝、ユリアナとクラエスはブカレストを出発した。

 属領ワラキア内を走る長距離路線の二等車で、朝ごはん代わりのサンドウィッチにかぶりつくユリアナの膝には、一枚の切符が置かれていた。そこに記されたのは、ブカレスト郊外の田舎町にある駅の名――『オレーシャ・セスラヴィンスキー』が死去したと伝えられる街だった。

桑雨サンウがちゃんと調べてくれて助かったわ。電子化もされていない新聞までは、さすがの私でも短期間では調べられなかったもの……ちゃんとお金振り込んでおかないと」

 ぺろりと指についたマスタードソースを舐め、空になったサンドウィッチの紙袋を握り潰す。真夜中に、桑雨が電子ファイルで送付してきたのは、一〇〇年以上昔――いまだソヴィエト連邦が存在した時代の新聞をスキャンしたものだった。

 古新聞に設けられた連絡欄の片隅に、オレーシャの死去を伝える僅かな文章があった。逝去から数カ月が経過した後の掲載であり、葬儀は近親者のみで済まされた旨とともに、彼女が葬られた場所が記されていた。

 ――その場所こそが、ユリアナの目的地だった。

 ユリアナは今でも、遺構の中央制御室で垣間見た、彼女の顔を思い起こすことができる。

 骨肉腫で両足を切断し、ルスラン・カドィロフによって《白鳥》と《黒鳥》の二種の義足が捧げられたバレリーナ、オレーシャ。

 ある面では、悲劇のバレリーナ。そして、ある面では、ルスランが愛し、魔術的機構とまで言われる義足を捧げられた奇跡の女性――

 彼女の実像を知るための資料は、豊富なようでとても少ない。アズハル高等学院の付属図書館にある閉架書庫で桑雨が入手したという古新聞も、ユリアナ個人の力では、短期間ではけっして知ることのできない内容だった。

「オレーシャの生まれ故郷はワラキアなの。でも幼少期に、家族ごとモスクワに移住したらしいわ。だからその事実はあまり知られていない。――他でもないオレーシャを国立舞踊アカデミーに入れることが、移住の目的だったみたい」

「家族ごと? ……それほど才能あふれる娘だったというわけですか」

「実際、彼女は国立バレエ団でプリマを勝ち取っているわけだし、家族ぐるみの努力が実を結んだってわけね。それでも、二〇代半には舞台を降りてしまったわけだけれども……」

「……それで、彼女はワラキアに? モスクワに残らなかった理由は?」

 隣に座るクラエスの問いかけに、知らないわよ、とユリアナは首を振る。

「でも……何となく、予想はつくわ。確証はないし、真実を知るすべはないけれど……」

 カタカタと小刻みに揺れる車体。古びた椅子の背もたれに身を沈めながら、ユリアナは窓のむこうに流れる景色に目を向けた。

 ――そこには、黄金色の世界がある。

 一面のひまわり畑だ。街と街の狭間を埋め尽くすように、背の高いひまわりが、線路に沿って延々続いているのだ。青空のもと、どこまでも果てなく広がる黄金色の輝きは、ワラキアに産まれた人間にとっては馴染み深いものだという。

 その眩いまでの花の群生を眺めながら、ユリアナは考える。

(両足を切断して、結果的に自分の人生を賭けてきたものを失うことになってしまったら……失った輝きに、もう手に入れることのできないものの気配に満ちた街にいることは、とても辛いことなのかもしれない)

 オレーシャは舞踊にこそ人生をした人間だ。それは彼女が残した、いくつものインタビュー記事にも現れている。舞踊は、彼女にとってのだったのだ。

 それを失ったならば、後継者の育成や、あるいはもっと別のものに情熱を注ぐべきだと人は思うのかもしれない。けれどもガンに全身を侵され、余命いくばくかの身の上で、彼女に残された選択肢というものはほんの僅かだったのかもしれない、とユリアナは思う。

