(ユリアナ視点)初夏、死海への道途



「――それで? 何故ここまで満身創痍なのか、一から十まできっちり説明してもらいましょうか」

 機関室からコンパートメントまで戻るやいなや、荷鞄から救急セットと替えの服を取り出すと、クラエスはそう問いかけたのだった。

 ユリアナが青い目をすがめ、顔を上げると、明らかに不機嫌そうな――しかめ面の青年の顔が目に入る。しかしひるまず、「説明するほどのことなんて何もないわ」と挑戦的に言い切ったのだった。

「何はともあれ、結果オーライよ」

「……貴方が『大丈夫、目立たないように大人しくしているわ』と言ったから送り出したんですよ。貴方はその信頼を裏切った! ――もう今後一切、貴方の言葉は信用しないようにします。まさかこんな怪我をするなんて……」

「あら、軍人のくせにリスクヘッジもできないなんてアホらしいわ。私はその危険性も承知の上で行ったんだから。――ちょっと、物に当たらないでよ」

 壁だかベンチシートだかを蹴る物音に、ユリアナは声を張り上げた。――まったく、子供っぽいんだから。ぶつくさと呟きながらユリアナは胸の傷を消毒すると、新しい下着とブラウスを身に付けた。狭い密室内にふたりきりだが、この際気にも留めない――ブラウスのボタンを一番上まで止めて、「でも、おかげで時間は稼げたでしょう」と、振り返りながら悪びれもせずに言い放つ。

 ――それが決定打になってしまった。

「はあ?」

 その言葉に怒りを増幅させたクラエスが、半眼でユリアナを睨みつける。

「別に私だって目立ちたくて目立ったわけじゃないわ。理由なんてものはないわ。あえて言うなら、私に一般人とは違う生まれながらの風格が備わっているせい。しかたないことだわ」

「……なるほど。貴方がバカなのはよくわかりました」

「誰がバカですって?」

 腰に手を当てて睨みつけると、貴方ですよ、と間髪入れずに返される。ピリピリとした空気を感じて、ユリアナはむう、と唇をとがらせた。

 ――夏の小旅行と称し、復学前の義足のリハビリも兼ねて、ユリアナとクラエスは帝国随一の保養地である死海に出かけている真っ最中だった。首都から死海のある帝国領までは、アレクサンドリアほどに無いにしろ、かなりの距離がある。必然的に長距離鉄道を利用することになったのだが――そこで、今回の事件だ。

(――私、呪われてるのかしら?)

 行く先々でトラブルに見舞われるのはもはや才能かもしれない。

 武装集団がどのような経緯でこの列車に居合わせたのはさだかでない。しかしひとりで給湯室に行った帰り、たまたまその一員と遭遇してしまったのである。異変を嗅ぎつけたクラエスが駆け付ける頃には時既に遅く、ユリアナは『人質』として連行されそうになっていた。

 敵の全容がわからなかったし、ユリアナを捕らえた男は銃火器を所持していた。丸腰のクラエスを立ち向かわせるよりは、と思って、そのときは大人しく従うことにしたのである。(『人質』と言うからには、その場で殺されないはずだからだ)――それに、放っておいてもクラエスが勝手に場を収束させるのはわかっている。

 正規軍が到着する前に、武装集団は完全沈黙。さすがは『元』皇帝直属軍イェニチェリというだけはあり――列車の制圧には彼ひとりで十分だった。

「……お説教はまた後にしましょう」

 ユリアナの肩を掴み、クラエスがずい、と顔を寄せた。

 少女の顎を掴んで固定をすると、血を拭い取った瞼の傷を観察した。出血は止まっていて、大きな傷ではなかったが、クラエスの表情かおは厳しいままだ。

「――傷が残るかも」

 小声でつぶやき、消毒をする。テーピングをして傷口を固定し終えたとき、にわかにコンパートメントの外が騒がしくなった。――ようやく、軍が突入したのだった。


 ◆ ◆ ◆


 正規軍が事後処理を終えたのち、ユリアナたちは途中駅で新たな列車を待つはめになった。駅舎では散々、クラエスの『説教』を受けたせいで――なぜ大人しくできなかったのか、とか、そもそも他人を挑発する癖があるのがいけない、とか、日ごろの諸々が積み重なったやつである――朝になってようやく別の列車に乗り込み、コンパートメントに足を踏み入れたとき、ふたりの空気は険悪そのものだった。

