(12)答え合わせを始めよう

 ――襲いかかる、大量の水。

 鉄柵のはるか彼方からあふれ出した水は、あっというまに導水路を満たした。どうどうと激しくうねり狂いながら土砂の山を切り崩し、濁流へと変貌する。それは錆びて朽ちかけた鉄柵を、その前に立つ私たちを――そして《鰐》をわけへだてなく襲った。しっかり掴んだはずのクラエスの腕が離れる。あっけなく水のなかへと投げ出され、酸素をたれた環境で苦しみながらあえぐしかない。必死になってもがいていると、突然、強い力に腕を引っ張られた。

 頭上から射す光が、一瞬だけ、水の中を克明に照らした。

 私の視界に映ったのは、見慣れた白金色の髪プラチナブロンドだった。

 掴んだ腕を引き寄せて、クラエスは私の体を抱えこんだ。水流に抗いながら壁づたいに泳ぎ、半壊した鉄柵を握りしめる。彼の腕に囲われながら、私はようやく水面から顔を出した。大きく口を開き、呼吸をする。――命拾いをした。

 そのころには水の流れも穏やかになりつつあった。クラエスの助けを借り、鉄柵を足がかりに頭上の通用路までのぼる。そこから見渡すかぎり、導水路には黒い水が流れるばかりで、《ナング》たちの姿は影も形もなくなっていた。

「……よく水の気配に気が付きましたね。貴方があのときああ言わなければ、そのまま押し流されているところだった」

 通用路に立ち、襯衣シャツの水を絞りながらクラエスが言った。

「柵のむこうで何かが光っているのが見えたのよ。そのときは何か分からなかったけど、今思えばあれは信号だったのね」

 不可解な光の点滅を思い返す。

 キナアからの『暗号』の返事をしたためたとき、ただ文章で返すのは面白くないと思い――例の対照表をもとに、モールス符号に置き換えるということをした。勘違いでなければ、あの点滅は『水来たる』という意味だったのである。

「それにしても、まさか短期間で二度も流されるはめになるとは思わなかったわ。水難の気でもあるのかしら、私……」

 クラエスに背を向け、スカートの裾をぎゅっと絞る。したたり落ちる水を眺めていると、「――二度も?」と背後から疑問の声が飛んできた。

 ハッとして、私はあわててかぶりを振った。

「ええっと、いまのは聞かなかったことにして」

「『二度も』ってどういうことですか、ユリアナ。貴方、まさかあの山で川に落ちたんですか? こっちが一晩中探し回っているうちに? なぜ言わなかっ――」

 弾かれたように振り返ったクラエスが、ずんずんと詰め寄ってくる。かと思えば、ふいに顔を背けた。

 不審に思い彼の横顔を観察すれば、耳が赤く染まっていること気が付いた。

「……残念ながら、今は貴方に貸せる服を持っていない」

「すぐに乾くわよ。ここ、風が強いから」

 クラエス同様、私も全身ずぶ濡れだった。私はすげなくそう返すと、彼に背中を向け、「こっち向かないでよ」と言い付けてから襯衣シャツを脱いだ。

 手早く水を切り、再度身に付ける。生乾きだが着ないよりはマシだろう。

「…………あの夜は、誰かと居たのですか」

 クラエスは、いつになく覇気のない声で問いかけた。

 その裏に潜む確信を感じ取り、チクリと胸が痛む。すこし迷って、「言いたくないわ」と小さな声で返す。

 濡れた手で苦労して襯衣シャツのボタンを留めていると、ふいに肩を掴まれた。振り返れば、至近距離にクラエスの顔がある。私はとっさに彼の目を睨みつけた。しかし言葉は出なかった。拳を握りしめ、奥歯を噛みしめていたから。

 今の自分の態度が、彼にとって誠実さに欠けるものであると理解している。

 それがクラエスにどんな変化をもたらすのか、わからない。

 ――軽蔑するだろうか?