 どんなに辛くとも、かつて踊りの頂点を極めた街に残るか、あるいは去るか。そして彼女は後者を選び、しかし自分の生涯を彩ったものを容易には忘れられなかった。

 《白鳥》と《黒鳥》がこの世に出されたのは、オレーシャの死後何十年もってからのこと。彼女は立体映像ホログラフィのなかでしか、踊るための義足を身につけることがなかった。

 それでもルスランが義足を形にし、彼女に捧げたのは――きっと、誰よりもオレーシャが、生涯を通して、踊ることを愛していたからに違いない。

 金色の光を照り返す両足に視線を落として、ユリアナは考えた。

 ならば今、自分がこの義足を身につける意味とは何なのだろう。


 永遠に捧げられるべき人が失われてしまったこの義足を。




 ブカレストを発って二時間ほど経過した頃、ユリアナとクラエスは目的地に到着した。

 音を立てて去っていく汽車を背に、物売りの姿さえない、こぢんまりとした駅舎を見渡す。回収箱に切符を投げ入れて改札をくぐって外に出ると、あたりには一面、玉蜀黍とうもろこし畑が広がっていた。

 広大な畑に挟まれた細い農道をひたすら進んだ先に、わずかに街の影が見える。

 そこまで辿り着くには、徒歩以外の手段はないようだ。容赦なく降り注ぐ太陽光を見上げて溜息をつくと、ユリアナは持っていた日傘を差した。

 そしてそのまま、黙々とクラエスとふたりで道を歩いた。

「――オレーシャの墓参りをして、どうするんですか?」

 背後から響いた声に、ユリアナは「そうねえ」と首を傾げた。

 その間も、農道に敷かれた硬い土を、一歩、二歩と確実に踏みしめて進む。

「ルスランの遺作を手に入れたいのと、同じ理由ね」

 振り返って、ユリアナは微笑んだ。

 肩上で切り揃えた髪が風にサラサラとなびく。

「バラドを理解したいから――でしたっけ」

 渋い顔をしたクラエスに、ユリアナはうなずく。

「そうよ。――ねえ、ルスラン・カドィロフの出身地を知っている? 彼はグロズヌイの生まれで、バラドと一緒なの」

「グロズヌイ……。あのあたりも、昔から民族紛争がえない場所ですね」

「そう。ルスランは幼い頃から頭が良かったから、将来を見込まれて、叔父にモスクワへと連れて行かれたみたい。ちょうどそのころ、オレーシャも家族とともに移住をしたの。どういう出会い方をしたのかは分からないけれど、ふたりの境遇は似ていたのね。

 今のは余談だけど、きっとね、バラドはルスランに自分を重ねているのよ。同じ土地に生まれ、孤独のままに生涯を閉じた男性にね。けれども彼には、いっそ妄執ともいえるほどに、深く愛した人がいて……」

 瞼を伏せ、すぐそこの地面を眺める。風に玉蜀黍の青々とした葉が揺れ、その長い影が足もとに落ちていた。

「だから私にルスランの義足を与えた。私を彼にとってのオレーシャにするために。おかしな話よね。愛情があって、あの義足が生まれたのに、バラドの場合はそれが逆転しているの。まず義足を与えるべき存在が居て、その存在を、心から愛そうとして……」

 そこで言葉を切ると、ユリアナは前を向いた。

 もうすこしで街に着きそうだ。だいぶ近くなってきた民家の屋根を視界の端に留めて、ユリアナは努めて明るい表情でクラエスに話しかけた。

「――ねえ、クラエス。お願いがあるのだけど」

「……何ですか?」

「今から言うものを、街で調達してほしいの」

 そう言って、ユリアナは買い出しの品を列挙した。

 ノートに万年筆のインク、石鹸に洗剤、新品のハンカチに靴下――他愛のない、そして脈略のない日用品の数々に、クラエスの表情が曇った。

「はあ……? よりにもよって今買う必要がありますかね? まったく、何を言い出すのか思えば……」

「必要あるわよ。昨晩、当主トラウゴットと連絡を取ったんだけど、私、ブカレストからクテシフォンに帰らずに、直接アレクサンドリアに向かうことになったから。復学手続きの関係で、新学期を待たずに一度学校に行かなくちゃで。そこから首都に帰るのも面倒だから、そのまま寄宿舎にも戻っちゃうわ」

