(14)捕虜と身代金

 クラエスは、キナアを追わなかった。

 ほんの僅かな時間、閉ざされた扉をじっと眺めていただけ。そして私を振り返ったとき、その整った顔にはあきらかな渋面が浮かんでいた。西日の照り返しがこたえるのか、まぶしそうに淡青色の目を細めてなお。彼の手は、拳の形に硬く握られているのだった。

「その、クラエス……」

 クラエスは舌打ちをした。苛立ちに任せて彼がテーブルに拳を叩きつければ、背の低い花瓶がおおきく揺れた。中の水があふれだし、黄色の薔薇ローザ・ペルシカが、そのごと床に落下していくのを、私は慌てて手ですくいあげることになった。

「キナアが……あなたの言っていた〝共犯者〟なの?」

 消沈したように肩を落とす青年に、私は怖々と問いかけた。手に掴んだ濡れた花のつるを、ぎゅっと握りしめる。

 クラエスは荒々しく濡れた髪をかきあげ、「そのはずだった」と、とげのある声で答えた。――正直、クラエスはあまり自分の感情を抑制するのが上手ではないと思う。それだけキナアの『裏切り』は彼にとって予想外で――そして、ショッキングな出来事だったのだろう。

「彼とは取引を。本当は、アル・カーヒラに到着した時点で、あなたを別の属領なり、異国なりに逃がす予定だったんです。所持者が露見さえしなければ、遺構第二〇二の起動キーとなる《リエービチ》は足跡を絶つ。争いの種も消えるはずだった……」

 あなたが逃げたからそれも失敗したんですけど、とクラエスは嘆息まじりに言った。彼は音を立てて椅子に腰かけ、怒りを吐き出そうと深呼吸をした。

 それでもなお、彼が膝に置いた手は小刻みに震えたままだ。

「〝反逆罪〟というのは、そのための方便だったってこと?」

 クラエスの発言に、私は目を見開いた。そのとおり、と彼がうなずく。

「私、ぜんぜん知らなかったわ。言ってくれたなら――」

「言うつもりはなかった。あなたの義足が《リエービチ》であることは、その所持者を含めて、誰にも知られないままに闇に葬られなければいけなかった」

「……その計画が失敗したから、あなたたちは次の策を練っていたんでしょう? ここにきて、キナアがそれを反故にしたってこと?」

「今ばかりは、あなたの物分かりのよさに感謝しますね」

 ――《リエービチ》。

 アラクセスにあるという兵器製造施設の『鍵』となるのが、私の義足だという。なぜ私がこの義足を所持しているのか――今に至るまで、詳細は分からない。しかしこの美しい右足を与えたバラドに、何かしらの思惑があるのは確かだろう。

 右足の質量を意識する。鼓動の速まる心臓を、そっと手で押さえた。

「……取引って言ったわね。あなたは私を逃がす代わりに、いったい何を得るつもりだったの?」

皇帝直属軍イェニチェリからの足抜けですよ。具体的にいうと、そのための身代金。まあ、いまとなっては全部水の泡ですが……」

 クラエスの発言に、私は今度こそ言葉を失った。

 ――クラエスは、私の傍にいることについて明確な理由がある、と言っていた。

 私と彼にたしかな絆がないのならば、そこになにかしらの利害関係が発生しているのは当然のことだろう。

 しかしその視点が、最近の私には欠けていた。――頭の片隅にはあっても、考えないようにしていた、というのが正しいのかもしれない。

 今まで自分が見ていたもの、信じていたもの……そういった一切合切が、足場からくずれていく感覚に陥る。彼が自分の傍に護衛としていることに、目的があることは理解していても――いざ確かめてしまうと、いきなり突き放されたような気がしてしまう。

「それって……大金なの?」

 やっとの思いで、それだけを絞り出した。

「ええ。私は〝属領〟から買われてきた身ですからね。皇帝直属軍イェニチェリは、性質的には奴隷兵マムルークと近い。その上、皇帝の私兵として活動するための訓練、教育……膨大な投資がなされてこそ、この地位にいる。――皇帝直属軍イェニチェリであることはすなわち、捕虜に等しいんですよ。……望んでこの場所にいるわけじゃない」

 花を抱えた手が震えるのがわかった。

 そんな私を見て、「ユリアナ?」とクラエスが名前を呼ぶ。

 私は弾かれたように顔を上げ、クラエスの顔をみすえた。

「……全部、嘘なの? 私の味方になってくれるって話も――取引のために、言っていたことなの?」

 胃の中が熱くなった。こみ上げる感情をこらえようと奥歯を噛みしめても、徐々に全身が震え出すのがわかった。あまり感情的になっても意味はないと分かっているのに、押さえることができないのだ。

