―追想(2)―
報酬金は、アラクセスが紛争地域に該当することに
この紛争に明快な《出口》はなかった。たとえアラクセス独立派が勝利を勝ち取ろうとも、その後の政治運営が泥沼化するのは目に見えている。ゆえに終わりのない争いであると
――あそこは、研究者ルスラン・カドィロフの『劇場』なのさ。
著名な研究者であったルスラン・カドィロフの作った、一対の義足。左足の
◆
冬のステパナケルトは、樹々が霧氷で白く凍りつき、あまつさえ空からは雪ではなく氷が降る。窓越しに響く氷の音を聞きながら、いつものように
寝椅子から身を起こし、その動くものに声をかけた。
「何をしているんだ?」
肩上で切り揃えてやった髪がふわりと揺れて、少女が振り返った。彼女は無言で鎮雨をみつめると、玄関のほうを指差した。
「外に出たいのか? やめたほうがいい。凍え死ぬぞ」
少女はめずらしく頑なな態度を取り、そこから動こうとしなかった。てっきり『母親のもとに帰りたい』とでも言いだすのかと思ったが――そもそも、彼女の記憶は母親を殺されたショックからかひどく曖昧で、自分のこともほとんど覚えていなかった――ふるふると頭を左右に振る。
「だれかいるよ」
その言葉に、
「あのね、ジンウ、みにいってくれる? おばけだったらこわいの」
「おばけ?」
「きのうのよる、ウルヤナがそんな話をしたの」
「あいつの寝物語は怖そうだな」と言うのに「すごくこわい」と答えた彼女に、部屋に戻っていなさいと言いつける。
青い目をぱちぱちと瞬いて、こくりとうなずく。少女は軽い足音を立てて、談話室を去っていった。その後ろ姿を見て、鎮雨は緑色の目をすがめた。
少女はおどろくほど従順だ。ほとんど騒がないし、我儘も言わない。あきらかに年相応ではないが、紛争下で抑圧された生活を
鎮雨は本を置くと、代わりにクッションの下に隠していた自動小銃を取った。弾の装填を確認すると、おもむろに玄関口へと歩み寄る。――そして、扉を開け放った。
「――おい」
銃を構えたまま、その大柄な男に声をかける――反応が無ければ、そのまま放っておくつもりで。
しかし。
「……バラド?」
玄関脇の照明に照らされたその容貌は、鎮雨にとって既知のものだった。――かつて、ファランドール家でともに働いた男だ。
しかしある日を境に連絡を絶ち、行方をくらましていたのだ。最後に会ってからは、ゆうに二年近い月日が流れていた。
「お前、どうしてここに――。おい、しっかりしろ。怪我をしているのか?」
白い大理石の床に、出血の痕があった――それは
ウルヤナを呼びつけると、開口一番、知り合い?と問いかけられた。
「後継ぎのお前なら知っているだろう? バラド・ヴィ・サフサーフだ。元ファランドールの……義肢関係の特許をいくつも持っていて……」
「あー、そんなのもいたね。何度か仕事をしたことがあるな。僕と知能テストの結果が同じだったことがいけ好かなくて忘れていた」
血に触りたくないと
彼は脇腹を負傷しており、出血もそれが原因だった。
意識を失った男の手当てをしようと、服をまくりあげた。そして、鎮雨は目をすがめた。彼の腰には、焼き印の治療痕を隠すために蔦模様の細かい
「
「……なんでこんなものが? この紋は……」
――既視感があった。
「なるほどね。ファランドール家を出たと思ったら、行きつく先は
「あそこは幼少期に引き取って養育するはずだろう。なぜ今更――」
「引き抜きじゃない? ファランドール家の知識をたくわえた
怪訝な顔をした
ひととおりの手当てを終え、傷口を包帯で圧迫する。
弾かれたように
「――一時的に預かっているだけだ。それよりも、バラド。何故お前がここにいる? 失踪したと思ったら……」
「子どもは嫌いだ……あっちへやってくれ。頼む、鎮雨……」
意識が混濁しているのか、バラドの言葉はあまり要領を得なかった。鎮雨は溜息をつくと、少女に声をかけようとした。――その矢先。
「いいじゃないか、ここにいても。悪さなんてしないよ」
ウルヤナがあっけらかんとした態度でそう答えた。少女の痩せた体を抱きあげると、横たわるバラドの正面に置いた椅子に腰かけてみせる。
そしてにこにこと笑ってみせたのだった。
「君も情緒というものを育むべきだよ、バラド。子どもはいいよ、予想がつかないことをする。でもちゃんと理由がある。たまに無いこともあるけどね。総じてかわいいものだよ」
「……お前、ウルヤナか? なんだ、気が狂ったのか……?」
鎮雨から鎮痛剤を投げつけられて、バラドは苦痛に顔をしかめながら身を起こした。次いで渡された水で一息に薬を飲む。しばらくして頭もはっきりとしてきたのか、呂律のまわっていなかった舌もしっかりしていた。
