終章 かくして、彼女は死と踊る
かくして、彼女は死と踊る
――初夏、クテシフォン。
――《女王派》のテロで壊滅的な被害を受けた
肩上で切り揃えた黒髪が揺れる。ユリアナはテーブルの下に置いた義足のうち、片方を伸ばし――正面に座る青年の革靴を踏みつけた。
「――ねえ、私の話、聞いてた?」
思いっきり踏みつけられて、クラエスは顔をしかめた。彼は慌てて
「……ぼうっとしてました。今日の夕飯のことで頭がいっぱいで」
「平和ボケね、平和ボケ。軍務からしりぞいて気が抜けているのよ――ねえ、まだザクロソースの作り置きあったでしょう。夕飯なら、あれを使ったやつがいいわ」
わかりました、と殊勝な顔をしてうなずくクラエスを横目に、ユリアナは横に置いた鞄からひとつの封筒を取り出した。「エレノアが全然送ってくれないんだもの」と不満を口にしつつ、そこから二枚の紙を取り出す。
一枚目は、
「こっちは『身請け』の同意書よ。前にも見たことがあると思うけど」
「――私ってこんな値段だったんですね」
「今更とぼけたことを言わないの。これ、私の出世払いなんだから。感謝してよね」
ユリアナの発言に、クラエスはやれやれとばかりに肩を竦め――もう一枚の書類へと目を向けた。
「そちらは?」
「雇用契約書よ。名目は私の護衛だけど――」
「現状ただの召使いですね」
そう言って、クラエスは雇用契約書を受け取った。
しばらく黙って文面に目を通したかと思えば、ふと顔を上げる。淡青色の目が、ユリアナをまっすぐに見据えた。
「つまり――私が傍にいてもいい、ということですか?」
真剣な顔つきで問いかけてくるのに、「今更?」とユリアナは思わず返した。
――晩秋に起こった遺構第二〇二の事件からは、すでに数カ月が経過していた。
あの日、属領アラクセスの病院で目覚めたユリアナに待っていたのは、長期間に及ぶ入院と治療。『父親』であるトラウゴット・ファランドールからの小言の嵐。それを終えてクテシフォンの病院に転院したかと思えば、彼女を待ち受けていたのは《リエービチ》に代わるバイオニクス義足に適応するための、リハビリという名の想像を絶する試練だった。
女学院は休学となり、この秋から復学予定だ。退院後、ユリアナは正式にファランドール家の後継と認められ――奇妙にも、最近になってウルヤナの『遺言』が発見されたらしい――現在はトラウゴットから与えられる大量の課題をこなしながら、バラドと暮らしていた
彼女が義足を不自由なく扱えるようになるまで、そして現在にいたっても面倒を見てくれているのがクラエスだ。毎日足繁く彼女の家に通っている。
――その彼を、ユリアナが『身請け』したのがつい最近のことだ。遺構第二〇二事件の責任を取って上官のエレノアがグラナダ戦役に出兵してしまった関係で、書類が返ってくるまで随分かかってしまった、とユリアナは溜息をこぼす。
「傍にいてもいいって、むしろ私からお願いしなくちゃいけないことでしょう」
正直、遺構絡みの事件から現在に至るまで、彼にはかなりの迷惑と負担をかけてきた自覚があったから、ユリアナにとって彼の問いかけは意外なものだった。
「私、むしろあなたには嫌がられるんじゃないかって。だって、退役したのはいいけど、今度はファランドール家の人間になるわけでしょう? あなた個人の意思を度外視しているし、いい気持ちでもないでしょうに」
「
コーヒーカップをテーブルに置くと、クラエスは両腕を伸ばした。そしてユリアナの手を握ると、淡青色の目を細めて柔らかく笑いかけた。
「貴方が心配しているような後悔なんて、どこにもない。――私はずっと、自分に未来はないように思っていた。ハクスリー家に生まれて、
いつか、クラエスが倒れたことがあった。そのときの光景を思い起こしたのか、ユリアナはわずかに
「でも貴方に出会った。貴方はどんなに絶望的な状況でも、果敢に挑もうとした。そのたびに挫折したり、ひどく打ちのめされたり……それでも最後には必ず立ち上がる姿を見て、心打たれたんです。こんなことを言うのも変なことかもしれませんが、そういうところをすごく尊敬したんです。私は意気地なしで、自分の姉や、環境に立ち向かうことができてこなかったから」
ユリアナの手を撫でながら、クラエスは穏やかな声で続けた。
「貴方はファランドール家の跡目を継ぐ」
「……そうよ。私はウルヤナの遺志を継ぐと決めたの。彼は代理戦争とまで言われたあの遺構の危険性を知っていた。だからこそ、その機能を破壊するつもりだった。――あの人は、争いが嫌いだったの」
クラエスは大きくうなずいた。
「……私に、貴方の道を阻むことはできない。だから、せめて傍にいさせてください。――もうあんな目には遭わせたくはないから」