「……貴方にそんな表情かおをさせるくらい、つらいことが?」

 しかし彼の口をいたのは、予想に反したものだった。

 棒立ちの私を見下ろすと、襟もとのボタンをそっと留めてくれる。彼は無言でこうべを垂れた。濡れた金色の髪房が、私の首筋にかかる。

 水門が開け放たれたことで、地下水路には風が吹き込んでいた。冷たい風に全身をさらしながら、私は首を振った。

「つらいことなんてないわ」

「いいえ。耐えがたいことを耐えている顔をしている。――そんな顔をさせるくらいなら、追及しないほうがよかった。すみません、傷つけるつもりはなかった」

「そんなことは……、」

「行きましょう、ユリアナ。先を急ぐんでしょう?」

 そう言って、クラエスは私の手を優しく握りしめた。

 わけもわからないまま、その手に引かれて歩き出す。

 クラエスの背を視界に、しばらく無言で通路を進んだ。

 しかしふとした拍子に、うなだれずにはいられなくなる。ツンと鼻先が痛み、くちびるを小さく噛みしめた。――何かをこらえるみたいに。


 ◆


 その後、地下通路カナートで他の人間に遭遇することはなかった。《鰐》の生き残りは、あの水と土砂に押し流されてしまったのだろう。その後数刻をかけて、私たちは無事遺構への連絡階段があるポイントへと到着した。

 カンカン、と音を鳴らして金属の階段をのぼる。

 すると先行するクラエスがふいに足を止めた。

 彼の視線を追い、先を見れば――踊り場に何者かの姿があった。

「――キナア?」

 久しく口にしていなかった呼び名がこぼれ落ちた。

 全身を覆う黒い甲冑――大柄な体格の男。一見すれば、その姿は私の知る『キナア』によく似ている。しかしその特徴から、本人かどうかの確証は当然なかった。

 私はそれきり黙りこくり、彼と対峙するクラエスのようすを窺うことにした。すると、キナアが何かを差し出してくる。

 彼の手にあるものは、マスク――それも黒く仰々しい、日常生活では使うことのないような代物だった。

「……何を散布した?」

 無言でそれを受け取りると、クラエスが静かな声で問いかけた。

 周囲を包み込む緊張感に、自分の体が強ばるのが分かった。

 しかしキナアは答えず、かぶりを振るだけだった。クラエスは長い溜息をつくと、無言のまま、ふたつ渡されたうちのひとつを私に渡した。

 マスクのずっしりとした重みを、怖々と両手で受け取る。そして、クラエスの見よう見真似で身に付けた。思わず身震いをする。

 ――こんなものを着けなくてはいけない理由が、この先にはあるのだ。

「――ついて行きましょう」

 キナアを先頭に、私たちは連絡階段をのぼった。彼が遺構へと通じる扉を開け放てば、チカチカと、目の痛くなるような光が視界を覆った。

 ――無機質な空間だった。

 壁も床も扉も、すべてが同じ鉄色をしている。ごく低い天井に取り付けられた蛍光灯の色だけが、方角や位置を知る唯一の手がかりであり――その法則性を知らなければすぐにでも自分の場所を見失うであろう、不気味な構造。そこは不穏なほどの静寂に満ち、人の気配がなかった。

 ごうん、ごうん、と換気扇が回る音だけが響いている。

 赤色電灯が照らす道を、私たちは進んだ。どこへ連れて行かれるのかも定かでない。しかし私をもっとも不安にさせたのは、通路のところどろこに転がる、ちからを失った人間のからだだった。

 駆け寄ろうとすれば無言でキナアに制される。つい先ほど、『何を散布した?』とクラエスは問いかけた。

 散布する、と言うからには薬品やガスなどの類に違いない。私たちは長い時間をかけ、会話もなく似たような通路を突き進んだ――生きているか死んでいるかも定かでない、人間のからだはあちこちに見受けられた。かなりの広範囲だ。

 私の不安を感じたのか、クラエスが握る手に力をこめた。

 出発前に確認した地図によると、遺構は大きく東西の2ブロックに分けられる。現在私たちがいるのは西側のブロックだが、遺構の『中枢』と言われる機能は東側に集中している。西側から東側に行くには、一部の非常経路を除けば、一か所の連絡通路を使う以外の手段はない。キナアはどうやらそこを目指していたらしい、ということを理解したのは、これまでの薄暗い空間を出て、視界が大きく開けた瞬間だった。

