―幕間―

「……いいのよ」

 冷たい手が伸びて、濡れた髪を撫でつける。

「私はあなたが大好きよ、バラド。あなたが望む形かどうかは知らないけれど」

 山小屋のひび割れた窓を、ひっきりなしに重い雨粒が叩いていた。

 ガラスの小刻みな振動音。薪のぜる音。夜の静寂に、ユリアナの声は水が染み入るかのように穏やかに響き渡る。

 バラドは、彼女の手がわずかに震えていることを知っていた。――手だけではない。そのちいさな体そのものが、今にも内側から壊れてしまいそうに震えていた。崩れ落ちてしまわないのが不思議なくらいに。そうならないのは、彼女が培ってきた『虚勢』が、曲がりなりにも本物だからなのだろう――。

 その瞬間、彼の目の前に、一〇年の歳月が蘇った。

 寝台列車の座席で怯えていた幼子。船の上で、初めて目にする海に驚く子ども。焼き立てのパンの入った袋を抱えて、家のなかに駆け込んできて笑う少女。自分の手に引かれながら、不安そうに女学院の門をくぐるいとけない娘。こちらを振り返って、「迎えに来るのが遅いわ」と唇をとがらせた彼女。

 瞬きのうちに過ぎる光景が懐かしく、目を細めた。

 バラドは懸命に頭を撫でてくる少女の腕を掴んだ。そして引き倒した。

 灰の散る床に、薄い毛布が広がる。瀑布たきが流れ落ちるように長い黒髪が、骨の浮いた白い背にかかった。馴染んだからだの香りが鼻をつく。

 ――それから長い時間を過ごして、バラドは自分が少女の頭を掴んでいることに気が付いた。小さな頭だった。それを鷲掴みにして、床に押し付けていた。知らず知らずのうちに。強い力だった。

「――ユリアナ」

 我に返って、彼女の体を抱き起こした。とうに火は消えていたが、彼女のからだはひどく熱いままだった。ゆるりとこうべを垂れ、そしておとがいを起こした少女の顔面は濡れていた。鼻血を出していた。

「すまない」

 手のひらで少女の口もとをぬぐえば、べっとりとその血がついた。その行動に呆然とした表情かおで、彼女は青い目を瞬いた。

「……謝るの?」

「すまない、ユリアナ。傷つけるつもりはなかったんだ」

「おかしいわ、バラド。あなた、ずっと私を傷つけたがっているものだと思ってたわ。私が受け入れてくれるか試しているんだって」

 「だから私とこうしたがるんでしょう?」と、バラドの声を無視し、どこか切迫したようすでユリアナは続ける。

 瞳を揺らし、バラドの顔をみつめ――そしてふと泣きそうに顔をゆがめると、両腕を伸ばし、男の頭を抱いた。

「ほら、あなたのその顔。ちいさな子どもみたいよ。――大丈夫、傍にいるわ。今だけはね。あなたのこと、ちゃんと抱き締めてあげるわ。あなたが私を抱き締めてくれたみたいに――」

「……君を傷つけたんだ、ユリアナ」

「大したことじゃないわ。痛いけど、それだけだもの。私、もっと屈辱的でつらいこと、知ってるわ。自分をないがしろにされること、無力であること、助けたいひとを助けてあげられないこと……たくさんね。あなたに言わせたら、それこそ大したことのない経験ばかりかもしれないけど――」

 ユリアナは目を閉じた。そして、小さな声で囁いた。

「これが私にできる数少ないことなら、何もつらいことなんてないわ。私ね、すごく弱いのよ。あなたに正面から立ち向かえない。あなたを切り捨てられない。やけどした傷同士が癒着して、離れられないみたいに。

 だって、一〇年間も一緒にいて……そのあいだ、ずっとあなたに……」

 優しい声。――そして悲しみのもった声。

 バラドは息を吐いた。何を言ったらいいのかわからなかった。

 ゆっくりと身を起こし、少女のやわらかくて薄い腹に頭を預けた。どうしたら彼女にこんな表情をさせずに済むのか、それがわからなかった。


 ◆


 ――半月刀シャムシールを床に引きずり、彼は歩いていた。

 緑色の蛍光灯が点々と並ぶ、薄暗い廊下を。引きずる剣はおびただしい血に濡れ、床に切れることのない細く赤い線を残していった。まとう外套、靴底からもその血は滴り、彼が進む廊下は、見る影もなく汚れていく。夜色の瞳はかろうじて前を向いていたが、何を視ているかも判然としない、どこか呆然とした面持ち。

 その彼がふと顔を上げた。目の焦点を正面に絞る。

 壁際にひとりの少女が佇んでいた。

「ひどい顔だね、バラド」

 桑雨サンウは手に持っていた照明灯と暗号を書いた紙片を床に投げ捨て、「言われたとおりにやったよ」と言ってかぶりを振った。濡れた黒髪から、透明な滴がしたたる――そのようすを見て、「滝つぼにでも落ちたのか」とバラドは覇気のない声で返した。

