仲春、クテシフォン
――とある昼下がり。
空から降り注ぐ陽射しが、じりじりと地面を焼いていた。春先といえども、一年を通して寒さ知らずのクテシフォンの太陽光は容赦のないものだった。
「ほら、あとすこしですよ。頑張って」
裏通りの脇道を、ユリアナは無言で歩いていた。
すこし離れた位置には、先導するクラエスがたたずんでいる。視界の端で見慣れた金髪が光を反射するのに、眩しい、とユリアナは心のなかで文句を垂れた。
「この道、歩きにくいのよ――ああ、もう!」
粗悪な石畳は凹凸がはげしく、バランスを保つことがむずかしい。ユリアナはついに体勢を崩し、すかさず差し出された両腕に支えられたのだった。
「――そうは言っても、毎日歩く道ですから。慣れていかないことには」
「そんなことはわかっているわよ。でも、あまりに険しい道のりだわ……」
大きく溜息をついて、ユリアナは汗に濡れた前髪をかき上げた。
クラエスが懐から出したハンカチで額を拭ってくれ、「すこし体温が高いですね」とつぶやく。しかしあまり気にせず、そうかしら、と
「この前はこの道を歩き通すのに十五分かかったの。今日はもうすこし縮めるわ」
そしてもう一度自立すると、数十メートル先にある自宅の屋根を視界に入れる。
今日の『訓練』は自宅から近郊の市場までを往復するメニューだ。大通りに出れば平坦な道が続くが、自宅が面した裏通りはいかんせん道路の作りが悪い。あとすこしなのだが、それがどうしようもなく遠く思われた。
――春先にクテシフォンの病院を退院したユリアナは、まだ左足の断端部が安定していない。仮義足を装着している状態でリハビリを続けている。
《リエービチ》は生体さながらと言うだけはあり、そういう意味では義足らしい義足ではなく、違和感なく本物の足のように使用できた。しかし今、彼女の両足に繋がっているのは、シリコンや金属でできたふつうの義足だ。つまり、ここにきて初めて、通常の義足に適応するための訓練をしているのだった。
「――あなたは先に行ってて、クラエス」
目の前の道を睨みつけて、隣のクラエスに言い放つ。
彼はうなずいて、「あんまりにも遅かったら様子を見にきますよ」と言った。
「その必要はないわ。冷たいハーブティーでも淹れて待ってて」
「そう言ってこの前は氷が全部溶けて、ぬるいお茶を飲むはめに」
食材の入った紙袋を抱え直し、クラエスが軽口を叩く。その端正な顔を睨みつけて、みてなさいよ、とユリアナは宣言した。
そしてクラエスが自宅に入るのを見送ってからしばらく。雲が出て日が陰りはじめたころ、ユリアナは宣言したとおり、自宅の前に立っていた。
右足の断端部がズキズキと痛むのを感じながら、目の前の階段を睨みつける。
――ユリアナの家は二階だ。やっとの思いで家の前まで辿りついたは良いものの、「階段」という、さらなる試練が彼女を待ち構えている。
(……クラエスを呼ぶべきかしら)
断端部が腫れてきたのか、あまり『調子』がよくないようだ。この痛みでは階段を上ることはできないだろう。そんなことを考えながら階段上の扉を見つめ――しかし声を張り上げる気にもなれず、黙って唇を引き結んだ。
(いいわ。すこし休めば、なんとかなるでしょうし)
階段の一番下に座り、建物の壁に寄りかかる。――一度座ってしまうと、どっと疲労感がこみあげてきた。
それだけではない。なんとなく、全身が気怠かった。
痛む右足を撫でながら、ユリアナは溜息をつく。近くの市場まで買い物に出かけただけで、そこまで疲れている自覚はなかったが――これはどういうことだろう。
この調子では、階段を上ることはおろか、立ち上がることさえ難儀しそうだ。
(氷、全部溶けちゃうわ……)
そんなことを考えながら、ユリアナはまぶたを閉じた。
――呼び声に顔を上げると、目の前にクラエスが立っていた。
「……何してるんですか」
「休んでるのよ」
脊髄反射でそう答えれば、クラエスは呆れた顔で肩を竦めた。
「無理そうなら呼べばいいでしょう。声が聞こえない距離でもあるまいし。――ユリアナ、貴方、もしかしなくても体調が悪いんですか?」
何気なく肩に触れて、「熱い」とクラエスがつぶやく。
