【急】第三章 燃えさかる鏑矢をつがえて

 ―追想(1)―

【十年前】

 属領アラクセス・カラバフ――副王領府所在都市ステパナケルト


 夕暮れどきから、外では氷の雨が降りつづけていた。その男が屋内に足を踏み入れると、中央暖房セントラルヒーディングでぬくもった室温で、彼の夜色の肌や衣服に貼りついた氷が溶け落ちた。男はかぶりを振って濡れた髪から滴を落とすと、を抱えたまま、ずかずかと談話室サロンを汚れた靴で進んだ。

 談話室の隅、本を片手にくつろいでいた鎮雨ジンウはふとその足音に顔を上げ――ふだんほとんど表情を変えることが無いのが嘘のように、翡翠色の目をみはった。そして、「なんてことを」と声を発したのだった。

「おい、ウルヤナ。お前はいったい何を拾ってきたんだ? そこらの犬猫とは違うんだぞ」

「〝拾ってきた〟とは失敬だな。早々に決めつけるのはよくないことだ、鎮雨」

 つい数時間前、「散歩に行く」と戦闘の最中さなかにある街に出かけていった青年は、そう答えて不機嫌そうに舌打ちをした。そして悪びれもせず、それを抱えたまま奥の扉を目指していく。

 本を投げ出し、慌てて彼を追いかけて横に並ぶと、鎮雨ジンウは常識はずれの男へと訴えかけた。

「お前は知らないかもしれないが、人間には基本的人権というものがある。それを疎外する行いだとわかっているか?」

「だからもとに戻してこいって? この季節、ステパナケルトの外気温は氷点下一〇度を回るよ。人権? ふつう、ファランドール家の人間にそんなものを説くかなあ?」

 鎮雨ジンウを振り返ると、ウルヤナは挑発的に笑ってみせた。

 『悪い癖』が出た――即座に鎮雨は思った。ファランドール家の後継であるこの青年は、好奇心の塊のようなところがあって、自分の欲求や衝動を抑えるのがむずかしい気質だった。そのことをこの数カ月、クラブハウスでともに暮らすなかで否が応にも実感していた。悲しいことに、ウルヤナには自分の知的好奇心をまっとうするだけの権力と財力がそなわっているのだった。

 ウルヤナは聞く耳など持たないといった様子で、談話室を出た先にある廊下を突き進んだ。ガランとした廊下には、集中暖房の熱だけがもっている。

 ――ファランドール家所有のこのクラブハウスには、家の『構成員』のために用意された複数の客室がある。この屋敷が位置するステパナケルトは目下紛争地域にあたるため、このプロジェクトが始まった当初、滞在が決まったのは彼と鎮雨含むわずかな数の技術工エンジニアだった。そして現在、鎮雨以外の技術工は、ウルヤナに難癖をつけられて首都や別の地域へと追い返されている。

 実質、この屋敷いえには自分たちしかいない。

 春の終わり、鎮雨は莫大な報酬金を目当てに、紛争地域アラクセス・カラバフにある遺構の調査・発掘プロジェクトに参加した。帝国軍とアラクセス独立派が衝突をくり返すこの地は最近ではとみに戦況が悪化し、遺構に移動することもままならずクラブハウスに閉じこもる日々が続いている。そんななかで、ウルヤナが退屈していることは知っていた――が。

(こんなことをしでかすとは)

 立ち止まってそれを一度抱え直すと、ウルヤナは目線だけで目の前の扉を開けるように指示する。足を踏み入れると頭上の電灯がつき、そう広くはない室内が明るく照らされた。

 ウルヤナは、奥にある寝台ベッドにそれをゆっくりと横たえた――敷布シーツの上に力なく転がったのは、幼い少女だった。

 明らかに栄養状態のよくないとんぼのように細長い手足――長い黒髪。めくれた長衣の裾から伸びた右足には、双頭の鷲の焼き印があった。アラクセス人だ。

 少女に意識は無く、時おり苦しそうに呻いていた。その体に手を伸ばして体温を確かめると、鎮雨は翡翠色の目をすがめた。

「体温が低いな。ウルヤナ、そっちの毛布で包んでやってくれ」

「君は役に立つなあ、僕だとこうはいかないよ。医者を呼んだほうがいい?」

「このあたりの医者はほとんど避難したんじゃなかったか。湯を沸かしてくる――あまり動かすなよ」

 少女の様子を一瞥するなり、てきぱきと動き始めた鎮雨ジンウにウルヤナは嬉しそうな顔をする。そんな彼に鎮雨は肩を竦めて、足早に部屋を去っていった。


 部屋に戻ってきたとき、鎮雨は湯たんぽを持参していた。タオルで包んでわきや首など血管の集中する場所にそれらを添えてやり、少女の冷えた体を温める。幸いにして呼吸はすぐに落ち着き、彼女はゆるやかな眠りへと移行したようだった。

(妹を思い出すな)

 年頃は同じくらいだろう――少女の黒髪が、よけい首都に置いてきた妹を想起させる。鎮雨の妹は、あまり丈夫ではない。病弱でこそないが、こうして風邪を引くことがままあった。そのことを思い出して、ふと、彼は郷愁に駆られた。