「水門を開けるときにうっかり落っこちたんだよ。命からがら川から上がったってわけ。感謝してよね、まったく」

 通気をよくするためか襯衣シャツの襟はくつろげられ、そこから白い鎖骨が覗いていた。彼女は濡れた頭をガシガシとくと、自分の横に座り込んだ男を一瞥した。そして肩をすくめる。

 ――ふたりは《盟友》だった。バラドはその表現を嫌ったが、桑雨がそう言った。目的を果たすために手を組んだ関係だ。先刻も地下水路カナートに潜った《ナング》を掃討する目的で、バラドは彼女を使ったのだった。

 はじまりは一年ほど前。ある日突然現れて、ジンウの妹を名乗った彼女は、出会い頭に『あの遺構に行きたい』と言ったものだった。《難民解放戦線》への手引きをしてやったのもバラドだった。ふたりは奇妙な協力関係を始めた――バラドは遺構に関心が無かったが、ユリアナの義足の処遇には迷いかねており――既にへの忠誠を失っていた彼が離反を決意したのも、その頃のことになる。

 最初こそ、ユリアナを誰の手も届かない場所に逃がすつもりだった。クラエスを『勧誘』したのは、自分を捨て駒扱いするエレノアに対する意趣返しで、適当なところで殺すつもりだった。

 それが上手く行かなかったのは、想像以上に彼女の『義足』が複雑な背景にあったこと――そして結局は、彼女を自分の手もとに置いておきたくなったからだ。

 ――そのことを考えると、頭が重くなる。

 溜息をついたバラドを見下ろして、桑雨が問いかけた。

「何してたわけ?」

「……父親ハルを殺したんだ」

「頭領を? ふうん、あっけない」

 深い感慨もなさそうに呟いて、桑雨はにやりと笑った。「君って身勝手な男だね、ほんとうに」そう続ける。

「身勝手なのはあの男のほうだ。ずっと俺のことを良いように使ってきたんだから」

「だから殺すの? 育て親なんでしょ? ――君ってどうしようもないやつだよね」

「その話に乗ったのはお前だ、桑雨」

 バラドは深い溜息をついた。疲労感が体の奥底でこごっている。

 エレノアに《勧誘》されて以来、皇帝直属軍イェニチェリと《難民解放戦線》の二重スパイを続けていた。どちらにとっても、義肢関連技術と遺構への知識のある自分は貴重な人材だった。しかしそのどちらに忠誠があったわけではない。

 、それだけの理由だ。

 ――それで十分だった。今までは。

 あるいは自分を育てたにこそ情があったのかもしれない。けれども彼にとっての自分は、所詮は異国人のていのよい駒だった。それ以上でもそれ以下でもないことを、バラドは身に染みて知っている。

 だから手を下した。

 《難民解放戦線》の手の内は理解していた。遺構に侵入したところで青酸ガスをいて戦力を削ぎ、探し出した先で父親を殺した。深い感慨はなかった。あるいはそういった情動を受け止める部分が、もはや機能してないのかもしれないとバラドは思う。

「もう何もいらないんだ、疲れたんだ。誰も彼もが俺を必要とする。だけど使い捨てられるし、ないがしろにされる。だから俺をあなどってきたものの全部を破壊し尽くしてしまおうと決めた。もう何も……」

 頭の片隅に、少女の姿がぎった。もう彼女だけだ。

 バラドは心の中で囁いた。――、何も。

「君って可哀想なやつだよね。生まれたての赤ん坊の方が、まだ自我があるんじゃない?」

「お前には何もわからないさ」

「わからないよ。僕は僕の感じていることだけがすべてだもの。君のことなんて知りたくもない」

 そう言って、桑雨は笑った。襯衣シャツの裾を絞りながら、「血がつくからこっち寄らないでよ」と続ける。

 するとバラドは顔を上げ、夜色の目を向けた。

「俺は興味がある。お前はなぜここに?」

「意外なことを言うね。――十年前の借りを返すためだよ」

「……ジンウの?」

「僕の、さ」

 不可解な答えに、バラドは訝しく思う。しかしそれ以上の詮索をする気も起こらず、会話を打ち切った。

「――オレーシャの自壊コードは?」

 思い立ったように、桑雨がバラドに問いかけた。バラドはうなずく。

「とうの昔に《リエービチ》から解析している。その内容もしかるべきところに渡った。だが……」

「オレーシャを破壊するだけではこの問題は解決できなさそうだ。黒鳥の設計図を破棄しても意味はない。だって、一〇年前……」

 そのとき、ズン、と足もとが揺れた。――地震だ。

 桑雨は翡翠色の目を細めると、寄りかかっていた壁から身を起こした。そして一度大きく伸びをすると、「僕はもう行くよ」と言い放つ。

「君は?」

 バラドは目を瞬く。これ以上どこに?

 ――彼女のところか?

 頭の片隅に、痛みをこらえる少女の顔がぎった。

「俺は……」

 言いかけ、バラドは自分の両手を見下ろした。半月刀シャムシールが落ち、反響音を立てる。黒い革手袋には血が染みつき、ひどく汚れていた。

 そして再度顔を上げると、そこに桑雨の姿はなかった。

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