後日談

晩春、クテシフォン

「――それじゃあ、帰りますね」

 鞄を持ち上げながら、「本を読んで夜更かししないでくださいね」とクラエスがつけ加える。

 ベッドの上で本のページをめくろうとしていたユリアナは、その言葉にギクリとして顔を上げた。「わかっているわよ」と唇をとがらせた彼女に、どうだか、とクラエスが肩をすくめる。

「まだ体調も万全じゃないんですから、ほどほどのところで寝てくださいね。――では、何かあったら連絡をください。明日はまたいつもの時間にきますから」

「わかったわ。今日もありがとう、クラエス」

 微笑みかけ、ユリアナは部屋を出て行くクラエスを見送った。

 ――クテシフォンの病院を退院してから早一カ月。ユリアナはリハビリのための通院を続けながら、今は首都のアパートで暮らしている。まだひとりでは満足に生活ができないため、こうしてクラエスが毎日家に通っては食事を作り、生活上の介助を行っている状況だった。

 部屋の電気を消し、代わりにベッドサイドの明かりを点ける。膝上に置いた本にふたたび目を向けたところで、ふいに、ユリアナは脇にある窓を覗き込んだ。

 ちょうどこのタイミングで、帰宅するクラエスが家の下にある道を通りがかるはずだ。それを眺めようと思ったのだが、視界は白く煙っている。

「――霧だわ」

 めずらしい、と彼女は思った。クテシフォンではあまり見かけない光景だ。すこしの予感をおぼえながらも窓を閉め、ふたたび読書に熱中した。


 嫌な予感というのは大抵当たるもので、数刻後、ユリアナは左足を切断して以降たびたび襲われる痛みを感じていた。

 幻肢痛だった。ここまで激しいものは初めてかもしれない。幼い頃――右足を失った当時にもしばしば起こっていたもので、実際にはもう存在しない肉体の部分に痛みを感じる。成長するにつれ収まっていたのだが、左足を切断したことで、またぶり返してしまっていた。

 雨や霧、毒風シムーンの日など、天気が落ち込んだ日の夜によくその『発作』を起こしていたので、予兆を感じたときはかならずバラドの寝台に潜り込んだものだ、とユリアナは思い起こす。しかし今現在、彼女はひとり、寝台のなかで丸くなって痛みの波に耐えている状況だった。

 実際にはもう無い部分に痛みを感じるため、鎮痛剤が効かないのがやっかいなところだ。シーツをぎゅっと掴んで、どうにかその嵐が通り過ぎるのを待つしかない。――それでも耐えられないという気持ちになると、彼女は枕元に置いた小型端末を掴んだのだった。

 小型端末は最近になってトラウゴットから与えられたもので、ファランドール家のサーバーとネットワークを経由するため、帝国の検閲からは除外されている。とはいえ、もっぱらクラエスとの連絡用にしか使っていないので、正直宝の持ち腐れというやつだ。メッセンジャーを起動すると、震える指で文字を打ち込んだ。

 もしかしたらもう寝てしまったかもしれない。なかなか返事が来ないのに、ユリアナは諦めて端末を放り出した。

「甘え過ぎね」

 そう呟いて、シーツに額を押し付ける。痛みはまだ去りそうにない。

 ――扉が開け放たれたのは、それから数十分後のことだった。

 弾かれたようにユリアナが顔を上げると、サイドランプの明かりが見慣れた顔を照らした。――クラエスだ。

「……大丈夫ですか?」

 早足で近づいてきて、顔を覗き込まれる。その髪が濡れていることに気が付いて、ああ髪も乾かさずに家を飛び出してきたのだな、とユリアナは頭の片隅で思った。

「――ごめんなさい」

「何で謝るんですか。……顔色が悪いですね」

 苦痛に顔をしかめる少女に、クラエスは額を寄せ、汗に濡れた前髪をそっと指でかき上げた。「医者に睡眠導入剤を貰っておくべきでしたね」そう囁きながら、寝台の脇で膝をつく。

 ゆっくりと体を横倒しにして、クラエスの目を見つめる。――体調が悪いと、どうしても弱気になってしまう。そんな自分がどうしようもなく嫌で、ユリアナはふるふると頭を振った。

「ごめんなさい、夜中に呼びつけて。そうでなくても一日中私のお世話をさせているのに……」

 「本当に貴方らしくない」と言って、クラエスは微笑んだ。

「私に何かしてほしいから呼びつけたんでしょう。一晩じゅうひとりで苦しまれるよりはよっぽどいい」

「……クラエス」

「何をしてほしい? 教えて、ユリアナ」

 その言葉に、ユリアナは唇を引き結んだ。そして、添い寝してほしいの、と小さな声でつぶやいた。

「ちいさい頃は、そうやってバラドが傍にいてくれたの。そしたら、いつのまにか寝ちゃっていたのよ」

「……なるほど。わかりました」

 失礼します、と靴を脱いだクラエスが寝台に上がってくる。そして、必死に体を縮こまらせて痛みを逃そうとするユリアナの体を、ぎゅっと抱きしめた。

「落ち着いて……。体から力を抜いて。そう、ゆっくり息を吐いて……」

 クラエスの言葉に従って、ユリアナは全身のこわばりを解いていった。ひとり用の寝台をふたりで使うと随分窮屈に感じる。それが今は逆に良かった。温かい体温に全身を包まれて、心がほっと和らぐのを感じていた。