 ぼやける視界のなかで、クラエスが驚いたように目をみはる。

「私、あなたが味方になってくれるなら、こんなに心強いことはないって思ったのよ。……私、ぜんぜんお金なんて持っていないし、あなたの身代金なんて、一生かかっても払えるかわからないし……」

 棒立ちでスカートの裾を握りしめていると、そのみじめな態度にか――クラエスの顔が徐々に険しさを増していく。よりいっそう、苛立っているようだった。

 机が叩かれる音に肩を揺らせば、彼はさらに声を張り上げた。

「何ですか? いきなり泣き出して。あなたの後見人はずいぶんとお優しかったようですね。泣けばなんとかなると思っている、その媚びた態度がまぎれもない証拠だ」

「違うわ――そんなこと、ないわ……」

「だったら泣くのをやめてください。見ていて不愉快だ」

「仕方ないじゃない! 勝手に出るのよ!」

 両の拳を握りしめ、私はクラエスを睨みつけた。花が足もとに落ちていくのがわかったが、今はそれにかまっている余裕もなかった。

「そんなに嫌ならこの部屋を出ていけばいいじゃない。あなたにとって、私の利用価値が無くなったってことでしょう? もう一緒にいる意味なんてないんでしょう? それとも私を《難民解放戦線》に売ってお金を得る? 人質にしてファランドール家から身代金を要求する? あなたこそ、眺めてないで何かすればいいじゃない! どうせ私は非力だし、一人じゃなんにもできないんだから!」

「はあ? それは名案ですね。あなたみたいな可愛げのない、世間知らずの娘の相手なんてもう飽き飽きですから」

「なによ、私だってあなたみたいなひどい人、他に見たことがないわ! 口は悪いし、すぐに手とか足が出るし……でも……」

「………っ、ああ、もう」

 荒々しくクラエスが立ち上がる。私は必死になってこぼれる涙を拭いながら、彼を睨みすえた。――そのまま背を向けるのかと思いきや、ふいに腕を掴まれた。

 バランスを崩して、彼の胸に倒れ込んでしまう。

「くそっ、そんなことを言いたいわけじゃないんです……ただ……」

 皮の厚い手が私に触れ――もしかしてくびり殺されるんじゃないかという不安がぎった矢先、ぎこちなく、頭を撫でられた。

「……あとすこしくらい、付き合ってやってもいいです」

「……あとすこしくらい?」

「片が付くまで。――なんで睨むんですか」

「……私、お金を払えないわ。身代金なんて」

 震える声でそう言い返せば、クラエスはふと表情かおの強ばりを解いた。そして、その目を柔和に細めたのだった。

「――私はあなたの味方になると言ったでしょう。忘れたんですか? それでも気になるようだったら、出世払いで頼みますよ。貴方がいつか私を買い取ってくれれば、それで勘弁してさしあげましょう。待っていますよ、ユリアナ」

 目を瞬いた。そして一拍遅れて――「あなたって素直じゃないのね」という感想が思わず口を突いて出た。

「言うことに欠いてそれですか」

「だって驚いたんだもの。……ありがとう、クラエス」

 俯きがちに、私はボソボソと呟いた。じんわりと、安心感が胸に広がっていく。

 さらに遅れて、彼の言葉が予期せず私の心に波紋を広げる。まるで殺し文句ではないか。「待っていますよ」なんて……。

 顔が熱くなった。きっと真っ赤になっていることだろう。クラエスは不思議そうに目を瞬いて、それからおかしそうに笑った。

 ふと、顎をすくいあげられる。淡青色の目に顔を覗き込まれ、それが妙に気恥ずかしく、しかし目を逸らすこともできない。

 先ほどまでの意地悪なそぶりはどこへやら、彼は優しくほほ笑んだ。――とてもいいものを見つけたとでもいうような、子どものような顔で。

「……貴方、ジュリアに似ていますね」

「……それってあなたのテディベアのこと?」

 いかにもロマンチックな台詞を吐きそうな顔で、口にするのはそんな話だった。――思わず、気が抜ける。

 一気に感情を昂らせたせいもあり、ひどい疲労感をおぼえた。

 脱力した私の肩を抱いて、すっかり機嫌を直したクラエスが髪に指を絡ませてくる。

「今度、似合うリボンをつけてあげますよ。――なんですか、その顔は。思いっきりしかめ面をして腹立たしい娘だ。光栄に思うところですよ」

「私、少女趣味じゃないの。……まあ、なんでもいいわ。そしたらお返しに、私もあなたにリボンを結んであげるわ。とびきり可愛いやつを選んであげるから」

 ――なぜ満更ではない顔をするのか。仕返しのつもりで言ったのに、喜ばせる結果になるのは意味がわからない。

 私は溜息をついた。そして額を、ぐりぐりと彼の胸にこすり付けたのだった。

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