昼時のカフェの騒音に、クラエスの囁きは今にもかき消されてしまいそうだった。しかししっかりと彼の言葉を聞いてしまったユリアナは、ふいに俯き――持っていたグラスを滑らせた。
ジュースがこぼれ、白いワンピースを濡らす。
突然の出来事にクラエスはすぐさま立ち上がって、「何をしているんですか!」と、打って変わって厳しい声で叱咤をする。
「見てわかるでしょう、こぼしちゃったの。拭いてくれる?」
「まったく、貴方のワガママちゃん振りには呆れますよ……」
そう言いつつも、クラエスは懐からハンカチを取り出した。ユリアナの隣に回って跪くと、かいがいしく濡れた服を拭いてくれる。
「クラエス」
ブツブツと文句をつぶやいていたクラエスは、突然名前を呼ばれたのに、無防備に顔を上げ。
「――――っ」
次の瞬間、やわらかい唇が、クラエスの唇に降りてきた。
クラエスに口づけると、ユリアナはすぐに顔を離し、悪戯っぽく微笑んだ。
「隙ありね、クラエス。――っ、ちょっ、ちょっと、何よ。急に何するつもり!?」
余裕たっぷりに言ってみせたところで、突然、ユリアナは顔を真っ赤にして暴れ出した。クラエスが真顔で彼女の体を抱きあげたのだった。
彼女の抵抗をものともせず、喫茶代をテーブルに叩きつけると、無言でカフェの人込みをかき分け、出入り口にむかって突き進んでいく。
「誘拐よっ、誘拐! もう、おろして! ひとりで歩けるわ――こんな人前でいたいけな少女をどうするつもりよ! この犯罪者! ばか!」
「うるさい。ちょっと黙ってください」
『スィン・アル・アサド』と書かれた
喫茶店の二階が、ユリアナがバラドと暮らしていた
きっちりとベッドメイクを施した寝台に、ユリアナは放り投げられた。「何するのよ!」と全身で怒りを表現する彼女の上にのしかかると、小さな頭の両脇に腕を
「――ユリアナ」
熱を帯びた淡青色の瞳に、まっすぐ見おろされ――ユリアナは突然黙り込むと、薄い唇をきゅっと引き結んだ。両手の拳を握りしめている。
「あんまり調子に乗っていると、私も反撃せざるを得ませんね」
ニヤリと笑い、首もとのネクタイを緩めたクラエスに――ユリアナはまじまじと目を見開いた。そして顔にむかって伸ばされた指に、反射的に噛みついたのだった。
「――っ、ああ、もう……貴方という人は……!」
容赦なくガジガジと噛む彼女に、クラエスは思い切り顔をしかめた。そして強い力で顎を掴むと、少女の鼻先に顔を近づけて声を荒げる。
「いいですか、私を相手にしようというなら、そんな舐めた態度は許しません。噛むのも禁止です。伝えたいことがあるなら、態度で示そうとせずに、ちゃんと言葉にしなさい。――貴方ならできるでしょう?」
そう言って指先で口蓋を
クラエスはゆっくりと指を引き抜くと、もう片方の手で、彼女の短くなった髪を
「――私にどうしてほしい? 教えて、ユリアナ」
「……それは、その――」
いつになく歯切れが悪い彼女に、クラエスは笑みをこぼす。
彼の眼下でユリアナは顔を真っ赤に染め、何度となく度視線を逸らしかけ――しかし最後にはまっすぐ彼の目を見返した。青い目がかすかに潤んでいる。
「……やさしくして……」
そう言って、クラエスの
「……私はいつでも優しいつもりですが」
「そ、それもそうね? ええっと、その……その、クラエス。笑わないでちょうだいよ? 私だって、すごく恥ずかしいんだから――」
「貴方にも羞恥心があったんですか。意外ですね」
「うっ、うるさいわね。その……あのね、私、あなたに甘やかされたいのよ」
ユリアナの言葉に、クラエスは笑みを深めた。そして小さくうなずく。
前髪をかきあげ、額に唇を重ねる。そして彼女の顔のあちこちにキスの雨を降らせた。最後に音を立てて唇にキスをすると、「噛まないでくださいよ」と一言断り、そして舌を忍び込ませた。
びくりと体を震わせたが――クラエスはいつかのように舌を噛まれることはなかった。ユリアナはクラエスの後頭部に腕をまわすと、必死にしがみついてきた。あるいは「もっと」と要求しているのかもしれない。角度を変えようと唇がわずかに離れるたびに、とぎれとぎれに熱っぽい吐息がこぼれ落ちた。
「クラエス……クラエス、」
下敷きになった体から力が抜ける。疼痛の残る左足を優しく揉んでやりながら、クラエスはなおも執拗に彼女の唇を追った。
――物音が響いたのは、そのときのことだった。
ユリアナが弾かれたように身を起こした。その瞬間、義足の金属部分が強かにクラエスの鳩尾に入った。声もなく呻き、
そして脱兎のごとく、玄関口にむかって駆け出したのだった。
「……くそ」
後頭部を
不機嫌さをあらわにして、しばらく無言で寝台の上に座り込み――それから諦めたように立ち上がると、渋々、彼女のあとを追ったのだった。
