初夏、死海への道途

初夏、死海への道途



 私の名前は、マリアム・ハーディ。

 一六歳、帝国人。実家は貿易業を営んでいて、兄が一人いる。

 アレクサンドリア女学院の高等部に通う一年生で、この秋から二年生になる。得意教科は地学に修辞学、苦手な教科は歴史学。自分で言うのもなんだけど、まあまあ顔も可愛いと思う――自慢は母譲りの黒茶の髪ブルネットにはしばみ色の目だ。今は夏期休暇の真っ最中。うっかり期末試験で欠点を取ってしまった私は、学校で補習を受けていたことが原因で、家族にひとり遅れて観光地に向かう列車に乗っている――はずなのだが。

「……何が起きているのかしら……」

 深夜、二等車のコンパートメントで眠りこけていた私は、列車が急ブレーキをかけたことによる衝撃で目を覚ました。

 徐々に周囲がざわつくなか、『部屋から出ないでください』というアナウンスが列車を流れる。まあ何かトラブルでもあったのだろう、と高をくくり、再度まどろみかけた矢先――遠くから、かすかな銃声音が響いた。

 思わず飛び起きて、素足を靴に通す。そして周囲に耳を澄まして様子を窺った。

 複数の悲鳴、なにかものを倒す音、ガラスの割れる音――それらが一挙に押し寄せるなか、廊下を荒々しい足音が駆け抜けた。

 公用アラビア語でない言語で喋る男たちの声……コンパートメントの扉をひとつひとつ開ける音が、だんだんと私のいる方向へと、近づいてくる。

 ――〝何か〟が起きている。それも尋常ではないことが。

 いわゆる、『トレイン・ジャック』と呼ばれるものかもしれない。そんなもの、ニュースや新聞、あるいは小説でしか見かけたことがないけれど。

 それがどうして? 何の目的で? ――いままでにない危険的状況にひんしていることにようやく気が付いて、私は愕然とした。

 家族旅行を楽しみにしていただけなのに……どうして?

 ぎゅっと服の裾を掴んで、体を縮こまらせる。呼吸を押し殺す。どうか侵入者たちがこの部屋にまで辿りつかないことを祈って。――しかし願いはむなしく、私の目の前で、コンパートメントの扉が開かれたのだった。

 姿を現したのは、二人連れ。銃器を脇に抱えた、覆面姿の男たちだった。

 かれらは舐めるように私を見ると、「外へ出ろ」と下手なアラビア語とジェスチャーで指示をしたのだった。


 ◆ ◆


 後ろ手に腕を縛られ、長い列車の端のほうまで連れていかれる。そして乱暴に肩を押され、倒れ込んだ先は――操縦室とおぼしき場所だった。

「……っ」

 強引に投げ込まれたせいで、膝からもろともくずれ落ちる。膝頭をしたたかに打って、痛みと恐怖で涙がにじんだ。

 振り返ろうとした瞬間、大きな音を立てて機関室の扉が閉められた。

 ガタガタと全身を震わせる私の頭に浮かんだのは、『人質』という単語だ。

 彼らの目的は何かわからないけれど……『人質』を取ることで、なにかの要求を通そうとしているには違いない。そっと顔をあげて周囲を見回せば、狭い室内には男女複数の姿があった。誰もが私とおなじように手足を縛られ、中には運転手らしき人物の姿もある。

 みなが沈鬱な面持ちをするなか、私は最後に目に付いた人物を前に、アッと声を上げてしまった。

「――ユリアナ?」

 カンテラの明かりに照らされる機関室に、見知った顔を見つけたからだ。

 ひとりだけ不服そうな顔をして、機関室の隅で座っている女の子。

 ――ユリアナ・ファランドール、私の同級生だ。

「……誰?」

 しかし彼女は青い目を瞬くと、ジロリと鋭いまなざしで私を睨みつけた――え、本当に? 覚えてない? 彼女が転入してきた時期、初等部から同じクラスなのに。

「私よ、同級生の……マリアム・ハーディ! あなた、急に学校から消えたと思ったらこんなところで会うなんて……すごい偶然ね。ねえ、学校にいないあいだ何してたの? あと髪を切ったのね? ――ところで私たち、今どうなってるの? わかる?」

