(20)君の愛だけがほしい


「ああ……。思った通りだ」

 暗闇のなかで、ほとんど吐息のような、かすれた男の声が響く。

 私は彼の下敷きになって、背中にその重みと体温を感じていた。体の中心を切り裂いて埋め込まれたものの熱と痛みに、眩暈がした。

 彼はしきりに私の頭を撫でて、小さな声で囁き入れる。

「君は右足がないから……。義足を扱うために腰回りの筋肉がついて、体幹も人よりしっかりしているんだ。だから……きっと、具合も良いだろうと思っていた」

 指先で、ゆっくりと私のもつれた髪をく。

 私はただ暗闇を見つめたまま、声を出すことさえできない。


「ずっとこうしたかった。君が欲しかったんだ、ユリアナ。これでわかっただろう? 俺が、どんなにひどい男か。君の信頼に値しない人間であることが――」

 



 ◆ ◆ ◆




 太陽に向けて花を咲かせるひまわりの群れは、ユリアナの背丈を追い越し、少女の小柄な体をすっぽりと覆い隠した。

 頭上でサワサワと風に揺れる黄色の花。その蜜を吸う蝶、ブンブンと翅音はおとを立てて飛び交う何匹もの蜜蜂。首都クテシフォンよりも幾分か湿気のある夏の空気が、ワンピースの白い袖から伸びた両腕やうなじに纏わりついた。

 黒土を靴の底で踏みしめ、時にその青々とした葉や茎を体でより分けながら、無数のひまわりに挟まれた細い農道を行く。自然の迷路園は、頭上の太陽がなければ、いま自分がどこにいるかさえ曖昧になる。

(――もうすぐ、十分経つかしら)

 義足のゆるやかな歩調でも、十分あればそれなりに墓地から距離を取ることができた。経験上、バラドは自分との約束を守るだろう――言葉どおり、十分経ってから自分を探しに来るはずだ。

 彼の姿を探そうと、来た道を振り返るが、風にしなるひまわりが視界を覆い尽くすばかりだ。周囲を埋める黄金色に、外界から隔絶されて、広大な花畑にひとりだけ取り残されたような孤独感を抱いた。

 ユリアナはふたたび前を向いた。そう簡単に捕まってやるものか、という矜持きょうじを胸に。

 花がそよぎ、虫が羽ばたく以外に、どんな音も聞こえない。

 サクサクと乾いた土を踏みしめて進む。

 ――バラドの足音はまだ聞こえない。

 心はいでいる。恐怖や怯えはなかった。

 けれども漠然とした不安だけは胸に残っていた。

(バラド、今どのあたりに――)

 視線をめぐらせた矢先、ザワザワと背後で束になった複数のひまわりが揺れた。かと思えば、そこから伸びた腕が自分の肩に触れる。

「――捕まえた」

「バラド……!?」

 突然現れた男に目をみはる。

 バラドがもう片方の手に握った、透明な《右手》がキラリと光に反射した。慌ててユリアナは完全に捕まえられる寸前で身をひるがえし、後退した。

「ユリアナ?」

「息が切れてるわ、バラド。走ってきたでしょう? 私は走れないんだから、歩いて探さないと不公平だわ」

 道の中央に姿を現したバラドに、努めて笑顔で話しかける。ワンピースの裾を揺らして、ユリアナは背後を振り返りながら農道を進んだ。

 後出しの条件に釈然としない顔をしつつも――律儀にそれを守って、バラドはゆるやかな歩調で彼女を追いかける。

「どうして、急にこんなことを?」

「あなたと遊びたかったからよ」

 煙に巻く答えに、バラドは眉間に皺を寄せた。

 頭上から射す太陽光が、彼の赤銅色の肌を艶めかせている。大柄な男に細い農道は窮屈そうで、常に両脇に生えたひまわりが、その肩口に触れている。

「俺には、今、君が何を考えているのか分からないな」

「そう? あなたなら何でもお見通しかと思ったわ」

 微笑み、ユリアナは「もう一度よ」と言葉を続けた。

「かくれんぼの話よ。また十分待って、次は歩いて探してね。ずるしちゃだめよ」

 立ち止まって、そう宣言する。金属の義足に、風に膨らむワンピースの裾が絡みつく。

 泥の道にはひまわりと自分のもの、両方の長い影が落ちている。

 バラドが足を止めたのを確認して、ユリアナは曲がり角を進んだ。彼の視界から消えたところで、道を外れ、思い切ってひまわりの群生に体をもぐり込ませた。

 チクチクとした葉や茎の感触が両腕に触れるが、かまわず奥へと進んでいく。

 農夫の足で踏み硬められた道とは異なる、花を育むためのやわらかな腐葉土は、ひどく歩きづらい。それでも懸命にひまわりをかき分け、道なき道を行く。

 土と、青臭い緑のにおいが、むっとした熱気のなかで漂っている。肌が汗ばみ、だんだんと息が切れてくる。頭上を見れば、天にむかって頭をもたげた無数のひまわりが空を覆い隠している。光の届かない薄闇のなかで、微かに不安を覚えたが、それでも足を止めることはしなかった。

