(8)逃走、そして
「朝になったら、僕の知り合いのところへ行こう――」そう言った
重い頭をもたげて覗いた窓のむこうには、白んだ空がある――異変に気がついたのは一拍遅れてからだった。
――クラエスかキナアが来たのかもしれない。
私は後方のクローゼットに確認すると、忍び足で近寄り――飛び込んだ。たてつけの悪い、両開きの扉を必死で手に押さえつけながら、細かい格子の隙間から外の様子をうかがう。そして奥歯を噛んで息を殺すと、ずるずると衣服の積み上げられた床に尻餅をついた。桑雨は適当な返事をして、壁にかけていた
部屋の外に立っていたのは、案の定、クラエスだった。しかめ面をしながら、外階段のきざはしを背にして佇んでいる。
彼の白金色の髪が、朝焼けの光にあわい桃色に染まっていた。
「――こんな朝っぱらから何? ちょっと非常識すぎないかな、帝国軍人さん。いったい僕になんの用なの?」
「ああ、すみません。急用でしたので、時間を気にする余裕がなかったのですよ」
桑雨の批難に、クラエスはやんわりとした笑みを返す。
朝陽に、彼が腰に
「そうなの? 僕、軍人がくるほどはっちゃけたことをした記憶はないんだけど。
「それは失礼しました。しかし、昨晩――貴方が見慣れぬ娘を連れていたという話を、ここらの浮浪者から聞いたもので」
「なんの話か分からないな」
戸口の壁に寄りかかりながら、桑雨は肩を竦めた。彼女に不審なようすはない――対するクラエスも飄々としたもので、傍目には軽口をたたき合っているだけのように見えた。しかしクローゼットからふたりの様子を見守る私は気が気ではない。内扉を押さえつける手は汗ばみ、心臓の音も尋常でなく大きく響いた。
「黒髪で、青い目の――ご存じない?」
「そんな容姿、このアル・カーヒラにはごろごろいるんじゃない? 何なの、いったい。栄えある帝国軍人様がひとりで人探し? 変な話じゃないか。そんなの、自治警察にでも任せればいい。あるいはこのあたりのならず者に金を掴ませるとかね。――それともまさか、逃げられた恋人でも探してる? おにいさん、顔はいいけど、甲斐性なさそうだもんなあ」
「……話になりませんね。いいから、中に入らせてもらいますよ。それでいなければ、私は出て行くだけですから」
「ちょっと待ってよ、下着が干しっぱなしなんだけど。……しまってからでいい?」
言うが早いか、くるりと身を翻した
そして片足を上げた次の瞬間、けたたましい音とともに火花が散った。
「――爆竹!?」
クラエスが声を上げた。靴底との摩擦で引火した爆竹は、立て続けに激しい破裂音を響かせ、あたりを煙幕で包んだ。
と同時に、クローゼットから飛び出した私の腕を
「行くよ!」
桑雨に導かれるまま、私は窓から飛び降りた――部屋は二階だ。下が石畳であったら、怪我どころではすまないかもしれない。
そう思った矢先、やわらかい衝撃が両足に走る。
窓の真下はごみ溜めだった。もののすえた臭いに顔をしかめる余裕もなく、私は桑雨に急き立てられるがまま走る。
まだ太陽ののぼり切らない街並みは薄暗く、冴え冴えとした風を頬に感じた。
まるで迷路のような、細くねじれ曲がったいくつもの道をひたすらに走る。そして辿りついた行き止まりで、
――迷っている暇はない。
ええいままよ、とばかりに私はそのなかに飛び込んだ。
底は思った以上に浅く――脇から、狭い
どこからか、水音が響いてくる。
アル・カーヒラには、古代のもの、遺失文明時代のもの、誰にもその全貌がわからないくらいたくさんの
私たちが飛びこんだのは、そのひとつのようだった。
「……すごい。あんなごみごみした町中の下に、こんなものがあるなんて……」
スカートや手足の泥を払い、私は非常灯の光に照らされる空間を見渡した。