「そのうるさいお喋りで誰か思い出したわ、ありがとう」

 できるかぎり小声で話しかけたつもりなのに、そんな風に返されるものだから私も思わず鼻白んでしまう。しかし悲しいかな、その冷たい態度が記憶の中のユリアナ・ファランドールと相違ないことも事実である。

 ――ユリアナ・ファランドールといえば、女学院ではちょっとしたの人物だ。初等部のころから一度も首席を譲ったことがないくらい頭が良い。そして美人だ。濡れたような黒色の髪、白皙の肌、深い青色の目――ツンと唇をとがらせる、不機嫌そうな顔さえびっくりするくらい可愛い。私も可愛いけれど、彼女ほどじゃない。ただ性格にちょっと難があるというか――あんまり愛想が良くなくて、人によってはそれが〝高慢〟とか、〝尊大な態度〟とか、〝おたかく止まってる〟なんて捉えられてしまう。そして私もおおむね同意する。

 そんな彼女が、突如『失踪』したのが去年の秋だ。

 噂によると、軍服姿の男に連れて行かれたというのだから! 彼女のその『逃走劇』については教師から厳しく緘口令が敷かれたが、年頃の女子が集まる環境なだけはあって、今でもたびたび話題に上がっている。

 ――実はものすごい悪女で、国を揺るがすとんでもない罪を犯したとか。

 ――いやいや、あれは駆け落ちだとか。今頃海外にいるだとか。

 そんなふうに好き勝手みんなが予想をしている、ユリアナ・ファランドール。

「……あなた、義足だったのね」

「ストレートに言ってくるとは思わなかったわ」

 床の上に投げ出された彼女の足を見て、おもわずそう口にすれば、ユリアナはとくに気にした風もなく肩を竦めた。次いで「もう隠す必要もないからよ」と続けられたが、どういう意味があるのかは不明だ。

 彼女のスカートの裾から覗くのは、カンテラの明かりを反射してキラキラと輝く、透明な右足と漆黒の左足だった。義足、とは言うけれど、すごくきれいだ。

 ううん、謎が多い――もとからそんな傾向はあったけど。

「状況は私もよくわからないけど、属領系の一派でまちがいないわね。タミル語で会話をしているのを聞いたわ。こんなことをするなんて、よっぽど追い詰められてるのかしら……」

 人質の誰もが自分の行く末を思い、怯えているなか(私もその一人だ)――彼女だけが平然とし過ぎている。「強硬手段に出たのがいけなかったわね」そう彼女がつぶやいたとき、硬く閉じきられていた扉がけたたましく開かれた。

 姿を現したのは、武装した複数の男だ。

 ――喋り過ぎたかもしれない。私が硬直して、宙の一点しか見つめることができないなか、ひとり歩み出た男が室内をぐるりと見回し。

「――っ」

 むんずと私の腕を掴んできたのだった。さらに別の男が頭に銃を突きつける。

「こいつを連れて行く……くそっ、こんな早く連中が来るなんて……」

 そして彼らが小声で会話をする――何か、とても焦っている様子で。

 しかし、銃を突きつけられるという前代未聞の状況に、私は周囲を観察する余裕もなく。手足をガクガクと震わせて、怯えた目で虚空を見つめることしかできない。

 そのまま問答無用で機関室の外へと引っ張り出されかけた矢先――私の目の前に座っていた少女が、声を上げたのだった。

「――ねえ」

 静寂のなか、臆することのない少女の声が朗々と響く。

「もう30分近くこの状態で放置されて、いい加減腕が痛いのよね。――この縄、解いてくれない?」

「――」

「人質を外に連れ出そうってことは、あなたたちにとって、今がよっぽど危機的状況みたいね。これは予想だけど、あなたたちは軍か自治警察かは知らないけど追われる身で、逃走途中でこの列車をジャックしたってことかしら。でも上手く行かなかった?

