(7)桑雨という少女

 ――思った以上に、うまくいってしまった。

 最大の懸念点であったクラエスが押し入ってくることもなく、私は裏通りに面した窓から外へと脱出した。錆びた排水管を足場として壁を伝い降りるのには難儀したが、その間もキナアが私を探しにくることもなく――地面に両足がついた瞬間、私は弾かれたように薄暮に暗く沈んだ道を疾走した。

 そして気がついたら、まったく見知らぬ路地に迷い込んでいた。アル・カーヒラの酷暑も日が落ちるにしたがって和らぎ、いまは冴え冴えと冷たい風が吹き抜けるばかり。砂埃がこびりついた壁に挟まれた空には、蜜色の三日月が姿を現していた。

 ズキズキとした痛みを腰や背中に感じて、私はそこでいったん足を止めた。狭い路地の壁によりかかり、乱れた呼吸を整える。

 勢い余って出てきたものの、当然、行く当てはなかった。しかしこのままでは首都に連行されていたことを考えれば――今の状況を前向きに考えなくてはいけないだろう。

「――――」

 皇帝直属軍イェニチェリがどれほどの影響力をもつ組織なのかは知らないが――砂漠バーディヤに出るよりは町中に居たほうがいいかもしれない。しかし身を隠すにしても、金銭の持ち合わせはないし、生活手段があるわけでもない。

 いったい、どうしたら? 苦悩にふけっていた私は、そのとき、はじかれたように顔を上げた。誰かの手が肩に触れたのだ。

「あっ、やっと気が付いた。君、さっきから声をかけても気が付かないんだもの」

 ――響いたのは、甲高い、女の声だった。

 私は目を見開いた。気がつけば、私の正面にはひとりの若い女が立っていた。ずいぶん、背が高い。暗闇のなか、目深に外套ミシュラハのフードをかぶった彼女の容貌はわからないが、訛りひとつない綺麗な公用アラビア語を使っていた。

「ねえ、こんなところで何をしているの? みたところ……制服かな? 良いお洋服を着ているけれど――こんな路地にいたら危ないよ。このあたりは、ならず者シュッタールの縄張りだからね。誘拐されたくなければ、さっさとお家に帰ったほうがいい」

「――あなたには関係ないわ」

 突っぱねようとする私を、その娘は強引に路地の外まで引っ張り出した。くずれかけた石畳の粗悪な道だったが、月の光が届くおかげで、路地と比べればずいぶん明るい。

 冷たい風が吹き上げ、外套のフードが外れる。月明かりのもとで、私の腕を掴んで離そうとしない娘の顔があらわになった。

 黒い前髪は長く、襟足は短い。浅いみどり色の目。凹凸のすくない顔立ちはあどけなく、少年っぽさがあった。――純粋な帝国人、ではないだろう。おそらく。

「お家はどこ? それとも宿かな。迷っちゃったなら、僕が連れて行ってあげるよ」

「……結構よ」

「どうして?」

 間髪入れずに問いかけてきた彼女を、私は睨みつけた。

「逃げてきたのよ。だから私にはかまわないでちょうだい」

「……参考までに聞くけど、何から?」

「帝国軍よ。謂れのない罪を着せられたの」

 すると彼女は黒い目を細めて、へえ、と口もとをゆがめた。なにかを思案するそぶりに、私は唾を飲み込む。

 ――見知らぬ人間に、喋りすぎたかもしれない。

 次の瞬間、彼女の顔はぱっと顔を輝かせた。

「だったら僕が君を助けてあげようか。こうみえて、このあたりには知り合いが多いし――」

 私の手を取り、あっけらかんと言ってのけた彼女は屈託のない笑みを浮かべている。あっけにとられた私の困惑を感じとったのか、矢継ぎ早に言葉がくりだされた。

「まあまあ、安心して。そんなに悪い真似はしないよ。僕は帝国軍が嫌いでね――まっ、大多数の人間がそうだろうけど。それに君……義足かな? おそらく最近はメンテナンスを怠っていて、あまり調子がよくないね。 ああ、成長期のせいかな」

「……どうして」

「みればわかるよ、右足と左足で足音がまったく違うもの。それに、僕は医学生だからね。義足はカーボン製ではない? なにか一般的でない金属かな、生身のほうの足とは明らかに重さが違うね。歩きにくくないの?」

 そこまで言われて、私は彼女の身につけた外套の正体に気がついた。金糸で縁取られた純白のローブ――胸もとには『ハシバミの実』をモチーフとした校章。

「自己紹介をしようか。僕は桑雨サンウ。見た目は属領系だけど、れっきとした帝国人さ。今はアズハル高等学院医学科に通っている。住まいはこのあたりで、最近一七歳になったばかり」

 さきほどの指摘からも、彼女の言葉が騙りであるとは思えなかった。アル・カーヒラ――ひいては帝国一の高等教育機関であるアズハル高等学院は飛び級を許容しているが、そのなかでも医学科は工学科と並ぶ難関だ。

 その難関を私と同い年くらいの少女が突破して、こうして目の前に立っている。

 驚きを隠しきれない私に対して、桑雨サンウは再度質問をした。

「それで、どうするの? 君みたいな世間知らずそうな女の子が、このまま帝国軍から逃げおおせられるとは思えないんだけど。やつらは悪魔さ――悪魔に魂を売った極悪非道の集団さ。捕まれば最後、君という命はにぎり潰されておしまい。

 ……観念して僕の手を借りてみる?」

 ――それは、あまりに甘美な誘い。

 桑雨という少女が信頼に値するのかはかりかね、同時に、その手にすがりつきたいと思う自分がいる。頭をぎったのは、学院での一幕だ。帝国軍人に連れられた私をみて、そそくさと去っていった級友たち――誰も助けてくれなかった私に、今、目の前の少女が手を差し出している。

 気が付けば、次の瞬間、私はその手を握り返していた。

「お願いするわ。私はユリアナ――ユリアナ・ファランドール。どうか私が逃げるのを手伝って」

「……ファランドール?」

 片眉を跳ね上げ、しかし桑雨はすぐに私の手を握り返した。


 ――ひとまずは僕の借り部屋アパートにおいでよと言われて、私はすなおに彼女の誘いに甘えた。桑雨は複数の路地を抜けた先にある、小さな長屋に暮らしていた。中心域から離れたその街区は、属領系の人間を多く見かけ、ごみごみと小さな家々が所狭しと並んでいるようなところだった。

 桑雨の部屋には、本と、必要最低限の日用品しかなかった。なんとなしに戸棚の上に置かれた写真をみれば、彼女とよく似た面立ちの青年が映っている。

「それは僕の兄。技術工エンジニアだったんだけど、アラクセス紛争に駆り出されて、そのときのごたごたで死んじゃった。ちょうど――十年前になるかな」

「……ずいぶん年が離れているのね」

「一回り以上は違うよ。……シャワーを浴びる、ユリアナ? きみってずいぶん汚れている」

 その言葉に、私は「いいの?」と食い気味に返事をした――ずっと、砂漠を旅させられていたときから、水浴びをしたくてたまらなかったのだ。このあたりはサウナ式の公衆浴場ハンマームが主流なので、シャワーを浴びられる機会があるとは思わなかった。

 桑雨サンウは「この家、なかなか湯が出ないんだけどね」と笑いながら言って、バスタオルを投げ渡した。

 礼を言って、私は隣の浴室に入った。バスタオルを曇り硝子の扉にかけ、服と靴を脱いで洗面台の椅子に引っかける。

 そして全裸になったところで、私は鏡に自分のからだを映した。――そこには、年相応といってもいいだろう娘の姿がある。

 自分のからだをまじまじと観察する趣味はないが、傷を確認しなくてはいけない。キナアに言ったことも、嘘ではない。体のあちこちに細かい切り傷があり、くるりと振り返ってみれば、背中や腰のあたりには目を背けたくなるような大きな青痣があった。陥没穴シンクホールに落ちたときにできた傷もあれば、クラエスになじられた際の傷もあった。

 あとで湿布か何かないか聞いてみないといけない。そう思って、私はシャワーのコックをひねった。湯にしたつもりだったが、設備が古いのだろう、降りかかってきたのは冷水で、まるで暖まる気配がない。

 むしろ、冷たいくらいがちょうどいいのかもしれない。そうでなくては、冷静に物を考えられなくなってしまう。私の道は前途多難なのだから、現状をちゃんと分析して、今後のことを考えなくてはいけない身の上なのだ。

 ほんとうに桑雨サンウは信頼できる人間なのだろうか? 私はちゃんと逃げ出せたのだろうか? ほんとうは今この瞬間にも、クラエスはこの家の扉を叩こうとしているのかもしれない……。

 しかし一度思考の蓋をゆるめてみれば、押し寄せてくるのは不安ばかりだった。

 徐々にからだに浴びせられる水がぬくもってゆく。激しい水音のなか、私は唇を噛みしめた。水が傷に滲みる。しかしその痛みからだけでなく、私はタイル敷の床にへたり込んだ。

 ――私は、ひとりになってしまったのだ。

 ふと頭に浮かんだことばが、私の体から力を抜いた。

 私はまた、あの女学院に戻れるのだろうか。

 私の『これから』は希望にあふれていたはずだった。けれどもいつからだろう。こうなる前から――私は級友たちと机を並べながらも、彼女たちのように未来を思い描けなくなっていた。それがいつからの話なのか、あるいは最初からなのか。私と彼女たちの間に横たわる『溝』がそうさせるのか、もっと別の理由なのか。

 それでもすくなくとも、私はバラドと一緒にいる時間が好きで、ずっと彼を目指していた。その彼が、今はいちばん遠く感じられる。

 ひんやりと冷たい床に座りこんだ私に、温水が降り注ぐ。からだにこびりついた砂を全部洗い落してほしい。

 そしてできれば、この嘘みたいな現実もはぎとってほしかった。


 ◆


「――痛っ、」

「我慢してよ。これでも僕は優しいほうなの」

 寝台にうつ伏せになった私に消毒用のアルコールをふりかけながら、桑雨サンウが言う。

「気をまぎらわせる? 君の話をしてよ、ユリアナ。どうも君の帝国軍に追われているとかっていう話。そう猶予があるように思えないからさ」

 私は枕を両腕で抱え込みながら、彼女の『処置』に耐えていた。その言葉にうなずくと――迷った末、要点をかいつまんで答えることにした。

 ある日突然帝国軍の青年がやってきたこと、そして私に謀反の共謀罪の容疑がかかっていること。問答無用で帝都に連行されそうになり、アル・カーヒラにはその道中で立ち寄ったこと。

「礼状は確認したの?」

「そういえば、してないわ。そんな余裕がなくて……」

「やつらの常とう手段だね。いくら帝国軍とはいえども、礼状なしに容疑者を連行することはできない。それに皇帝直属軍イェニチェリは警察まがいの真似はしないよ。あいつらの『現場』は戦場、普段の仕事は諜報と暗殺。十中八九、君にかけられた容疑は嘘。おそらく裏に何かがある」

「……ねえ、皇帝直属軍イェニチェリってそんなにすごいの?」

 私の腰に湿布をあてがい、ハサミで大きさを整えながら、桑雨はそうだねえ、とうなずく。

「風の噂だから話半分でね? 僕も本物に会ったことはないし――でも、一部の界隈じゃ有名なんだ。属領出身の連中を集めて、幼い頃から教育するの。皇帝の私兵としてね。そこに属する誰もが多方面に秀でた能力を持ってるとか」