「――それで? いったいどこから拾ってきたんだ。属領人だろう」

 隅の椅子に腰かけて、鎮雨は溜息まじりに問いかけた。眠る少女を観察するウルヤナの横顔は、ひどく熱心なようにもみえる。

「散歩をしていたら帝国ハディージャ軍とアラクセス独立派の衝突に巻き込まれた。小競り合い程度だったけどね。僕は隠れていたんだけど、あたりが静まってから外に出てみたら、現地民が何人か射殺されていた。この子は――おそらくは母親の――死体の下敷きになっているのを見つけたんだ。その瞬間、僕はそれが熾天使かなにかのお導きだと思った」

「頭が痛くなる話だな」

「天啓のようにひらめいたってわけさ。『この子は僕が育てよう』って。『そしてファランドール家の後継ぎにしよう』って」

 ――片眉を跳ねあげて、鎮雨はウルヤナを見た。「正気か?」と思わず本心を口に出すが、ウルヤナは気味の悪い笑みをやさない。

 青年は寝台のふちに腰かけると、手足を伸ばして「本気だよ、これでもね」と肩をすくめてみせた。

「知っているかい? 僕の遺伝上の母親は、卵子バンクに登録されたアフリカ大陸出身の属領人だ。会ったこともなければ、当然愛着もない。なぜならそれはスーパーコンピューターが算出した母親というだけだから。ファランドール家の当主の精子と掛け合わせたとき、もっとも優良な子が生まれるように計算され、試験管の中で生を受けたのが僕。結果はこのザマさ。頭はいいさ、期待されたとおりにね。だけど、僕には人の心が理解できない。生まれながらに脳機能に障害がある」

「――お前の生い立ちと、その子は関係がないだろう? そんな酔狂な真似なんてせずに、属領内の施設にでも入れればいい。それが人助けってやつだろう」

「そんなのは自己満足さ。属領出身の子どもが属領の施設に入ったところで、行先はろくでもない。帝国人の善良な親の子になれればいいけど、一握りだろう。――僕は《試行》するんだ。最良の子として生まれた欠陥品の僕、その僕が育てたそこらの雑草同然の子どもが、ファランドール家の当主たりえるか? 面白いだろう?」

 鎮雨ジンウは言葉もなく、深々と溜息をついた。ファランドール家の構成員ではあっても、一介のである自分は彼の『決定』に対して口出しをすることができない。

 そんな鎮雨の様子に、ウルヤナは夜色の手を組み、黒い目を細めた。

 ――その瞳は、砂漠の大地のごとくカラカラに乾上ひあがっていた。

「ウルヤナ、お前は――――」

 鎮雨が口を開いた矢先、ウルヤナの背後で声が聞こえた。思わず目をやれば、それまで眠っていた少女が目を覚ましたようだった。

 アラクセス語で何事かを呟き、不思議そうに青い瞳を瞬く。――自分の置かれた状況を理解していない表情かおだった。

 しかし一拍遅れて――ぐう、と腹の音が鳴った。

「……ははっ」

 その音に、ウルヤナが声を上げて笑った。

 鎮雨は腰を上げ、寝台ベッドに近づいた。そして少女に持っていたマグカップを手渡した。――まだ湯気を立てているミルクで、あらかじめ用意していたものだった。

「すごいな。親が死んだことをおぼえていないのか? それとも親が死んだことなんて何てことない? あるいはまだわからないくらいに幼い? こんな怪しい大人たちに囲まれて警戒もせず、どんな感情も差し置いて、腹を空かせている? 愉快だ」

「――ウルヤナ。お前はすこし黙ったほうがいい」

「きっとこの子はしぶといよ、鎮雨。生き汚いのはそれだけで逸材だ。――ああ、僕は熱心だからね、派遣が決まったときにアラクセス語を勉強したんだよ。君、名前は?アヌント インチェー

 マグカップを両手で受け取って、少女はおずおずと口をつける。

 怯えた目で、ウルヤナを見上げ――そして、小さな声で名乗った。


 ◆


 その後も、ステパナケルトでは帝国ハディージャ軍とアラクセス独立派の衝突が断続的に起こり、膠着状態が続いた。遺構のある近郊の山岳地帯へと通じる道路は、一帯に独立派のゲリラ部隊が潜んでいるという理由で封鎖されたままだ。ほとんど街から身動きができないなか、あたらしい《試み》を見つけたウルヤナは鎮雨が想像していたよりもずっと『親』らしく振舞った。もともと、彼は人の機微に疎くとも、理解しているようにことは上手な人種だった。とはいえども、食事を与え、風呂に入れ、怯える少女の世話をしたのは、ほとんど鎮雨のほうだった。

 突発的に戦闘が起こる国内の状況では、彼女を施設に入れるため、あるいは国境付近の難民キャンプに送り届けるために外出する方が危険であると鎮雨自身も判断したのだった。そしてまもなく、彼は少女の利発さに驚かされた。彼女はウルヤナに教えられるがままに公用アラビア語を学び始め、発話はもちろん、しばらくすると読み書きにも不自由しなくなった。ウルヤナは歓喜して、他にもいろんなことを教えているようだった――しかし鎮雨は彼の『ファランドール家の当主』にするという発言は本気にせず、頃合いを見て、適切な場所へ送り届けるつもりではあった。


 ――状況が変わったのは、少女がこのクラブハウスに来てから数週間後。

 

 降り止まぬ氷晶雨のなか、既知の男バラドがふたりを尋ねたことによる。

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