(16)塔からの脱出
暗闇を切り裂くように、火柱は垂直に上がる。まるで火山口から噴き上がる炎のごとく、オレンジ色の火の粉を夜空に散らしながら。
「あの様子だと、おそらく液体水素のタンクが破裂したんでしょう。水素は軽さからすぐ拡散するし、延焼範囲も限られます――が」
クラエスがそう言いかけた瞬間、ふと、足もとが左右に揺れた。
――地震だった。地上から突き上げる小刻みな揺れは、徐々に間隔を狭めながら、激しさを増していく。
「問題は液体水素を貯蔵するタンクだ。液体水素の性質上、それを維持するために高圧になっている。それが破裂したとなると……」
ものすごい威力になる、ということだろうか。
クラエスの言ったとおり、地震は収まる気配がなかった。頭上からパラパラと土埃が落ちてくる。ほとんど立っていることも難しいような状況下で、クラエスは対物ライフルを腕に抱え上げると、「走って」と短く声を張り上げた。
「このままでは塔が崩落する。取引材料が泡になった以上、ザムエル・ファランドールも現れないでしょう」
私は迷いながら足もとの縄
縄は上下左右に激しく揺さぶられている。しかしクラエスの突き刺さるような視線に、嫌と言うこともできない。ええいままよとばかりに、意を決し、私は両手で揺れる縄をなんとか引っ掴んだ。そのまま飛び降りる。
縄梯子からほとんどぶら下がるような恰好になりつつ、何とか螺旋階段の上に両足をつけることができた。――と思ったら、頭上からクラエスが飛び降りてきた。
難なく着地した彼を横目に、眼下に広がる螺旋階段を一瞥する。
塔全体が小刻みに震えているのがわかった。階段もまた、いつまでその形を保っていられるのかわからない。私はぎゅっと両手を拳の形に握りしめ、最初の
そのあとはひたすら、無我夢中で走った。恐怖を感じる暇さえもなく。しかし塔の中腹まできたところで、いよいよ塔全体がぐらつき始めるのがわかった。
このままでは本当に塔自体が崩落してしまう。それまでに走って地上に出ることなど不可能に違いなかった。
「ユリアナ」
振り返れば、ライフル銃を抱えたクラエスの姿がある。
彼は目線だけで、真横にある窓を指し示した。
「――飛び降りろって?」
彼の意図は言葉にするまでもなく明らかだった。私が問いかけると同時に、クラエスは軍用
ガラス片が散り、夜風が吹きこんだ。
外を覗けば、
「さすがの私でも、この銃とあなたは抱えて正確に着地することは難しい。この対物ライフルが14kg強、あなたは推定するところ……ああ、なので、ひとりでがんばってください」
「要求がひどいわ……」
「大丈夫。あなたには《リエービチ》がある。腐っても軍事用ですから、耐久性も高いでしょう。おそらく右足から着地すれば、衝撃もある程度は緩和できる」
――それって、頭で考えてできることだろうか? しかしいよいよ下から響く轟音は大きくなり――同じ場所に立っているだけでも、この塔が沈下しつつあることを体感できるようになっていた。
私はぐっと歯を食いしばって、窓から身を乗り出した。着地点を睨みつける。
なるべく平らなところを見極め、一度だけ、深呼吸をする。
そして――飛び降りた。
生ぬるい夜風が、全身に吹きつけた。スカートの裾が膨らみ、髪がなびく。宙にいる、というのを認識できたのは、その一瞬だけだった。
次の瞬間、私は
人工皮膚のカバー越しに、右足がきらめいた。夜闇に、青い閃光が弾ける――気がつけば、私は屋根のへりに着地していたのだった。
ほとんど、衝撃も感じずに。
間を置かず、クラエスが飛び降りてくる。隣に両足をつけた彼は銃を抱え直すと、顎をしゃくって、真下にあるバルコニーを指す。この状況ではもう文句を言う気力もなく、私は指示されるがままそこに飛び降りた。さらに壁面の錆びた排水管をたどってようやく、地上に降り立つことができたのだった。
――その瞬間、背後で塔がくずれ落ちた。大量の土埃が舞い、石の
ここまで来れば安全だろう。火柱からは遠く、地震の影響も及んでいない。私は痛む脇腹を押さえながら、なんとか乱れた呼吸を整えようとした。満身創痍な私とは対照的に、隣に立つクラエスは相変わらず涼しい顔をしている――うらみがましく眺めていれば、ふいにほほ笑みかけれた。
「――よくできましたね」
淡青色の目を細めて、埃のついた髪を撫でられる――その行動に妙に気恥ずかしさを感じて、私は頭をぶんぶんと振って彼の手を振り払った。
「褒められたって……嬉しくなんかないわ」
「そうですか」
「――う、嘘よ。本当は……」
その先の言葉は続かない。私は自分の口もとを押さえると、無言でクラエスを睨みつけただけだった。
――遠目に、火柱の勢いは減りつつあった。しかし風が強いせいか、鎮火する気配はない。鼻をつく煙の匂いに目をすがめる。
「私はこのまま野暮用に。あなたは火を避けて屋敷まで戻ってください。――一人で大丈夫ですね?」
火柱から視線を戻し、クラエスは私をまっすぐに見つめた。
その
しかしその違和感を口に出すことはできず、私はこくりとうなずいた。
「じゃあ、しばらくお別れです」
そう言って、クラエスは黒衣の裾をひるがえした。
火柱のある方角へとむかって駆け出した彼の背を、私は見送った。
――思い返してみれば、不審な点はいくつもあったように思う。
華奢な見た目に反して、クラエスは尋常じゃない筋力の持ち主で――複数の夜盗を相手にしても、剣ひとつで一瞬で片付けてしまえる。背中に大量のガラス片を受けても、痛がるそぶりさえみせず平然としている。
でもそれって、何かおかしくないだろうか。
そうは思うものの、彼自身から話を聞いたわけではないし、具体的な仮説があるわけではない。ただ胸のなかに、一抹の不安をおぼえていた。
そんなことを考えながら、私が屋敷への道のりをたどっている最中のことだった。荒廃した
このあたりは廃墟が多く、治安も悪い。一瞬身構えて、その影を確認した。
誰かが道ばたのゴミ捨て場を
「……やっば」
影は私を振り返って――気まずそうに、ぺろりと舌を出した。
聞き覚えのある声に、目を見開く。
「
「まずいところを見られちゃったなあ……」
「……まあ、ゴミ漁りも人の勝手よね……?」
おもわずそう返してしまうと、桑雨は
そして私の傍まで歩み寄ってきたかと思うと、腕を掴んできたのだった。
「ここで会ったのも何かの縁だ。ちょっと僕のボランティアに付き合うつもりはない?」
桑雨は翡翠色の目をきらめかせ、そう言い放った。
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