(8)逃走、そして


 「朝になったら、僕の知り合いのところへ行こう――」そう言った桑雨サンウのベッドの半分を借りて、私は一夜を明かした。緊張からほとんど眠ることもできず、ようやくまどろみはじめた頃、私は彼女にたたき起こされた。

 重い頭をもたげて覗いた窓のむこうには、白んだ空がある――異変に気がついたのは一拍遅れてからだった。

 借り部屋アパートの外階段に面した扉が、ドンドン、と激しく叩かれている。間断なく――恐ろしい勢いで。桑雨は身をこわばらせた私に対し、無言でクローゼットを指差した。その中に隠れろという意味らしい。

 ――クラエスかキナアが来たのかもしれない。

 私は後方のクローゼットに確認すると、忍び足で近寄り――飛び込んだ。たてつけの悪い、両開きの扉を必死で手に押さえつけながら、細かい格子の隙間から外の様子をうかがう。そして奥歯を噛んで息を殺すと、ずるずると衣服の積み上げられた床に尻餅をついた。桑雨は適当な返事をして、壁にかけていた外套ミシュラハをはおると、外へ通じる扉を開けた。

 部屋の外に立っていたのは、案の定、クラエスだった。しかめ面をしながら、外階段のきざはしを背にして佇んでいる。

 彼の白金色の髪が、朝焼けの光にあわい桃色に染まっていた。

「――こんな朝っぱらから何? ちょっと非常識すぎないかな、帝国軍人さん。いったい僕になんの用なの?」

「ああ、すみません。急用でしたので、時間を気にする余裕がなかったのですよ」

 桑雨の批難に、クラエスはやんわりとした笑みを返す。

 朝陽に、彼が腰にいた半月刀シャムシールの柄がきらめいている。節くれだった男の手は握らずとも、意図的にその近くに置かれていた。

「そうなの? 僕、軍人がくるほどはっちゃけたことをした記憶はないんだけど。人頭税ジズヤもちゃんと収めてるし。みてのとおり、品行方正なだけの学生だよ」

「それは失礼しました。しかし、昨晩――貴方が見慣れぬ娘を連れていたという話を、ここらの浮浪者から聞いたもので」

「なんの話か分からないな」

 戸口の壁に寄りかかりながら、桑雨は肩を竦めた。彼女に不審なようすはない――対するクラエスも飄々としたもので、傍目には軽口をたたき合っているだけのように見えた。しかしクローゼットからふたりの様子を見守る私は気が気ではない。内扉を押さえつける手は汗ばみ、心臓の音も尋常でなく大きく響いた。

「黒髪で、青い目の――ご存じない?」

「そんな容姿、このアル・カーヒラにはごろごろいるんじゃない? 何なの、いったい。栄えある帝国軍人様がひとりで人探し? 変な話じゃないか。そんなの、自治警察にでも任せればいい。あるいはこのあたりのならず者に金を掴ませるとかね。――それともまさか、逃げられた恋人でも探してる? おにいさん、顔はいいけど、甲斐性なさそうだもんなあ」

「……話になりませんね。いいから、中に入らせてもらいますよ。それでいなければ、私は出て行くだけですから」

「ちょっと待ってよ、下着が干しっぱなしなんだけど。……しまってからでいい?」

 言うが早いか、くるりと身を翻した桑雨サンウが、私のいるクローゼットにむかって手招く――出ろということだろうか? このタイミングで? 困惑する私をよそに、彼女は外套のなかに腕をもぐらせた。

 そして片足を上げた次の瞬間、けたたましい音とともに火花が散った。

「――爆竹!?」

 クラエスが声を上げた。靴底との摩擦で引火した爆竹は、立て続けに激しい破裂音を響かせ、あたりを煙幕で包んだ。

 と同時に、クローゼットから飛び出した私の腕を桑雨サンウが掴む。彼女はその足で窓ガラスを蹴破った。先ほどの爆竹といい、今度は靴に鉄板か何かを仕込んでいたのか。小気味よい音が響き、ガラスは粉々に砕け散った。

「行くよ!」

 桑雨に導かれるまま、私は窓から飛び降りた――部屋は二階だ。下が石畳であったら、怪我どころではすまないかもしれない。

 そう思った矢先、やわらかい衝撃が両足に走る。

 窓の真下はごみ溜めだった。もののすえた臭いに顔をしかめる余裕もなく、私は桑雨に急き立てられるがまま走る。

 まだ太陽ののぼり切らない街並みは薄暗く、冴え冴えとした風を頬に感じた。

 まるで迷路のような、細くねじれ曲がったいくつもの道をひたすらに走る。そして辿りついた行き止まりで、桑雨サンウは小さな古井戸を指示した。

 ――迷っている暇はない。

 ええいままよ、とばかりに私はそのなかに飛び込んだ。

 底は思った以上に浅く――脇から、狭い暗渠あんきょへと通じていた。私は必死に、その四つん這いにならなければ通れないほどのを進む桑雨の背を追った。ここで彼女を見失うわけにはいかない。苦痛だった暗渠を抜けると――打って変わって、私の背丈の何倍もの高さにある天井、私が何人横に並んで腕を広げても余裕であろう広さの――膨大な空間に出迎えられた。