列車を止めたのがよくなかったわね。もう軍に包囲されてるんでしょう。でも、その子を連れていったところで、あなたたちの逃走は保証されないと思うの。外に出た瞬間、スナイパーに頭部を撃たれておしまい。――これだから属領人は、」

 挑戦的な眼差し。そして滔々とうとうと言葉を紡ぐ彼女を前に、ふと私の腕を掴んでいた手が離れた。体が床の上に投げ出される。

 と同時に、ユリアナが襟首を掴まれ――殴られた。

 しかし悲鳴ひとつこぼさず、あろうことか、彼女は男の顔に唾を吐きかけたのだった。

「っ……! ふざけた真似をしてくれるなよ、帝国人風情が! 恵まれた身の上で、俺たちを馬鹿にするつもりなのか!?」

「そうよ。恨むなら自分の生まれを恨むことね」

 白いまぶたが切れ、血がこぼれ落ちて――愕然とする私を前に、ユリアナはなおも男を挑発する。さらに二度、三度と顔を殴られる彼女から、私は思わず顔を背けた。

「――この女を連れて行くぞ」

 腰から抜いたナイフが、彼女の首筋にあてがわれ――次の瞬間、服を裂く音が響き渡った。白いブラウスの切れ端が床に落ちる。怖々、目線を上げていった先に、胸と胸の間に赤い筋をつけ、血の滴を垂らすユリアナの姿があった。

 彼女は私と目が合うと、微かに笑ったように思われた。

 その表情かおを見た瞬間、心臓が射抜かれたようなきもちになった。

 ――この子は、私を庇ったのだ。

「ふん、好きにするといいわ。どうせ――」

 ――そのとき、背後から別の足音が聞こえた。

 間を置かず、かすかに人のうめき声が響いた。

 機関室へと続く通路に立っている男たちが、見る間に次々と倒れていく。そして通路の奥から姿を現したのは、白金色の髪プラチナブロンドの青年だった。

 長い髪をリボンでひとつに束ね、ジャケットに白い襯衣シャツとズボン姿の軽装。春の湖のような淡青色の瞳に、抜けるように白い肌。――特筆すべきは、その見たこともないくらいに美しい容貌だろう。

 こんな状況だというのに、見入って、言葉を失ってしまうほどの。

「――何者だ?」

 異様な事態に、ユリアナを殴っていた男が手を離した。

 床に倒れ込んだ彼女にすかさず這い寄る。大丈夫? と声をかけると、彼女は目を細めてうなずいた。

「これくらい、たいしたことじゃないわ」

 その言葉に、いったいどんな背景が潜んでいるのか。

 私に推し量ることはできなかった。

 機関室の外の様子を窺おうとしたそのとき、悲鳴が耳をついた。再度振り返れば、通路にあったのは倒れ込んだ男たちの屍の山(もちろん比喩だ)、沈黙。そしてその中央にたたずむ優美な青年――なぜか、デッキブラシを片手に持っている。

 堂々とした態度で彼は通路を突き進み、機関室に足を踏み入れた。

 そしてユリアナを見おろすと、淡青色の目を不愉快そうに細めたのだった。

「……貴方をそんな目に遭わせたのは、誰ですか」

 怒りのもった声は、冷え冷えとしていて――思わず背筋が寒くなる。しかしユリアナは表情ひとつ変えず、首を振った。

「知らないわ。その山のどこかにはいると思うけど。――ところで、デッキブラシを持ってどうしたの? お掃除でもしにきたの? 健気ね」

「あいにく今は人殺しの免許を返上したもので、掃除夫くらいしか仕事がない」

 軽口を叩きあうふたりは、どうやら知り合いらしい。呆然とする私をよそに、美しい青年は腰から抜いたナイフでユリアナを拘束する縄を切る。そして上着のジャケットを彼女にかぶせた。