――さすがに、こんな場所であれば、クラエスもすぐに追ってくるということはないだろう。どきどきと早鐘を打ち続ける胸を押さえ、気を落ち着かせるために深呼吸をする。地下水路は枯れていたが、肌寒く、湿気があった。
気が付けば、桑雨の背もずいぶん離れたところにあった。
彼女はずいぶん早足で、しかも迷いなくこの摩訶不思議な道を進んでいる。このあたりに詳しいに違いなかった。
彼女に置いていかれたならば、私はすぐに迷ってしまうだろう。
「――ねえ、桑雨」
その高い背まで走り寄り、私は声をかけた。
「どうしてここまでして私を助けてくれるの?」
ふと口をついたのは素朴な疑問だった。
――軍人という権威に盾ついてまで、彼女は私を助けようとしてくれた。その行動は純粋に頼もしく、ありがたかった。私の同級生たちとは大違い――けれどもふとした瞬間に不安をおぼえたのは、私の悪い癖だろうか。
「――桑雨?」
振り返って、彼女は私の腕を掴んだ。
そのまま、無言で前をむく。腕を掴む手の強さに、私は眉根を寄せた。彼女の骨ばった指が、私の二の腕に食い込んでいた。
「痛いわ、桑雨。離して」
「……ねえ、ユリアナ。君は『ロストコーナー』を知っている?」
私の問いに答えるかわりに、突拍子もなく、桑雨は言い放った。
「急に何? ――属領のことでしょう」
「そうだね。帝国の侵略政策によって、征服された土地のことだ。それを示す名を奪われ、言語と文化を侵される。やがては誰もがその土地が『その土地』であったことを忘れてしまうから、
地下水路に、ふたり分の足音と声はよく響いた。
壁で等間隔に灯る非常灯のオレンジの明かりが、ぼんやりと、彼女の少年っぽい肉体を照らしていた。墨色のまつげを伏せた桑雨は、じろりと暗い行き先を睨む。ぽつぽつと置かれた非常灯はよるべなく光り、ある場所からはそれも途絶え、長い暗闇が続いていた。
「帝国――そして属領には、ロストコーナーの奪還と独立を目的とした組織が複数ある。難民解放戦線を知っている? 彼らは比較的新しい組織でね。十年前の、アラクセス・カラバフ紛争をその発祥とする――」
ふと、明かりが消えた場所――前方から複数の足音が響いた。
立ち止まった
「………君のその『義足』は、アラクセス紛争で、人々が血眼になって奪い合ったものの象徴だ。まさかとは思ったけれども、そんな特徴的な足、ふたつとない……」
私たちは複数の男たちに取り囲まれていた。粗末な
かわるとすれば――それぞれが手に得物を持っているくらいだ。
――どうして、と声もなく私は訴える。
「残念ながら、僕はとても悪い人間だったんだ」
桑雨は世間話をするように私に言った。その声の軽さに、一瞬、事の重大さをのみこみきれない。
彼女ははなから私の答えには期待していないらしく、やつぎばやに言葉を続けた。
「彼らがその難民解放戦線のメンバー――の一部さ。端的にいえば、テロリスト……それも過激なね。あっ、そんな怖い目で見ないでよ。君たちのことはよく理解しているつもりだよ、これでも」
桑雨はおどけたように周囲の男達に言う。そして私を振り返ると、白い歯を覗かせて、いたずらっぽくほほ笑んだのだった。
「ああ、ユリアナ。君がファランドールの名を冠していなければ――あるいはその足を持っていなければ、僕ももうすこし善良にふるまえたんだよ。……一応言っておくけど、嘘は言ってないんだよ。難民解放戦線は、このあたりを仕切るならず
彼女の飄々とした声音が、地下水路を寒々しく反響した。私はこちらを値踏みするようにみつめてくる男たちから、顔を背けることもできず――唇を噛みしめたのだった。
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