「――ユリアナ」

 どこからか、バラドの声が木霊こだまする。

 あっという間に十分が過ぎてしまった。

 足場の関係で、先程よりは距離を取れていないはずだ。それでも彼の声に、どこか焦りがつのりはじめているのは、聞き間違えなのか――

「ユリアナ!」

 バラドが叫んだ。

 遠くから、彼の足音が聞こえる。

「ユリアナ、どこだ? どこにいるんだ?」

 農道から外れてしまった自分は、彼の目には忽然と消え失せたように映ったのかもしれない。

 バラドの声が段々と遠のいていく。

 ひまわり畑はゆるやかな斜面に沿って続き、ユリアナは上方向に向かって花畑を突き進んでいた。両手で葉や茎をかき分けた先で、また新たな農道に出る。

 息をせき切らせながら、後ろを振り返る。

 すると、ひまわり畑のずっとむこう側を望むことができた。太陽に向かって頭をもたげた花の向こう側で、キラリと何かが輝く。

 ――《聖なる右手》だ。

 自分の右足と同じ輝きを放つ、美しい人工の腕。

 まるで目印か何かのように、バラドがそれを掲げているのだった。

「――バラド」

 小さな声で、ユリアナは囁いた。

 その声が風に乗って運ばれたわけではあるまいに、農道の先に佇む自分の存在に気が付いたバラドが駆け出した。「走っちゃだめって言ったじゃない」――そう呟いた矢先、伸ばされた両腕が、ユリアナの上半身を抱き締めた。

「……っ、もう、何よ! ルール違反じゃない、バラド!」

「――すまない。君が花の化生かせいさらわれてしまったんじゃないかと……急に不安になって」

「もう。ふざけたことを言わないでよ」

 バランスを崩して、背中から道の半ばに転倒する。背中に、太陽で温もり乾いた泥が触れた。それでも自分を抱き締めたまま、覆いかぶさってくる男の胸を、ユリアナはどんどんと叩いて押し返そうとする。

「……ふざけてない」

 しかし熱のもった真剣なまなざしに、手を止めた。

 バラドはユリアナの前髪をかき上げ、額に飛んだ泥を指先で拭った。

「俺はいつも不安に苛まれているよ、ユリアナ」

 唇をぎこちなく笑みの形にゆがめた男に、ユリアナは一度声を無くした。

 道に転がった、硬質な輝きを放つ右手を視界の端に留め。ゆっくりと顔をバラドの方向へと向ける。

 逆光のなか、彼の表情かおの詳細まではわからない。

「……知ってるわ」

 深くうなずき、「だってあなた、いつも不安そうな顔をしているもの」と、ユリアナは囁いた。

 ――いっとき、沈黙がふたりの間に流れた。

 黒色の瞳のなかに、自分の顔が映り込んでいる。平然とした様子で虚勢を張る、いつもの表情かおが。

 そしてその眼球の表面は、道端に転がる、虹色の光さえ照り返していた。

「――ねえ、バラド。《聖なる右手》は、どうして作られたの?」

 ユリアナの問いかけに、バラドは目を細め、「さあ」と首を振った。

「ルスランの遺作なんでしょう?」

「ああ、そうだ。彼が死ぬ前に遺したものだよ」

「彼はオレーシャをためにこの右手を?」

 逡巡した末、バラドがうなずく。

「わからないが、おそらく。オレーシャの骨を収める目的があったんじゃないかと、俺は考えている。けれども生涯、彼はワラキアの土地を踏むことがなかったようだ。なぜなら……」

「この右手に、何も入っていないのね」

 ユリアナの指摘に、バラドは目を伏せた。

 アンドルツァの言葉では、モチーフとなった《聖なる手》には、かつての偉人の骨が収められているという話だった。形だけを真似たのではないならば、ルスランもまた、そこに骨を収める目的があった。同時に、《白鳥》と同じ特殊金属を用いたその右手が捧げられるべき相手も、きっと一人だけだ。

「こうも湿気のある土地だと、オレーシャの――墓の下の骨も溶けてしまっているだろう。もう永遠に、収めるものを失ってしまったというわけだ」

 この《右手》からは意味が失われてしまった、そうバラドは続ける。

 風が凪ぎ、周囲から音が遠ざかる。視線の先で、一匹の蜜蜂が飛んでいった。

 バラドはゆっくりと身を起こし、立ち上がった。

 透明な右手を掴むと、それを無言で見つめる。険しい顔のまま。

「わからないな……。どうして、彼はオレーシャの墓を訪れなかったのだろう。なぜ、この右手だけが残されたのだろう……。死人のことなど考えてもわからないはずなのに、つい、思いをせてしまうんだ。馬鹿らしい話だな」

 ユリアナは土の上に座り込んだまま、暫く黙り込んだ。

 バラドが背を向け、「戻ろうか」と声をかける。

「クラエスと来ているんだろう。あまり心配させないほうがいい」

 彼の作りだす影のなかで、ユリアナはやはり答えなかった。左胸に手を当てて、自分の鼓動をゆっくりと数える。そうすれば、少しだけ気持ちが落ち着いた。

 ――ここで彼と別れることはできない。

 自分は、ただ彼と遊ぶためだけにこの場所を訪れたわけではない。そう決意を固めて、「ねえ」と声をかけた。

 「ユリアナ?」と怪訝そうな声とともに、バラドが振り返った。

 ユリアナは息を吸った。スカートの裾をぎゅっと握りしめ、かぶりを振る。

「――バラド。私は、あなたの期待に沿えなかった?」

 色の異なる義足が、土の上でキラキラと光る。

 その照り返しを受けて、バラドが眩しそうに目を細める。

「急に、何を言い出すんだ? 君はずっと俺の期待に応えてきただろう。後見人からの、過度なまでの期待を。優秀で、理知的で、常に俺の思うような振舞いをして……」

「そうね。私じゃなければ、きっと、あなたは育てきれなかったわ。じゃあ後見人からの期待ではなく、ただのバラドからの期待に……私は応えられた?」

 バラドはふと柔らかい笑みを消した。

「……君が無事に女学院を卒業できたなら、外の世界を知る前に――多少強引にでも、結婚まで持ち込むつもりだった。叶わない夢になってしまったけれどもね」

 そう、とユリアナはうなずく。

「そんな気はしていたわ」

 薄々は感じていた。バラドは、けっして自分に飛び級をさせようとしなかった。ユリアナの成績であれば、アレクサンドリア女学院のカリキュラムは一年で修了できる。そうすれば目標とするアズハル高等学院の受験資格を得られる。

 ――けれども彼はそれを良しとしなかった。他の学生同様、十八歳で卒業するようにわざわざ言い付けたのだった。

 属領人は十六歳で婚姻関係を結ぶことが可能だ。一方で、帝国籍の帝国人は十八歳からと定められている。これは前者が遺伝子保護法による強制婚の影響下にあることがその理由とされる。クラエスが独身なのは、母親方の家系に遺伝子変異の発現性があるためで、リストから外されているからだ。

 バラドはユリアナが十八歳になるのを待ち望んでいたのだ。そのために、女学院以外の世界には触れさせようとしなかった――

「あなたはきっと、あなたを心から愛して、慈しんでくれるようなひとが欲しかったのね。そのために私を育てたけれど、私はそうはなれなかった。いつも自分のことばかり考えていて、あなたのことを考えられなかった」

「いや……」

 バラドはゆるりとかぶりを振り、「自分でも、都合のいい夢であることは分かっていたんだ」と呟いた。

「でも、いまでもたまに考える。君と一緒にいることができたかもしれない時間を。もうすこしまともな人生を送ってきたならば、それも叶ったのかもしれない。しかしその場合、そもそも君に出会うこともなかったのだろうね……」

「そうね。でもバラド、これは何度も伝えてきたことだけど……私、あなたと過ごせた時間は宝物よ。十年間、一緒にいることができて、とても幸せだったわ」

 きっぱりと言い放ったユリアナに対し、バラドはふとおとがいを上げ。

 その場に膝をつくと、少女の両肩を掴んだ。

「それなら……」

 至近距離に顔を寄せられ、吐息が鼻先にかかる。

 黒色の瞳が、痛いほどにまっすぐに、自分を見つめている。

 冬山の狼よりもずっと餓えたまなざしは、ユリアナを捕まえて、呼吸さえできなくしてしまう。その果てのない暗闇のなかに、少女を取り込もうとする。

「それならどうして、これからも俺と一緒にいてくれない? ――ずっと一緒にいよう、ユリアナ。これまでのように。君とならば、どこへでも逃げていける。どこにだって連れて行ってやれる。