 どこからか、水音が響いてくる。

 アル・カーヒラには、古代のもの、遺失文明時代のもの、誰にもその全貌がわからないくらいたくさんの地下水路カナートが存在するという話を聞いたことがある。その大半は現在利用されておらず、枯れ果てているとも。

 私たちが飛びこんだのは、そのひとつのようだった。

「……すごい。あんなごみごみした町中の下に、こんなものがあるなんて……」

 スカートや手足の泥を払い、私は非常灯の光に照らされる空間を見渡した。

 ――さすがに、こんな場所であれば、クラエスもすぐに追ってくるということはないだろう。どきどきと早鐘を打ち続ける胸を押さえ、気を落ち着かせるために深呼吸をする。地下水路は枯れていたが、肌寒く、湿気があった。

 気が付けば、桑雨の背もずいぶん離れたところにあった。

 彼女はずいぶん早足で、しかも迷いなくこの摩訶不思議な道を進んでいる。このあたりに詳しいに違いなかった。

 彼女に置いていかれたならば、私はすぐに迷ってしまうだろう。

「――ねえ、桑雨」

 その高い背まで走り寄り、私は声をかけた。

「どうしてここまでして私を助けてくれるの?」

 ふと口をついたのは素朴な疑問だった。

 ――軍人という権威に盾ついてまで、彼女は私を助けようとしてくれた。その行動は純粋に頼もしく、ありがたかった。私の同級生たちとは大違い――けれどもふとした瞬間に不安をおぼえたのは、私の悪い癖だろうか。

「――桑雨?」

 振り返って、彼女は私の腕を掴んだ。

 そのまま、無言で前をむく。腕を掴む手の強さに、私は眉根を寄せた。彼女の骨ばった指が、私の二の腕に食い込んでいた。

「痛いわ、桑雨。離して」

「……ねえ、ユリアナ。君は『ロストコーナー』を知っている?」

 私の問いに答えるかわりに、突拍子もなく、桑雨は言い放った。

「急に何? ――属領のことでしょう」

「そうだね。帝国の侵略政策によって、征服された土地のことだ。それを示す名を奪われ、言語と文化を侵される。やがては誰もがその土地が『その土地』であったことを忘れてしまうから、忘れられた土地ロストコーナーと呼ばれる」

 地下水路に、ふたり分の足音と声はよく響いた。

 壁で等間隔に灯る非常灯のオレンジの明かりが、ぼんやりと、彼女の少年っぽい肉体を照らしていた。墨色のまつげを伏せた桑雨は、じろりと暗い行き先を睨む。ぽつぽつと置かれた非常灯はよるべなく光り、ある場所からはそれも途絶え、長い暗闇が続いていた。

「帝国――そして属領には、ロストコーナーの奪還と独立を目的とした組織が複数ある。難民解放戦線を知っている? 彼らは比較的新しい組織でね。――」

 ふと、明かりが消えた場所――前方から複数の足音が響いた。

 立ち止まった桑雨サンウの横顔を、私は弾かれたように仰ぎみる――と同時に、底冷えのするような寒さを感じた。

「………君のその『義足』は、アラクセス紛争で、人々が血眼になって奪い合ったものの象徴だ。まさかとは思ったけれども、そんな特徴的な足、ふたつとない……」

 私たちは複数の男たちに取り囲まれていた。粗末な長衣フスターンを身につけた彼らは、一見すれば市井の者と何もかわらない。

 かわるとすれば――それぞれが手に得物を持っているくらいだ。

 ――どうして、と声もなく私は訴える。

「残念ながら、僕はとても悪い人間だったんだ」

 桑雨は世間話をするように私に言った。その声の軽さに、一瞬、事の重大さをのみこみきれない。

 彼女ははなから私の答えには期待していないらしく、やつぎばやに言葉を続けた。

「彼らがその難民解放戦線のメンバー――の一部さ。端的にいえば、テロリスト……それも過激なね。あっ、そんな怖い目で見ないでよ。君たちのことはよく理解しているつもりだよ、これでも」

 桑雨はおどけたように周囲の男達に言う。そして私を振り返ると、白い歯を覗かせて、いたずらっぽくほほ笑んだのだった。

「ああ、ユリアナ。君がファランドールの名を冠していなければ――あるいはその足を持っていなければ、僕ももうすこし善良にふるまえたんだよ。……一応言っておくけど、嘘は言ってないんだよ。難民解放戦線は、このあたりを仕切るならずシュッタールと取引のある移民ブローカーを兼ねている。ちょっとだけ違法の――ああ、そう、騙して拉致した移民の臓器を売って活動資金を得ているような代物だけどね」

 彼女の飄々とした声音が、地下水路を寒々しく反響した。私はこちらを値踏みするようにみつめてくる男たちから、顔を背けることもできず――唇を噛みしめたのだった。

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