 次いで、順番に他の人質の縄も切っていく。

 腕を拘束する縄が切れた瞬間、それまでの緊張が緩んだのか、からだから力が抜けてしまった。そんな私の背中を、そっと温かい手が支える。

 金髪の青年だ。思わず目が合って、その美しい容貌に見入ってしまう。

「――クラエス」

 次の瞬間、青年はユリアナに呼ばれて私のもとを離れてしまった。

 ――まだ胸がドキドキしている。

 こんなにきれいな人、この世の中にいたのね……。

「もうしばらくすれば正規軍が突入してくるはずですが、私たちのことは他言無用です。――わかりましたね?」

 クラエスと呼ばれた青年は、ユリアナの肩を抱き寄せながら、冷たい声で言い放つ。そして立ち去ろうとするのを見て、思わず、あの、と声をかけてしまう。

「――なあに?」

 ユリアナが顔を上げる。私はヨロヨロと立ち上がると、服のポケットから取り出したハンカチでそっと彼女のまぶたを押さえた。

 もう片方の青い目が、ふしぎそうに私をみつめた。

「その……ごめんなさい、私のせいで……」

「……気にすることはないわ。別にあなたのためにやったわけじゃないし」

 白いハンカチがみるみる血を吸っていくのに、罪悪感で胸がいっぱいになった。しかしユリアナは優しく微笑むと、「新しいのを買って返すわね」と言った。

「……学校、戻ってくるの?」

「この秋に復学するわ。またクラスメイトになるわよ。だからよろしくね、マリアム」

 それだけ言って、短くなった黒髪をひるがえすと――カツカツと金属の足を鳴らしながら、颯爽と機関室を出て行く。

 夜の薄暗い通路に吸い込まれてゆくふたりの背を、私は呆然と見つめた。

 ユリアナ・ファランドールという人物を、私はすこし誤解していたのかもしれない、と思った。確かに彼女はあんまり愛想がないし、『おたかく止まっている』と揶揄されるのも十分理解できる人間性の持ち主だが。でも、それ以上に……。

 ――武装した男たちを前に、あんなふうにふるまえるなんて。

 男に殴られたとき、彼女の指先が小刻みに震えていたのに、私は気が付いてしまった。だからこそ、余計にすごいと思ったのだ。

 あんな勇気を持った子だなんて、知らなかった。


 ――その後、あの金髪の青年が予告したとおり、列車に正規軍が突入してきた。彼らは昏倒した武装集団を見て首を傾げつつも、粛々と事後処理をやって帰っていった。私たちは途中駅で降ろされ、別の列車に乗り換えるよう指示された。(あとから聞くに、武装集団はユリアナの言ったとおり属領系の犯罪一派によるものだったらしい。彼らは盗品を運ぶ最中だったが、軍に追われており、やむなく列車をジャックしたというわけだ。)

 駅の待合室でなにかを言い争うユリアナと青年の姿を見かけたが、それはもう私には関係のない話である。私は迎えに来た兄とともに、今度こそ家族旅行を堪能すべく、新たな列車に乗ったのだった。



 ◆ ◆ ◆


 ――後日。

「はい、これ。この前のハンカチの代わりよ」

 新学期の始業式後、私の席までやってきたユリアナが、きれいにラッピングされた袋を差し出した。

 礼を言って受け取り、中身を開いてみる。

 すると、テディベアの刺繍が施された新品のハンカチが現れた。

「……あなたって、けっこう可愛い趣味なのね」

 そういうわけじゃないけど、とユリアナが答える。

 ――会話をする私たちを、周囲のクラスメイトが怖々と見守っていた。

 彼女の『帰還』の報せは、教室どころか学校中を騒がせた。さらに制服のスカートから白と黒の義足を堂々と覗かせてやってきた彼女に、私以外のクラスメイトは驚愕したが――当の本人はいたってふつうの様子だ。

「あら、ユリアナ。……虫に刺されてるわよ」

 かわいらしいハンカチをしまい、ふと顔を上げると、彼女の首筋が目に入った。その白い肌でぷっくりと膨らむ虫刺されはあまりに不似合いで、否応もなく存在を主張していた。

「この季節はとくに虫が多いものね。薬使う? ――あら、どうしたの? ユリアナ?」

「な、なんでもないわ。これはただの虫刺されよ。はね」

 なぜか顔を赤くして首筋を手で押さえ、ユリアナはかぶりを振った。なにやら動揺した様子である。私の差し出す薬を受け取らずに、彼女はあわてた風に自席に戻っていったのだった。その後も何度も自分の首を擦っている。

 ――いったい、どうしたのだろう?

 疑問が頭を占めたが、ユリアナ・ファランドールとは、もともと謎の多い人物である。これもその『謎』のひとつ、ということにしておくべきだろう。

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