 それなのにどうして……俺だけを愛してくれないんだ? ユリアナ……」

 肩を掴む力に顔をしかめ、痛みを逃そうとユリアナは身をよじる。

「だって、私たちは別の人間だもの。私、もうあなたの期待するようになんて振舞えないわ。素敵で優しい後見人のために、一心に努力することはできない。あなたの気に入るような言動も、態度も取れない。それはもう、あなただって分かっているでしょう!?」

 声を振り絞って暴れれば、道の上に押し倒される。上から体重をかけられて、一瞬、ユリアナの視界が黒く染まった。

(―――あ)

 瞼裏まなうらに過去の情景がフラッシュバックする。

 我に返ったとき、両足の重みが消えていた。義足を外されたのだ。自分の手に届かない距離に追いやられたそれを見て、ユリアナの表情がはっきりと絶望に染まる。

「ユリアナ……。お願いだ。そんなことを言わないでくれ……」

 懇願する男の頭が、胸もとに預けられる。その間にも彼の熱い手のひらは、スカートの下にもぐり込み、少女の柔肌をまさぐろうとしていた。

「俺を受け入れて、俺を愛して。誰よりも、俺だけを。この孤独を埋めてほしいんだ、ユリアナ……。君にしかできないんだ……君しか……」

 毅然とした態度で向かわねばならないと思うのに、舌の根が乾いて、うまく声を発することができない。助けを求めた指先は、泥ばかりを掴む。

「っ……、」

 乾いた指先が、布越しに下腹部に触れて、そっとなぞった。

 ユリアナはぎゅっと拳を握りしめて、弱弱しくかぶりを振る。

(どうして、うまくいかないの)

 切り離そうとしても、傷口が痛むだけで、完全に分かたれることができない。心の底で彼に同情をしている。本音の部分で、自分以外にこの憐れな男を愛する人間がいないと思っている……。

 彼の求める愛とは、砂漠を流れる水のようなものだ。

 けっして砂礫に染みこむことがないまま、流れてゆく。

 乾ききった心を潤す方法が、ユリアナにはわからない。

(わたしは、このひとを幸せにしてあげたいのに……どうやったら幸せにしてあげられるのか、わからない……)

 たとえ彼の言うとおりずっと傍に居たとしても、バラドのなかの飢餓は続いていくに違いない。

 ユリアナの愛情を、何度だって試そうとする。

 そのことを理解しているから、一緒にはいられない。

 両足の断端部を掴んで持ち上げられ、彼の膝に乗り上げる格好になる。ユリアナは力なく両腕を投げ出したまま、下着にかかる指先を見つめた。

(どうしたら、いいの……)

 そう思った瞬間、背後から足音が響いた。

「……っ、な、にしているんですか――!」

 聞き慣れた声が響く。とっさに後ろを振り向いたバラドが、ユリアナの視界から消えた。

 代わりに目に飛び込んできたのは、息をせき切らせ、長い白金色の髪を風になびかせる青年の姿だった。

「――クラエス」

 強張る体から力が抜ける。呼び声に応えて、クラエスが険しい顔を一瞬緩めた。

 しかしすぐにユリアナを庇うように背を向けて、ひまわり畑にむかって蹴り倒された男を睨みつけた。

「言いたいことは色々ありますが――まずは白昼堂々、ユリアナに襲いかからないでくれませんか」

 義足を拾い上げ、ユリアナにむかって投げつける。そして無言で肩を竦めた男に歩み寄ると、その襟首を掴んで頭を揺さぶった。

 バラドはされるがままだったが、その表情には余裕さえ浮かんでいる。

「すごい形相だな、クラエス。そうカリカリするな。どうせお前はいつも一緒にいるんだ。少しくらい、俺もおこぼれを貰ったってかまわない――」

 彼の声を受けてクラエスがどんな表情をしたのか、ユリアナには分からない。しかし襟首を掴まれたまま平然としていたバラドは、はっきりと笑い声を漏らした。

「何だ、まだなのか。――お前、童貞か? 救いようのない奴だな」

 バラドの発言に、クラエスは無言でその体を放り投げる。ひまわりの群生のなかに、バラドの体が重く沈み込んだ。

 身を起こしかけた男の腹を、クラエスの容赦なく踏みつける。苦悶の声を漏らしつつも、バラドは嘲笑を絶やそうとはしなかった。

「可哀想な奴だな。俺は知っているぞ。あのの肌の感触も、体温も、どんなふうな声を漏らすのかも。ユリアナは両足がないから踏ん張れないし、刺激をうまく体の外に逃がせないんだ。可愛いものさ。はじめて俺を受け入れたときなんかは、顔を真っ赤にして――」