物音を聞いた瞬間、強烈な予感を覚えた。
居てもたってもいられずに、ユリアナは玄関口まで走った。――開け放された扉から、外の明かりがこぼれ落ちている。強い太陽光は目が焼けるほどに眩しい。
玄関マットの傍に、ふたつの箱が置いてあった。
先ほど、クラエスに抱えられて帰ってきたときには無かったものだ。箱を目に留め、扉を開いて外階段を覗き込む。――人影はない。通りに目を凝らしても、思い描いた人影はなかった。
「……バラド」
ぽつりと、ユリアナは彼の名前をこぼした。悲しみの
「――呼んだか?」
懐かしい声。
振り向きざまに、顎を捉えられる。リップ音を立てて、唇の傍にキスをされ――ユリアナは硬直し、それからまじまじと目を見開いた。
「髪を切ったんだな。とても素敵だ」
目の前に、待ち望んだ男がたたずんでいた。彼はいつもどおり優しく笑うと、「……悪いが、長居はできない」と矢継ぎ早に続けた。
「残念ながら、今の俺は正真正銘のおたずね者だ。ほとぼりが冷めるまでは海外にでも行くさ。――だが、ユリアナ」
ユリアナの青い目を覗き込み、バラドは囁いた。
「どんな手を使ってでも、かならずお前のもとに戻ってくる。お前だけが、俺の愛を証明してくれるのだから。――それまでは、そこの男に預けておくとしよう」
そう言って、背後で
「――バラド!」
腕を伸ばす。その手を
――そして、扉のむこうへと消えてゆく。
ユリアナは呆然として、その背を見送った。
「まったく、あの男は……小癪な真似を……ユリアナ?」
それから、彼女は思い出したように箱の前で屈み込んだ。クラエスの呼びかけには答えないまま、箱の中身をみつめている。
箱のひとつには、仕立てたばかりの冬服が入っていた。
そしてもうひとつ。ずっしりと重量のある箱の中身は――二本の義足。
見慣れた七色の煌めきを放つ足。――そして漆黒の足。
「白鳥と黒鳥だわ。……これは商業モデル版ね。私が前に使っていたものとは違うわ。動作もいま使っているバイオニクス義足と同じね」
一対の義足を持ち上げ、そしてゆっくりと抱き締める。
ユリアナは、心の底から沸き起こる感情をしみじみと噛みしめた。ともすればこぼれ落ちそうになる涙を
「大丈夫。歩いていけるわ」
光に透かされて、二本の義足が輝く。
白鳥は虹色に、そして黒鳥は金銀の光を帯びて。
何者かにつま弾かれたように、ユリアナは立ち上がった。隣に立つクラエスの顔を見上げると、彼の顔を覗き込む。そして、溌剌と笑ってみせたのだった。
「――この足と、あなたがいれば」
◆
《ユリアナ・ファランドール》
――第二五代ファランドール家当主の彼女について、現存する資料は限られている。それでもなお、彼女の存在は、我々研究者を引きつけてやまない謎と魅力に包まれている。
ユリアナ・ファランドールについて、最も有名な写真をお見せしよう。きみたちのなかにも、見たことがある人はいるかもしれない。
これは隠し撮りされたものと推測され、けっして公的なものではないことを言い添えておく。しかし容貌、容姿はもちろん、色の異なる二本の義足は彼女の特徴であり、写真の人物はユリアナ本人で間違いない。
まだ随分と若い頃で、「少女」と言っても差し支えのない時代のものだ。町角を歩く彼女は、ひとりの青年に寄り添っている。仲睦まじい様子だ。この青年について、詳しいことはわかっていない。公的な資料は残されておらず、恋人とも、内縁の夫とも言われるが、詳細はわかっていない。そう、彼女は生涯未婚だった。
――(中略)――
彼女の経歴について、はっきりしたことは分かっていない。属領出身とも、あるいははじめから帝国人だったとも言われる。その功績も、他のファランドール家当主同様、ある意味では特筆すべきことのない――悪逆非道の限りを尽くしたものであったとされる。死の商人業をまっとうしたというわけだ。
しかし近年、彼女については再評価する動きがある。
数年前、クイーンズランド……彼女の時代ではまだ属領だったが……ハクスリー家から発見された資料が、ちょっとした話題になった。
「ユリアナ・ファランドールはファランドール家の当主でありながら、紛争解決人として、各地を奔走していた」という趣旨の内容だ。これについては、彼女の生前――あるいは死後に複数の属領が独立の機運を高め、いくつかは実際に独立を果たしたことも、おそらく無関係ではないだろう。
――今後の研究成果次第では、大きく評価の見直される人物かもしれない。
(アズハル学院 特任教授スレイマン・アリ―・ウスマーンの講義記録より一部を抜粋)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます