(18)家族


 眠っている間、ユリアナが夢を見ることなかった。

 しかし目を覚ましたとき、頭に触れる人の体温と微かな重みに――夢を見ているのかもしれない、と思った。


 眠気に抗いつつ重い瞼をこじ開ければ、寝室は青い薄闇に満たされていた。

「目が覚めましたか」

 聞き馴染んだ声が聞こえた。ユリアナが視線を向ければ、寝台のふちに腰かけたクラエスが自分の頭を撫でていた。

「貴方の寝顔を観察していました。眠っているあいだも眉間に皺を寄せたりして、いつもの気難しい表情をしていましたが――」

 ユリアナは眉を寄せた。自覚していない事柄だったからだ。

「試しに頭を撫でてみたら、すぐフニャフニャの顔になって涎を垂らしはじめて。ちょっと面白かったです」

「人が寝てる間に何してくれるのよ。そんなのぜったい嘘じゃない」

 がばりと身を起こして、ユリアナはクラエスの腕を振り払った。

 名残惜しい気もしたが、そうしないとが保てそうにない。ユリアナはしかめ面のままベッドサイドに立てかけた義足を取り、断端部に装着した。ようやく自由に身動きができる体になる。

 そして周囲を見回して、かなり長い時間眠っていたらしいことを知った。ホテルに辿り着いたのは昼前だったが、今はもう日が落ちている。

 休息を取ったおかげで体は軽くなったが――

「お腹が空いたわ」

 ぐう、と鳴った腹を押さえて言えば、クラエスが苦笑する。

「食事に行きましょう。フロントでいくつか料理屋を聞いておきました。希望はありますか?」

「そうね……、魚よりは肉の気分ね」

「ワラキアは内陸にある属領ですから、帝国ハディージャほど魚を食べる文化は根付いてないらしいですね。それなら適当に空いているところに入りましょう」

 ユリアナはうなずいた。もとよりそこまで食事にこだわりがなかった。

「じゃ、支度するわ。あなたは出てって」

 今の自分は寝間着姿で、このまま外出することは流石にはばかれる。ユリアナは理由をつけてクラエスを部屋から追い出した。

 目の前で扉が閉まったのを確認すると――おもむろに敷布シーツの上に寝転がる。けっして、二度寝をしようという魂胆ではない。

 ユリアナは無言で目の前の枕をばんばんと叩いた。満足するまでひとしきりそれを続けると、今度は顔を埋めて声にならない悲鳴を漏らす。

「……くう」

 奥歯を噛みしめて、こぼれかけた歓声を何とか押し留めた。

(危なかったわ。あやうくクラエスの前でニヤニヤするところだったわ……。まあ別に一線を越えたわけじゃないんだけど――いや、越えたのかしら? 学院の子たちの話はついてけないから、あんまりそういう表現がわからないわ)

 ユリアナは枕を抱えながらゴロゴロと寝台の上を転がった。

(知らなかったわ、ここまで最高な気分になるなんて。こんなに幸福感があると……)

 ――どこかに落とし穴がある気がしてしまう。

 寝台の端でぴたりと動きを止め、枕をぎゅっと抱きしめる。

 そしてふと、カーテンに覆われた暗い窓辺を見やった。

 バラドのことを思い起こすたび、自分の歩いてきた道、これから歩くであろう道に思いをせるたび、ユリアナはすこし苦いような気持ちになる。

 泡沫の夢のように、今の現実が崩れ落ちてしまうのではないか。

 きっと恐怖はいつまでも自分について回り、けっして消えることがない。

 死の影はいつか確実に自分を捕まえ、命を奪うだろう。何故ならばユリアナの選んだ人生は、常に誰かの犠牲と隣り合わせだから。――たとえば自分がウルヤナの犠牲の上に立つ人間であるように。


 ユリアナ・ファランドールという人間の結末は、きっとハッピーエンドではない。



 ◆ ◆ ◆



 クラエスが選んだのは、目抜き通りメインストリートに面した帝国人向けの料理屋だった。古い石造建築を居抜きにした店内は、やはり人気がまばらで、ふたりは一番奥の席へと通された。