――言われてみれば、疲労の一言では片づけられないような不調を感じていた。もしかしたら風邪を引いているのかもしれない、と頭の片隅で分析しつつも――それを認めたくない気持ちがあって、「お日様の下にいたからよ」と唇をとがらせる。
「日も陰っていますが。――立てそうにないなら、上まで運びますから。足も痛む?」
じっと、彼を睨み。――溜息をつくと、ユリアナは無言で、こちらに背を向けて屈んだクラエスにもたれかかった。そのままおんぶをしてもらう。
彼が上るのに合わせて、カンカンと金属製の外階段が鳴る。クラエスは足で扉を開け放つと勝手知ったる顔で家のなかに踏み入り、玄関先に置かれた椅子へとユリアナを下ろした。
「まったく、体調が悪いなら言えばすなおに言えばいいでしょう。くだらない我儘は際限なく出てくるくせに、どうして肝心なときに何も言わないんですか」
クラエスの小言を聞いているのか聞いていないのか、正面にある淡青色の目をなおも見つめて――クラエス、とユリアナがちいさな声で呼んだ。
彼が反応を返すよりも先に、襟首を掴んで頭を引き寄せる。薄い唇に自分の唇を重ねてすぐに顔を離して、ユリアナは瞳を細めた。
「……何ですか、急に」
「あら、嫌だったかしら」
「そういうわけじゃないですけど……」
それならいいわ、とうなずく。ユリアナはぐったりと全身から力を抜いて、椅子の背もたれに体を委ねた。
――頭痛がするし、この調子だと熱もある。
どうやら本格的に風邪を引き始めたらしい。
釈然としないようすのクラエスを置いて、ユリアナは目を閉じた。
◆ ◆ ◆
その後ベッドまで運んでもらい、寝間着に着替えて薬を飲んだユリアナは、眠気に促されるまま休息を取った。
そのあいだにいくつか短い夢を見たが、内容までは覚えていられなかった。かろうじて印象に残っている断片を繋ぎ合わせると、どうやらウルヤナの夢を見ていたらしい。夜色の手が、自分の頭を撫でている。それだけの夢だ。
――目を覚ましたのは、強烈な吐き気を感じたからだった。
「……っ」
口もとを手で押さえて、今にも逆流しそうなそれを何とか
這ってそれを取りにいこうとしたところで、熱で平衡感覚があやふやになっていたのか、ユリアナはなすすべもなくベッドから転がり落ちてしまった。
「――ユリアナ?」
物音を聞きつけて、クラエスが部屋の外から顔を出した。あわてて駆け寄ってくるクラエスに顔を向けている余裕もなく、口を手で押さえて頭を左右に振る。
「うわっ、ちょっと、待ってください。洗面器が――」
どうやら事前に準備していたらしい洗面器を差し出される。
ユリアナは急いでそれを抱えた。――我慢できたのはそこまでで、次の瞬間、抵抗もむなしく熱いものが食道を逆流したのだった。
「っ、ごめ……」
嘔吐するユリアナの背中を、クラエスがさする。何度かえずきながら、切れ切れに、ユリアナは謝罪の言葉を口にした。
するとクラエスは溜息をついて、いつもと変わらない調子で答えた。
「気分が悪いんだから仕方ないでしょう」
――ひとしきり吐いて、ようやく落ち着きを取り戻したユリアナは、クラエスが持ってきた
吐いたおかげで気分の悪さこそ幾分かマシになったものの、全身の痛みや寒気は無くならない。ベッドに横たわり、肩まで毛布をかけてくれるクラエスの横顔を、ぼんやりと見つめる。「食欲は?」と聞かれて、
――吐いたものはどうやら彼が始末してくれたらしい、ということをおぼろな頭で理解した。それが気がかりで、寝ずに彼が戻ってくるのを待っていたのだ。
ユリアナは汗に濡れた髪をかきあげる男の手に、そっと目を細めた。
「――クラエス」
そして名前を呼んだ。
「どうしましたか?」
「ちょっとだけ、目を閉じてて……」
弱弱しい声で訴える。突然の要求に不思議そうな顔をしつつも、クラエスは素直にそれに従った。彼が目を閉じたのを確認すると、ユリアナは一度深呼吸をした。
そして、寝間着の前ボタンをいくつか外した。
「目を閉じたまま、手を出して」
差し出された右手を掴む。