「……知りませんでした」

「今はじめて言ったもの。――いくら田舎町でも売店くらいはあるでしょうし、頼んだわよ。ちなみに石鹸はダマスクローズの香りじゃないと許さないわ」

「こんなところに、そんな小洒落たものがありますかね……。というか、自分で買えばいいじゃないですか、自分で。ブカレストかアレクサンドリアで調達すれば、ご希望のものもすぐ見つかるでしょうし」

「あら、気が利かないわね。――だってひとりで行きたいじゃない、にはね」

 ユリアナの言葉に、クラエスは淡青色の目を細めた。

 しかし少女に譲る気がないことを悟ると、大袈裟な溜息とともに、肩を竦めてみせたのだった。

「……わかりました。それなら、お使いに甘んじることにします。――あんまり遅いようなら、迎えに行きますからね」

 ありがとう、とユリアナは笑顔でうなずいた。



 ◆ ◆ ◆



 街の外れ、広大なひまわり畑の片隅にその墓地はあった。

 宗教を持たない帝国ハディージャは、死者が出ると、衛生上の問題からまず荼毘だびに臥される。その後、遺骨が地域ごとに定められた地下施設に収められるだけである。その無機質さに慣れたユリアナにとって、生者のために築かれた弔いのための墓標は、どこか奇異なふうにも感じられた。

 手入れする者がいなくなって久しい、イラクサに覆われた地面を金属の足で踏み分ける。そして、生い茂る雑草を枝で払いのけては、ひとつひとつの墓標に刻まれた名を確かめていった。――記された年代は、どれも遺失文明期のものだ。

「どれもワラキアの言語だわ……。……あら、これはキリル文字ね。……オレーシャ・セスラヴィンスキー――当たりだわ」

 誰も訪れることがなくなって久しい墓地に、ひとつだけ、ひまわりの花を供えた墓があった。

 白い石を覆う蔦を手で払いのけ、墓標の主を確かめれば、ワラキアの文字とともにキリル文字が併記されている。お蔭で、確かに探し求めていた人物の名前であることが分かった。

「きっと、ここを訪れる人のためね……」

 墓の表面を手のひらでなぞり、ぽつりと呟く。

 風がなびき、ユリアナのまとうワンピースの裾が揺れた。

 少女はふと予感に駆られて、背後を振り返った。

 そして目に映った人物に対して、微笑みかけた。

「バラド」

 赤銅色の肌をした男が、視線の先に佇んでいた。彼は林檎の古木の下に立ち、あるものを抱えている。日の明かりのもと、プリズムを反射して目映い虹色に輝く、無機質な腕――《聖なる右手》だ。

 ユリアナの予想が裏付けられた瞬間だった。あのとき、バラドがカードをすり替えたのは、アンドルツァの企画した闇オークションへと自分を連れ出し、《社会勉強》をさせるためではない。

 彼の本当の目的は、ルスランの遺作を手に入れることだったのだ。

 そのために、対抗馬となりうる自分を別の会場へと追いやった。遺失技術ロストテクノロジーとはいえ、実用的価値のない《聖なる右手》を熱心に落札するであろう人物は、ユリアナ以外にはいないからだ。

「……ユリアナ」

 片目をすがめ、バラドが苦笑いをした。

「どうしてここに?」

 その問いかけを無視して、ユリアナは笑みを深めた。

 ぎゅっと両手の拳を握りしめ、一度、深く息を吸う。

「――ねえ、バラド」

 そして、穏やかな声で語りかけた。

「かくれんぼをしましょう。すぐそこのひまわり畑で」

「……かくれんぼ?」

「ええ、かくれんぼよ。私のことを、小さい女の子だと思ってくれていいわ。十分経ったら、探しに来てね。あなたが私を探すのよ。――だからちゃんと見つけてね、バラド」

 そう言うやいなや、ユリアナはくるりと踵を返した。

 バラドとは反対方向に歩き出す。顔を上げたユリアナの視界を、太陽の降り注ぐ黄金色が占めた。

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