 クラエスに注文を任せて、ユリアナは道中で買ったアラビア語の雑誌に目を通した。ふだん読むような小難しい内容ではなく、観光客向けに販売されるカジュアルな情報誌だ。

 帰りのチケットは明日の夜。ルスラン・カドィロフの《聖なる手》は入手できなかったが、せめて観光くらいはして帰ろうという魂胆だった。

「ブカレスト市内か、ブカレストから日帰りできる範囲じゃないと駄目ね。どこがいいかしら……。湿地帯とかブナの原生林はあるけど、いかんせん遠すぎるわ」

 《ワラキア》と記された見開きの地図を見渡して、ユリアナは首を捻った。向かいの席に座るクラエスがそれを覗き込んで、「市内が無難ですかね」と囁いた。

「貴方好みの博物館や図書館もあるでしょうし」

「そうねえ……。でもせっかくなら自然に触れたいわ。ワラキアは自然保全が進んでいるらしいし……」

「貴方が、自然に、触れる」

「何よその顔は」

「ユリアナ、貴方が太陽の下を元気に駆けまわる姿が想像がつかなくて」

「うるさいわね。いくら義足だからってバカにするんじゃないわよ」

 そういう意味じゃないですよ、とクラエスが肩を竦める。ユリアナは彼をひとにらみして、地図に視線を戻した。

 ブカレスト周辺に目ぼしい観光スポットはないようだ。

 そう思いながら、赤い線で記された列車網を指で辿る――

 ふと、違和感を覚えた。

(……何か、見覚えのあるような……)

 ワラキアの中心駅から、長距離鉄道で二時間ほど行ったところにある小さな駅。田舎町らしき名称に、いったい何の本で読んだのか、と思考を巡らせたところで、給仕の女が姿を現した。

 彼女の両手のトレイには大量の料理が乗っている。ユリアナは慌てて雑誌を退け、料理を置くためのスペースを空けた。

「あら。帝国料理かと思ったら、違うのね」

「属領統治下ではめずらしく、ワラキアの伝統料理を提供している店と聞いて。――ウングレアーヌ家が出資した店だそうですよ」

「ふうん……」

 大皿の上には、葡萄の葉で巻いて蒸した挽肉の包み、付け合わせにはトウモロコシを牛乳と乳脂で練った――別の皿には白いインゲン豆を煮込んだスープ、羊のチーズや腸詰の盛り合わせ。帝国ハディージャの食に近いが、それほど多くの香辛料は用いられていないようだ。

「――この料理、アラクセスにも似たようなものがあったわ」

 挽肉の葡萄葉包みをフォークで突いて、ユリアナは言った。口に含んで噛めば、酸味のある温かい葉と一緒にほろほろと肉がくずれる。

 たっぷり旨味を含んだ肉汁が口のなかに広がり、思わず笑みをこぼしてしまう。

「地理的にもさほど遠くないですから。文化的な交流があって、気候条件が近かったとか、そういう理由でしょう」

「懐かしいって感じるわ。私、ぜんぜん家族の思い出とかないのに――不思議なものね」

「……ああ。そういえば、そうでしたね。何も覚えていないんですか?」

 ウルヤナに拾われる以前の記憶を、ユリアナは持っていない。

「ええ。私が生まれたところは紛争地域だったから、遺伝子情報とかも管理が行き届いてなかったわ。だからこそ、帝国籍になりかわることができたんだけど。……もしかしたら家族の誰かは生きているのかもしれないけど、永遠に探せもしないわね」

 『アンナ』と呼ばれていた時分の自分が、どんな生活をしていたのか――忽然と抜け落ちた記憶は、もうどうやっても手繰り寄せることはできない。もしかしたらどこかで自分を探しているひとがいるのかもしれないと思うが、それもわからない。

 しかし同時に、恵まれた家族生活だった保証はどこにもない。失ったものにかかずらうほど、この十年が満たされていなかったわけでもない。

「私、バラドが家族でよかったわ」

「――そうですか」

「あなたの思う家族とは違うかもしれないし、きっと、理解もしてもらえないんでしょうけど」

 スープをすくう手を止めて、クラエスは眉間に皺を寄せた。

「違うわ、そういう意味じゃないの。確かに、バラドがいなかったら悲惨な生活をしてたかもしれない。アンドルツァの言うようにね。でも、やっぱり、幸せだったって思うもの」