「……何か話をしましょうか?」

 背中をゆっくりとさすりながら、クラエスが囁く。彼の胸もとに額をこすりつけ、ううん、とユリアナはくぐもった声で答えた。それがすこし涙混じりになっているのに気が付いたのか、クラエスはそうですか、と穏やかな声で答えた。

 ――左足が潰れた瞬間を、ユリアナは鮮明に思いだせない。けれども肉体がそれを記憶している。疼痛、そして時おり肉だけでなく骨まで擦り潰されるような痛みの波に襲われると、ユリアナは奥歯を噛みしめて、クラエスにしがみついた。

 左足を失ったことに後悔はない。幸い、体は新しい義足に順応しはじめている。それでも「忘れるな」とばかりに、その痛みはユリアナのなかで繰り返される。――あの場所で起きたこと、自分が歩んできた道にあったものを、忘れてはいけないと。

「……大丈夫ですよ」

 震える体を抱き締めて、クラエスが囁く。ユリアナは涙の滲む目を開いて、彼の顔を見つめた。

「痛くなくなるまで、ちゃんと傍にいますから」

 そう、とユリアナはちいさな声で答えた。

 ありえないことだが、一生、絶え間なくこの痛みが続いたとしても、彼はこうしてくれるのだろう、という確信があった。それくらいクラエスの腕が優しかった。

 ユリアナは目を瞑った。願わくば、このまま眠りたかった。


◆ ◆ ◆


 ――小鳥のさえずりが聞こえる。

 薄手のカーテンからこぼれる朝日のまぶしさに、ユリアナは目を覚ました。一人用のベッドに横たわったまま、ぼんやりと明るく照らされた自室を見渡す。

 そして直感的に「いない」、と思った。遅れて昨晩のことを思い出すが、寝台にも、部屋のなかにもクラエスの姿はみつけられない。

「……都合のいい夢でも見ていたのかしら」

 ひとりごちて、欠伸をこぼす。皺の寄った敷布シーツを手のひらで撫でるが、自分以外の温もりは残っていない。

「つめたいわ……」

 そのことを確かめたとき、胸に穴が開いたような喪失感をおぼえた。

 左足の痛みは綺麗さっぱり無くなっていて、昨日の出来事はほんとうに夢だったのかも、とユリアナは思い直す。それからふと、鼻をくすぐる匂いに気が付いた。

 ――焼きたてのパンの匂いだ。

「ユリアナ、あなた、めずらしくちゃんと起き――何ですか、その顔は」

 ガチャリと扉を開けて入ってきたのは、エプロン姿のクラエスだった。(彼はユリアナの家に自前のエプロンを置いている)その見慣れた姿を視界に入れた瞬間――ユリアナは意図せず、くしゃりと顔をゆがめてしまった。

「ユリアナ?」

 怪訝そうな顔をして近寄ってきたクラエスにむかって、ユリアナは両腕を伸ばした。そして目の前の首にしがみつき、子猫が甘えるようにぐりぐりと額をこすり付ける。

「ちょっと、どうしたんですか? ……もしかして、まだ足が?」

「――ううん」

 くぐもった声で首を振れば、「ならなんで泣くんですか」と呆れた言葉が返ってくる。ユリアナは鼻をすすりながら、知らないわよ、と答えるのが精いっぱいだった。

「まったく、まるで赤ん坊じゃないですか。――ほら、落ち着いて。せっかく作った朝ごはんが冷めてしまう」

 ごくごくいつも通りのクラエスに、ユリアナはうなずいた。しかし一度溢れ出した涙はなかなか止まりそうになく、クラエスの襯衣シャツを濡らす一方だった。

「……あのね、クラエス。聞いてくれる?」

「内容によりますね」

「朝起きて、あなたがいなかったから、私、寂しかったのよ。だから今あなたの顔を見て、安心して、こんなふうに涙が出ているんだと思うの」

 ついにはしゃくり上げ始めたユリアナを前に、はあ、とクラエスが溜息をつく。鬱陶しく思われたのではないかと不安を感じた彼女をよそに、寝台に腰かける。

 そして寝間着姿のユリアナを膝上に抱きあげ、背中をぽんぽんと叩きはじめたのだった。

 幼子をあやす行為に、しかし子ども扱いをするなとも言えず――ユリアナはぐずぐずと泣き続けることしかできなかった。

「ちょっと、鼻水つけ――ああもう、洗濯しなくちゃいけないじゃないですか」

「うるさい」

「うるさいって……」

 肩を竦めたきり、クラエスは無言になってしまった。

 しかしその沈黙は穏やかで優しいものだ、とユリアナは感じた。どうやら自分が泣きやむのを待ってくれるらしい、と判断すると、彼の首に回した腕にぎゅっと力をめた。――朝食が冷めるのはどうか許してほしい、と頭の片隅で願って。

 気持ちが落ち着くまでひとしきり泣いてから、ユリアナはゆっくりと顔を上げた。泣き腫らした青い目で、クラエスの顔を覗き込む。

「――今日の貴方はほんとうに赤ちゃんみたいだ」

 淡青色の目が優しく細められる。窓から射す朝陽が、彼の白金色の髪をきらきらと照らしていた。見慣れた顔のはずなのに、今はひどく胸が騒がしい。

 軽口を無視して――ユリアナは「あなたのことが好きみたい」とつぶやいた。するとクラエスは鼻を鳴らして、知ってますよ、とぶっきらぼうに答えた。





  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る