「でも、見た目は普通の軍人と変わらなかったわ」

「簡単だよ。外套マントの裏側に紋章が。悪竜ヴィシャップ――怪物のね」

「会ったこともないのに知っているの? たしかに竜の紋章はあったわ」

 じゃあ噂はほんとうなんだ、と桑雨は言った。そして私の肩を叩くと、次はこっち、と右足に触れる。

「まあ、考えても仕方ないよ。正直、このまま巻き込まれていいことがあるとは思えない。帝国軍ってのはそれくらいきな臭い連中だ。――僕が知り合いに頼んであげる。このあたりを仕切ってるならず者シュッタールの組織が、移民ブローカーを兼ねていてね。国外へ逃してくれるかも」

「そんなことができるの?」

 私は弾かれたように頭をもたげ、少女の目をみた。

「ま、いろいろ貸しがあるからね――僕の仕事は手広いんだ。はい、次は足を見せて」

 私は身を起こし、寝台に腰かけた。その前に跪いた桑雨サンウが右足の裏に手を回し、人工皮膚のカバーをはぎ取っていく。

 思えば、私はこの義足のために医者にかかったことはない。足の面倒をみていたのはバラドだけで、人工皮膚なしに、他人に見せたことはなかった。

 立てつけの悪い窓から、冷たい夜風が吹き込む。下着姿のままの私は、すこしの肌寒さを感じた。

「――どうして義足に? 聞かないほうがいい?」

「……アラクセス紛争よ」

 顔を伏せ、私はそれだけを答えた。桑雨サンウはふうん、とさして興味もなさそうに言う。

 ――私の右足は、生身ではない。幼い頃、アラクセス紛争で失ったのだ。

「そのとき足をくれたひとが、私の後見人になったの」

 敷布シーツを両手で握りしめて、私は小さな声で続けた。

「それで運よく帝国人に。『紋』がないから、戸籍を偽装するのは簡単だった」

「属領出身なのに、『紋』がないの?」

「右足にあったから……」

 そういうこと、と桑雨はうなずいた。彼女が純粋な帝国人らしくない容貌をしているせいか――あるいは同い年くらいの少女であるという気安さからか、私はぺらぺらと自分の生い立ちについて喋ってしまっていた。

 人工皮膚のカバーをすべて外すと、その下にあるのはまがいものの足だ。

 七色にきらめく透明なプリズムの表面――流れるような曲線を描く人工義足は、複雑な内部構造を映し出している。私の『義足』だ。

「これは……」

 桑雨は息を呑んだ。私の右足に触れ、黒い目をすがめる。

「……ほんとうに『くれた』の? これを?」

「……そうよ。そんなに珍しいの?」

「これは軍事用の義足だよ。――それも、遺失技術ロストテクノロジーの結晶といってもいいような代物だ」

「よくわからないけど……あなた、詳しいのね。桑雨」

 桑雨は私の顔を見上げた。その顔からは笑みが消えている。

「今は無い、さる国の科学アカデミーが軍部との共同研究で開発したものだよ。身体芸術プログラムといって、骨肉腫で片足を切断したダンサーのために、ある工科大学の教授が『踊るための』足を作ろうとしたのを始まりとしてね。

 これは国家予算を投じて作られながらも、凍結された計画の成果物だ。……すくなくとも、属領の、〝かわいそうな〟子どもにあげるような代物ではない」

 ‪僕ではメンテナンスもできないよ、と言って、彼女は肩を竦めた。

 私は目を見開いて、自分の足を撫でた。

 それはひんやりとして、光源がない場所でもキラキラと光を放っている。幼い頃は、宝石のようだと喜んだものだった。

 ――この足があれば、どこまでも走っていける。

 頭に、バラドの声がぎった。私は彼の顔を思い出そうとして、それがずいぶん遠く懐かしいものであるかのように、上手に思い浮かべることができないのだった。

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