「……っ、クラエス――」

 再びバラドの襟首を掴むと、クラエスは問答無用でその顔を殴った。一発だけでなく、容赦なく何発も続けて。皮膚に食い込む重い拳の音に、ユリアナはしかし顔を背けることができなかった。

「優越感に浸るのは勝手ですが――」

 怒りからかぶるりと身を震わせ、クラエスは炎天下に怒声を響かせた。

「貴方がしていることは、ユリアナの信頼を試した上で、傷つけるだけの最低な行為です。怖がらせて、怯えさせて、それでも自分を受け入れてくれる。そのことに愉悦と安心感を得ているだけなのが、どうしてわからないんですか!?」

「……言ってくれるな。愛情や信頼というものは、少なからず互いに対価を払うことで保たれるんだ。無償のそれは存在しない。御伽噺だ」

「たしかに、関係を維持するには、互いの努力や思いやりが必要でしょう。でも、それ以上に貴方はユリアナを試し続けて、たくさんのものを払わせ過ぎたんだ。――けっして、愛情ではない」

 もたつきながらも義足を身につけ、ユリアナは何とか立ち上がる。バラドに馬乗りになって、さらに手を上げようとするクラエスを呼び留める。

「クラエス。いいの。……もうやめて」

「……ユリアナ」

「私が悪いの」

 そう言い放てば、クラエスがかぶりを振った。厳しいまなざしで、男の顔を睨みつけている。

「……貴方は悪くない、何も! そう思わせること自体が、この男の思惑です」

「そうかもしれないわ。でも、もうやめてほしいの……」

 震える声でそう答え、クラエスの背中に抱きつき、懇願をする。

 クラエスは迷った末に腕を下げ、溜息をついた。

 そのまま青年を下がらせて、ユリアナは地面に横たわるバラドの顔を覗き込んだ。ハンカチで、彼の顔についた血を拭う。

 バラドは苦痛の声を漏らした。相当殴られたようだ。ユリアナは膝を抱えて、痛ましい男の顔をじっと見下ろす。

「ごめんなさい、バラド」

「君が謝ることはない」

 そう言った彼に対して、ありがとう、とユリアナは小さな声で返した。

「……私、あなたを幸せにしてあげたい。でも、あなたに接するほどに、それがどんなに難しいことなのか、思い知るのよ」

 震えてかすれる声で、そう続ける。少女の体を埋め尽くすのは、無力感だった。ただひたすらに、このひとに身も心も捧げることができたなら――きっと、お互いに幸福だったに違いない。けれども、ユリアナにはそれができない。

 何故ならばユリアナの人生は、彼のものではない。ユリアナの両足は、彼に寄り添って歩くために存在するものではない。ウルヤナから受け継がれた精神を全うするために、その険しい道を進むためだけに、存在するものなのだ。

 そっと腕を伸ばす。上体を起こしかけたバラドの頭を、胸で抱き締める。

 子どもにそうするように、優しく、彼の髪を撫でた。

「……ユリアナ」

 すると、不意にバラドの体から力が抜けた。

 弱弱しくしなだれかかる男の体を抱きとめて、ユリアナは目を閉じた。

 風が吹く。半ばで茎の折れたひまわりの花が、背中にもたれかかる。

 すぐ傍から、太陽の匂いがした。

(ああ……そうなのね。ようやく、わかったわ)

 弱弱しく自分にしがみつく男の背を、ぎこちない手つきで撫でた。

(あなたはずっと、過去に得られなかったものを、私に求めていたのね……)


 ――グロズヌイの冬はひどく凍てつくという。路頭に彷徨う幼い子どもの姿が、ユリアナの瞼裏まなうらぎった。

 空虚さえを抱えたまま大人になり、愛情を求めた育て親を手にかけた。それでも、彼は自分の虚しさから決別できなかった。

 この人には、ウルヤナも、クラエスもいなかった。

 自分しか――


「……もういい」

 暫くして、バラドはユリアナから身を離した。

 無言で、ゆっくりと立ち上がる。項垂れたまま、視線も合わせようとしない。

 クラエスの横を素通りして、ルスランの《右手》を拾い上げ、そのまま農道を歩いて去ってゆく。遠ざかる男の背を、ユリアナは黙って見つめた。

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