 天井の低い、圧迫感と閉塞感のある空間から解放されると、私たちの眼前にはひとつの『橋』が広がった。白い壁と天井。そして膨大な空間に渡されるのは、透明な金属を用いた幅広の橋――それがずっと遠くにまで続いている。

 東側のブロックへと渡るための連絡通路だった。

 その『橋』の上には、これまでの比ではない数の人間が倒れていた。

 軍服姿でないところを見ると、《難民解放戦線》の一員かもしれない。しかし確証はなかった。つぶさに観察する勇気もなく、そこで唯一存在に、否応なしに注意を引かれたからだった。

 倒れ込む人々のなか、『橋』の中央に佇む男。こちらに背を向ける人物にむかって、キナアは歩み寄ろうとし――その矢先、くずれ落ちた。

「……っ」

 喧しい反響音を立て、重い甲冑とともにその肉体が倒れ込む。拍子にかぶとが落ち、『彼』の容貌が露わになった。肌の白い、見慣れない男だ。血の泡を吹いて絶命をした男を前に、橋に佇む何者かがはじめて反応らしい反応を見せる。

 振り返ったのだ。

 黒い外套マントがひるがえり、その裏側に縫いとめられた悪竜ヴィシャップの紋章が視界をぎる。

 防毒ガスを身につけた、皇帝直属軍イェニチェリの男だった。

「――残念。解毒剤は間に合わなかったか」

 片手に携えていた注射器を橋の下に捨て、『彼』は淡々と――まったく罪の意識を感じていないようすで、言い放った。

 倒れ臥した『キナア』を一瞥し、深い感慨もない表情で顔を上げる。

 そして、バラドはまっすぐに私を見据えたのだった。

「……ユリアナ」

 つま弾かれたようにおとがいを上げれば、バラドと目が合った。

 その視界を遮るように、クラエスが前に出る。

「いったい何をしたんですか、バラド。この人たちは――」

「見て分からないか? 青酸ガスをいたんだ。……ユリアナ」

 マスク越しにくぐもった声で呼ばれると、私はいざなわれるようにクラエスの前に出た。

 正面に佇むバラドの顔を見上げれば、ふいに彼は防毒マスクを外した。

「バラド!?」

 防毒マスクが橋を落下し、はるか彼方で反響音を立てた。すぐさま上体を屈めたバラドの肩に触れると、彼は低い声で笑い、私の顔を覗き込んだ。

 そして「冗談だ」となおも笑いながら続けた。

「シアン化合物系のガスはすぐに拡散する。換気扇を回してもう随分経つし、死ぬほどではない。……だけど、君に心配されるのはとても嬉しいよ」

 そう言って、バラドは私の両肩を掴み――ふいに顔を近づけてきたかと思うと、その舌先で私の眼球を。熱い舌の感触に、びくりと体が震える。

 笑みを深めたバラドは、ふと真剣な顔つきに戻った。

「君のためだ、ユリアナ。一〇年前、ここで君の足を撃った。その償いだ」

「……償い?」

 ――が? 周囲を見回した私に、バラドは目を細める。

「これから《試行》の答え合わせをする。俺は君のためにすべてを捨てるよ、ユリアナ。もともと何もいらなかった。だから惜しくはない」

「バラド、」

「また会おう、ユリアナ。まだ『仕事』が残っているんだ」

 そう言って、バラドは私から身を離した。

 踵高の靴を鳴らして、外套マントの裾をひるがえす。

 私は無言でその背を見つめた。とたん、頭の中が、砂嵐に包まれる――恐怖、不安、――後悔。私はいったい、彼に何をしてしまったのか? 

 どこで何かを間違えてしまったのか?

 バラドは一度だけ私を振り返った。

 そしてあの日々と変わらない、やわらかな微笑を浮かべてみせたのだった。

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