「ユリアナ」

 無言でベンチシートにむかい合って座ったとき、ふと名前を呼ばれた。ユリアナはフンと鼻を鳴らすと、青い目で青年を睨みつけた。

「何よ。謝らないわよ、私は」

「……貴方が意固地なのは大変よくわかりました」

 淡青色の目をすがめ、クラエスが大げさな溜息をつく。その声にはまったく温度が伴っていなくて、氷のように冷たかった。

(何よ。――仕方ないじゃない)

 結論からいえば、クラエスはユリアナが無茶したことに一番怒っているのだ。その結果、今のような怪我を負った。けれどもそれをこと細かに弁解することは、ユリアナのプライドに反することだった。

 腕を組んでそっぽを向いたとき、甲高く汽笛が鳴った。明るい朝陽の射し込む室内が、カタカタと揺れ――列車が動き始める。

 そのとき、クラエスが横に置いた荷鞄を引き寄せた。

 彼が取りだしたのは救急箱だ。

「胸の傷をまだ手当てしていませんでしたね。傷自体は大したことなさそうでしたが、痕が残ったら大変です。ちゃんと薬を塗りましょう」

「……自分でやるわよ」

「――ユリアナ」

 いつになく厳しい声で呼ばれ、ユリアナはおとがいを上げた。睨み合いをして――大きく溜息をつくと、重い腰を上げた。

「ここに座って」

 指し示されたのは、なぜか彼の膝の上だ。

「い・や・よ」

 ふたたび溜息をついたクラエスが、問答無用、とばかりにユリアナの腕を掴む。そして力強く引っ張る――不慣れな義足でバランスを崩した少女は、あっけなく膝上に抱きあげられるはめになった。

 そして耳元で囁きかけられた言葉に、不服そうに唇をとがらせる。――しかしこのままでは膠着状態が続くばかりだ。クラエスの怒りをよく理解していたユリアナは、渋々、ブラウスの前ボタンを全開にする。

 肌が外気に触れ、窓から射す太陽光がいっそう白くそこを照らし上げた――明らかになったのは、少女の胸の間を走る、一本の赤い線だ。

「よろしい」

 クラエスがうなずき、小瓶の蓋を開ける。長い指で軟膏を掬いとると、傷の先端――鎖骨の間に塗りこめる。ズキリとした痛みに、ユリアナは思わず唇を噛んで声をこらえた。

 ナイフによる切り傷は、鎖骨を通りぬけ、へその上部分まで続いている。ひんやりとした青年の指先が、清涼感のある軟膏とともに、赤い線を徐々にくだる――慣れない感触に、ユリアナは肩を震わせた。

 と、その指先がふいに止まる。

 膝に置いた拳を握りしめていた少女は、再度ささやきかけられて、ぶんぶんと頭を左右に振った。しかしその瞬間に傷口を強く押される。

 傷を圧迫される痛みに耐えられず、ユリアナはしぶしぶうなずいた。

 腕を背中側に回し、下着のホックを外す。締め付ける感覚がゆるみ、生まれた隙間にクラエスの指先が伸びた――乳房の間を走る傷に軟膏をそっと塗りつけられる。それまでに反して優しい手つきだった。背中に当たる体温、首筋に落ちる彼のやわらかい髪の感触や吐息の熱――それらのすべてを五感で拾ってしまい、痛みからだけでなく、体の奥がじんわりと熱くなる。おもわず拳を握ってしまう。