ユリアナは彼の手を、さらけだした自分の胸もとにあてがった。節くれだった手のひらが、汗ばんだ乳房に触れる――やわらかい皮膚に指先が食い込みかけたところで、クラエスが驚いたように目を開いた。
「……ゆ、ユリアナ?」
「汗をかいてるから、ちょっと気持ち悪いかもしれないわ」
「そ、そういう意味じゃなくて――手を離してください! あなた、熱で頭がおかしくなったんですか!?」
慌ててユリアナの手を振り払い、耳まで赤くしたクラエスが叫ぶ。
そのようすを見て、ユリアナは首を傾げた。
「……嫌だったかしら」
「そ、そういうわけでは、ないですけど……!」
「ならいいじゃない」
体を横倒しにして、枕に片頬を預ける。「お世話してくれてるんだし、これくらいいわよ」と言いながら、寝間着をはだけてみせる。
ガーゼ生地の寝間着から、今にも乳房がこぼれ落ちそうになる。その光景を前にクラエスは一度硬直して――それからふと真顔に戻った。
「前言撤回します。嫌です。そんな風に媚びた態度を取られても、私はまったく嬉しくないので」
伸びた手が、きっちり一番上まで寝間着のボタンをしめる。ユリアナは眉をひそめ、それからぎゅっと枕を掴んだ。――どうして? と震えた声で問いかける。
「私、あなたに何かしてもらってばかりだもの。でも、ぜんぜん、何か返せるわけじゃないし……だから……」
「道理で。『報酬』ですか? またそんなことを考えていたというわけだ」
毛布をかけ直して、乱れた髪を梳いてくれる。その優しい手つきに、ユリアナは顔をこわばらせた。
だって、と声にもならない声で続けようとして――涙を堪えるのに精いっぱいになってしまい、何も言えなくなってしまう。
義足が痛くて歩けなかったり、こうして体調が悪い時に世話をしてもらったり――もっと言えば、イェレヴァンの病院で目が覚めて以来、彼には何かをさせてばかりだ、とユリアナは思っている。クラエスは驚くほど献身的で、小言をこぼしながらも、ユリアナが困っているときは絶対に助けてくれる。
その事実が、ユリアナにはとても恐ろしく感じられた。
「バラドだったら……良い成績を取るとか、言うことをちゃんと聞くとか……あのひとにとって『可愛い』私を振舞えたなら、それでよかったの。でも、私、あなたにはどうしたらいいのかわからないわ。そのうち見捨てられそうで……怖くて……」
「……見捨てる? 私が? 貴方を?」
「私、あなたとずっと一緒にいたいわ。でも、どうやったら一緒にいられるのか……よくわからないの」
ユリアナの発言に、クラエスは虚を突かれた顔をした。
それから、淡青色の目を細めて、ふわりと微笑んだ。
「風邪で弱気になっているんですよ。貴方らしくない」
「最近はずっと同じことを考えていたわ。だから今日……」
「私を呼ぶのをためらった?」
コクリとうなずけば、大きな溜息が返ってくる。「それを気にするくらいなら、普段の我儘を減らしてくれたほうがずっといいんですが――」と続けて、大きな手のひらが頭の上に置かれる。
小さな頭を撫でながら、しばらく、彼は言葉を選びかねたように無言のままだった。しかし意を決したかのようにユリアナの目を覗き込むと、「きっと、今の貴方には、私の気持ちなんてわからないんでしょうね」と穏やかな声で言った。
「私は貴方のバラドじゃない。その代わり、バラドが貴方に教えなかったものを教えてあげます。貴方がちゃんと理解できるまでは、一緒にいてあげます。だから、心配しなくていい」
「……何のことかわからないけど、それなら、一生わからなくていいわ」
クラエスは一瞬、言葉に詰まって、金色の睫毛を伏せた。
そして、いいえ、と
「喋りつかれたでしょう。もうひと眠りしたほうがいい。まずは風邪を治すほうが先決でしょうから」
釈然としない気持ちで、しかしクラエスの有無を言わせない語調に、ユリアナはこくりと頷いた。
目を閉じても、頭を撫でる手は離れなかった。
とろとろと眠気が押し寄せてくるのを感じながら、もしかして夢の手は彼の手だったのかもしれない、とぼんやり頭の隅で考え直したのだった。
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