「……今は?」

 クラエスの言葉に、ユリアナは「え?」と聞き返した。

「今は幸せじゃないんですか、貴方は」

 苦い顔をしたクラエスを前に、ユリアナは目を瞬いた。

 そして口もとを綻ばせると、ゆっくりとかぶりを振った。

「もちろん幸せよ。私の人生に、幸せじゃなかった時なんてないもの」



 ホテルに戻る頃には、日もとっぷり暮れていた。ユリアナはフロントで追加料金を払い、電子端末タブレットを有線でインターネットに繋いだ。

 すぐさまファランドール家の仮想専用線に切り替える。調べものをした後、何件か入っていたトラウゴットかのメールを確認する。彼からのメールは、アレクサンドリア女学院への復学や、復学後の生活に関する事務的な内容ばかりだった。

 長椅子カウチの上でそれらを処理していると、突然、着信が入る。

「何よ、こんなときに。いったい誰が――」

 《非通知》と書かれた画面に戸惑いつつ、ユリアナは渋々通話状態に切り替えた。もしこの相手がトラウゴットで、着信を切ろうものなら後で小言を食らうことは必至だからだ。

『やっほー!』

 ――すると突然、甲高い少女の声が響いた。

「……はあ? 桑雨サンウ!?」

 画面に映り込んだのは、少々画質は荒いが、見間違えようもない――桑雨だった。どこに居るのかは定かではないが、室内のようだ。

 カウチに座って、団扇を扇いでいる。アル・カーヒラかクテシフォンかは知らないが、今夜も猛暑のようだ。

『ユリアナ、久しぶり。元気にしてた?』

「なんであなたが私に通信できるのよ」

『僕は天才だからね。ていうか、命の恩人にむかってその態度?』

 う、と言葉を詰まらせて、「そのことは感謝しているけど……」ともごもごと答える。

 会話が聞こえたのか、浴室で洗濯をしていたクラエスが姿を現した。ユリアナの電子端末タブレットを覗き込むと、重い切り顔をしかめる。

『ふふん、お揃いだね。相変わらず仲がいいみたいでニヤニヤしちゃうよ。僕がアル・カーヒラで言ったことが現実になっちゃった?』

「うるさいわね。いったい何の用なのよ、あなた」

『この前、うっかり子犬を拾っちゃってさあ。意外と面倒を見るのが大変だし、餌代もかかるし、ちょっとお小遣い稼ぎをしたくてね。そういえば命を救った相手をいることを思い出したわけ』

「命を救った対価が軽すぎない?」

『そう? ま、それは冗談として。まあかくかくしかじかってわけで、ユリアナ、僕から情報を買わない?』

 そう言って、桑雨が足もとにいたらしい子犬を抱き上げる。

 彼女の腕に抱かれて、赤毛の愛くるしい犬がクウンと鳴いた。

「情報?」

『そう。ラインナップは豊富だよ。今夜のレシピから、アズハル高等学院の定期試験のヤマ当てまで。あと人探し程度なら手伝うかな?』

「なるほどね。犬の餌代相応の内容だわ。……じゃあ、今から聞くこと、調べてくれる?」

 ユリアナの口にした内容に、「そんなこと?」と桑雨が肩を竦める。

『まあ調べてはみるけど、そんなに昔に死んだ人間の情報なんて残ってるかな。――もしわかったら、振り込み先と金額と一緒に連絡するからよろしく!』

「期待しないで待ってるわ」

 そう言って、プツンと通信が切れる。

 ユリアナは物言いたげなクラエスと目を合わせた。

「……何故、そんなことを?」

 脇に置いた観光雑誌を手に取り、「聞き覚えのある駅名があったから、考えてたの」と返した。開いたページにはワラキアの地図がある。

 指先で指し示した駅名を前に、クラエスは首を傾げた。

「なかなか思い当たる節がなかったけど――調べるうちに思い出したわ。古い記事で読んだのね。ここは、オレーシャ・セスラヴィンスキーが死んだ場所なの」

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