「お前がそんなことを言うとは。ボケが始まったのか?」
「失礼だな、僕はまだ二十代だよ。これは《試行》さ――僕が人間を育てられるかどうかのね」
そう言うウルヤナの手を、膝上に載せられた少女がふいに掴んだ。
夜色の手とウルヤナの目を交互に見やったかと思えば、おもむろに噛みついた。
「――失敗じゃないか?」
「これは甘えているんだよ。口のなかにものを含むと安心するし、保護者の気も引ける。ちいさな子どもにはよくあることさ。この子は賢いけど、感情を言葉にすることはまだ苦手のようだね」
ガジガジと容赦なく手をかじられても顔色ひとつ変えることなく、ウルヤナはそう言い放った。バラドは氷で濡れた髪をうっとうしげに掻きあげながら、「狂犬同然だ」と返した。
「それで、バラド。……お前、どうしてここに?」
――このままでは、延々ウルヤナの話に付き合わされそうだ。
そのことを察して、鎮雨は話に割って入ることにした。
バラドは顔を上げ、立ったままの青年をみやった。――感情を読み取らせない瞳であることに、鎮雨はすこし驚いてしまう。比較的歳の近いバラドとは、少年時代に首都の学校で机を並べ――
――彼が失踪するまでは。
過去に向けられていたはずの親しみが、その瞳にはない。ただ凍りついた湖のような、冷たく、鋭い眼差しだけがあった。
「――深い理由はない。怪我をして、たまたま近くにファランドール家のクラブハウスがあった。昔のよしみで助けてもらおうとしただけだ」
「今、
「鎮雨はあいかわらずだな。愚鈍なことこの上ない。他人のことを考えている暇があったら、自分のことを考えるべきだ。そんなんだから永遠に属領人であることから抜け出せない。妹の戸籍は買えたのか?」
「っ……それは」
嘲笑まじりに返してきた男に、鎮雨は
「――手当をしたんだ。相応のお返しをくれるかい、バラド? 君なら……いいこと、知っているんだろう」
いまだに少女に指を噛まれているウルヤナが、沈黙したふたりを見て口を挟んだ。
「報酬? がめつい奴だ。――道路封鎖はまもなく終わるだろう。山岳地帯に潜伏するゲリラ部隊は
バラドは痛みに顔をしかめながら、ゆっくりと立ち上がった。任務中なのか、この場所で休んでいくつもりもないようだった。
「……お前はその作戦に参加していないのか?」
鎮雨の問いには答えない。男はウルヤナの膝上にいる少女を見下ろすと、不愉快そうに顔をゆがめただけだった。
「……お前に子育てなんてできないだろう、ウルヤナ。俺と同じように、お前に人の心はないんだから」
「そうかもね。でも、演じればいつかそれが僕にとっての真実になるかもしれない。すくなくとも、この娘にとって僕の演技は真実だろう」
「夢見がちな話だ。その子どもも、離れればすぐにお前を忘れる」
「それでもいいだろう。バラド、言っておくけど、君と僕は違う。君はただのがらんどうだ。僕以下だ。なにも無いから、なににもかかずらないし、傷つかない。心がないんじゃなくて、自分がないんだよ。――可哀想なやつ」
――ウルヤナにまっすぐに見据えられ、バラドは一瞬、押し黙った。
しかしすぐに表情を取り繕うと、「世話になったな」と言って、ふたりに背を向けた。そして、雨の降る暗闇のなかに消えていった。
翌朝、バラドの言った通り、山岳地帯に通じる幹線道路の封鎖が解かれた。これまで溜めていた鬱憤を晴らすように、ウルヤナは喜々として移動の準備を始めた。
そして何を思ったのか、「この子も連れて行くよ」と言い放った。
何故かと問うた鎮雨に、ウルヤナは笑って答えた。「このプロジェクトに必要だから」――そして、運命の輪が回り始めた。
◆
【十年前】
属領アラクセス・カラバフ
XXX
鎮雨は血液製剤に刻まれた文字をみつめた。A型のRHマイナス――この血液型の比率が帝国人や他民族と比較して高いのがアラクセス人の特徴だ。ウルヤナが少女を拾ってきた当初に行ったメディカルチェックでも、例にもれず、彼女もその特徴を有していた。
検査台に力なく横たえられた少女には、右足がない。このまま放っておけば死んでしまうだろう。しかしふとした拍子に、彼の頭には疑念がわきおこり、手が止まってしまったのだった。
死こそがこの少女の運命ではないのか?
あるいはあのとき路傍で凍え死んでおけばよかったのではないか。そんな考えに取り憑かれてやまなかった。なぜならば、これから彼女に与えられる運命は――死ぬことよりも過酷であるはずだから。
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