「……謝る気にはなりましたか?」

 次の瞬間、悪戯っぽくそう問いかけられて、ユリアナは反射的にかぶりを振った。

 そのとき、ガタン、と音を立てて列車が揺れた。「もう間もなく次の駅につきますね」と続けられた言葉に、ユリアナは我に返る。

「なら、いい加減離……っ、もう!」

 がっちりと腰をホールドされ、身動きが取れなかった。

「この場を見られたくないでしょう? それなら――」

 今はまだ走行中だからいいが、次の駅に着いたならば、コンパートメントが面している廊下には高確率で人が通りがかるだろう。

 この光景を覗かれようものなら――考えて、頭が羞恥で沸騰する。次の瞬間、ユリアナは大きく声を張り上げていた。

「なによ、私だって別に悪目立ちするつもりはなかったわよ! でも仕方ないじゃない――そうしなきゃ別の子が怖い思いをしていたんだもの!」

「なるほど、案の定そういうわけでしたか。――自分なら怖い思いをしてもいいと?」

「すくなくとも耐性はあるわ……多少はね」

 ――はあ、とクラエスが溜息をつく。そしてユリアナの肩にもたれかかると、勘弁してくださいよ、と、打って変わって弱弱しい声で懇願したのだった。

「こっちは気が気じゃなかった……貴方が人質にとられた瞬間からね。やはり貴方の言うことは信用すべきじゃなかった……。貴方が人一倍臆病者で、こわがりなのは分かっていたのに……。そんなところで自己犠牲精神を発揮しないでください」

「あっそう。いい加減離してくれない?」

「嫌です」

「もう、わかった、わかったから! 心配させて悪かったわ、ごめんなさい! 今後は気を付けるわ。まあ気を付けたところでどうにかなるとは思わないけど――、それにクラエス、あなただって――」

「私が何ですって?」

「……やっぱ何でもないわ」

 慌てて口を塞いで、ユリアナは首を振った。しかし腰を強く引き寄せられて、無言で続きを促される。

 次駅に到着するアナウンスが頭上を流れるのに、ユリアナはついに観念した。

「あ、あなただってマリアムにデレデレしてたじゃない! 体を支えてあげたりなんかしちゃって……初対面のときの私にはあんな態度だったくせに、不公平だわ! なんなのよ、もう! ああいうのが好みなの!?」

「………………」

「な、なにか言いなさいよ」

 とたん、無言になったクラエスに、ユリアナは不安を覚えた。

「…………すみません。つまり貴方は、私がその――先ほどの少女に優しくしたのを見て、いつも以上に頑なになっていたというわけですね?」

「そういうわけじゃ――」

 ガタ、と列車が激しく揺れた。そして停車する。

 にわかに周囲が騒がしくなりはじめ、ユリアナはいよいよ本格的に暴れはじめた。しかし首にチクリとした痛みを感じると、動きを止めた。

「な、なに?」

 クラエスが首に吸いついている。――痛みを感じるくらいに。

 唇はすぐに離れ、打って変わってすばやい手つきで傷のおわりまで軟膏を塗られる。そしてブラウスの前ボタンを閉じてくれる指先を見下ろしながら、ユリアナは首だけで青年を振り返った。

 ――視界に入ったのは、だらしなく口もとを緩ませた男の顔だ。

「……なんなのよ……」

「いえ。私がバラドのことを思う貴方にくことはあっても、まさか貴方が嫉妬してくれるとは思わなかったもので」

 クラエスの唇が触れた首筋をさすり、ユリアナは言葉を飲み込めずに首を傾げた。――そして一拍遅れて理解すると、顔を真っ赤に染めたのだった。

「ち、ちが……」

「違わない。――だったらそれくらいしても許されるかな、と」

 ユリアナの首筋を目に留めて、クラエスがわらった。普段とは違って、挑戦的で婀娜っぽい――ユリアナが思わず息を止めてしまうような、微笑だった。

「わけがわからないわ……何の意味があるのよ……」

 なぜこんなに困惑しなければいけないんだろう?

 ようやく拘束が解かれると、ユリアナは脱力してむかい合うベンチシートにくずれ落ちた。汽笛が鳴って、電車が再度走りだす。

 横たわりながら彼の顔を見上げると、鼻歌まじりに頭を撫でられた。

 何はともあれ、機嫌は直ったらしい。それならまあいいか、と思いつつも、彼が触れた傷口と、首筋が――火がついたように熱くて。ユリアナはふたたび顔が火照ってゆくのを感じると、慌てて背中をむけたのだった。


 余談ではあるが、その後、ユリアナが鏡で自分の首を確認して、そこに刻まれた不可解な赤いを発見した。そこでクラエスを問い詰めたものの、結局は余裕綽々の態度でかわされてしまったのだった。

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