(5)陥没穴《シンクホール》の底にて


 とっさに身を乗り出して、穴の外へ出ようとした手が掴んだのは、けるように熱い砂の塊だった。足場とともにそれも水のように砕け、私は穴の底へと流れゆく砂に呑み込まれていった。

 ――苦しい。

 たとえこれが水のなかであれば、もっと自由が効いただろう。しかし私が落ちたのは、地下空洞へと注ぐ砂の海だった。太陽に焼かれた砂のつぶては私の身へ重くのしかかり、衣服の隙間という隙間から侵入しては肌をきり裂き、火傷しかねない熱で全身を覆ってゆく。まるで地獄の業火へ投げ込まれた気分だ。

 私は必死になって頭上に腕に伸ばした。両の腕のつけ根がもげそうなくらいに痛くなっても、指先が掴むのは砂かくうだけ。ほとんど顎先まで砂に浸り、空は遠ざかってゆく。這い上がるどころか、からだは沈む一方――そしてついに地上が見えなくなった。

 ――怖い。

 砂のなかで息苦しさに耐えかね、酸素をもとめて大きく口を開いた――それが間違いだった。極端に細かい砂は大した抵抗もなく、ザア、と勢いよく私の口のなかにまで押し寄せてきた。吐き出すこともかなわず、私は身もだえた。ひとつひとつの砂は小さくとも、それが多量にまとまってしまえばひとたまりもない。まるで溶岩をまるごと喉奥に押し込まれるような痛みと熱を感じる。

 ――もしかして、このまま死ぬのだろうか?

 閉じた瞼の隙間にも砂は押し入った。

 私は徐々にかすむ意識のなかで、死神の鎌がいまにもきらめこうとする瞬間を目にする。


 こんなところで――――。


 ――暗闇に閉ざされていた視界が、まばゆく点滅した。

 その瞬間、私は横隔膜のあたりに強い衝撃を受けた。と同時に、喉の奥からなにかの塊を吐き出した――――砂だった。

 さらに数度腹部を突き上げられた。私は何度も嗚咽を漏らしながら、砂で粘膜が切れたのだろう――唾液の混じった血とともに数回に分けて多量の砂を吐きだすはめになった。それが落ち着いて、ようやく思う存分に呼吸ができる頃になってはじめて、全身のズキズキとした痛みを感じはじめた。さらに遅れて、私は自分が背後から何者かに抱きかかえられていることに気がついたのだった。

「――まったく、世話の焼ける娘ですね」

 頭上に、そのひとの声が降りかかる――私がそれを認識するよりも先に、ぐい、と顎を掴まれた。首をひねった私の傷ついた唇に、なにかやわらかいものが重なる。かすかに、清潔な石鹸が香った。

 唇を割って、生暖かい水が流れこんできた。何度か間を置いて私の口にもたらされる水が、誰かによって与えられていることに気がついたとき、あたたかな物体は離れていった。

「うがいをしなさい。喉と、鼻の奥まできっちりとね」

 そう耳元で囁かれて、私の顔は火を噴いたように赤くなったに違いなかった。――それくらい、一気に体温が上がった。クラエスは「ご無事でなにより」と冷淡に言い放って、私と彼の絡んだ黒髪と金髪をほどいて立ち上がった。

 黒い外套についた砂を払い、にこりともせず私を見下ろす。

 私は砂の積もった地面に座りこんだまま、呆然とその顔をながめ――ふいに投げ渡された水袋を、あわてて両手で受け取った。

「いくらあなたが砂を飲む趣味があるとはいっても、このあたりの砂はおすすめできませんね。ほとんど微細で鋭利な鉱物といっていいのだから」

 私はどぎまぎとしながら水袋に口をつけた。彼に背をむけると、生ぬるい、しかし清潔な水で何度かうがいをして、ついでに鼻のなかまで洗ってしまう。

 そこまでして、ようやく自分の状況を把握するに至った。地上にいるのかと思ったが、ここは陥没穴シンクホールの底だった。赤く隆起した砂肌にはキラキラとした乳白色の鉱物が見え隠れし、四方を囲む壁の上には青い空がある。

 あの悪夢のような流砂は落ち切ったのか、すべて私の下敷きになっていた。

「おそらくは岩塩鉱床の掘削でできたものでしょうね。ここも昔は海だったと聞きますし、塩がとれるんです。まあ、このあたりは人の通り道だし、当然認可はされていないので違法なものでしょうが……」

「……あなたが私を助けたの?」

 からになった水袋を投げ返して、私はそう問いかけた。クラエスは砂の壁に背を預け、ぼんやりと空を眺めているところだった。

「そうだと言ったら?」

「……物好きね、って返すわ。あなたは私に自分の立場をわきまえろと言ったくせに、こうやって助けたんだもの。あなたの言い分じゃ、私に助ける価値や利益なんて、これっぽっちもないみたいだったのに」

 かぶりを振って、砂を払い落そうとする。そうでなくとも全身が砂と傷まみれで、ひどく不愉快だった。できることならばシャワーを浴びたいし、いくら砂漠バーディヤの砂は高温にさらされて清潔だという話があったとしても、消毒だってしなくちゃだろう。

「……ばかみたい」

 自分の身に降りかかった災難に苛立つ私は、怒りをそのまま、眼前の男にむけたのだった。元はと言えば、この男のせいに違いないのだから、かまわないと思ったのだ。――この男がすべての災難の元凶なのだ。

「……そうですね。私はあなたを帝都まで連れて行く役割がありますが、たしかに、あなたのような小娘がひとり死んで、それを見捨てたところで、たいしたお咎めはないでしょうね」

 形のよい眉をはねあげ、クラエスはやはり淡々と喋った。胸もとで組んでいた腕を解くと、おもむろに、脇に装着したホルスターから拳銃を抜く。

 そしてその黒光りをする銃口を、座り込む私にむけた。

「すくなくとも、今はすこし後悔していますね。命の恩人に対して、あなたは随分失礼な態度を取る。礼も言えないなんて、どんな教育をされてきたのか」

「――あなたこそ、恩着せがましい男ね。私がいつ、助けてほしいって言ったの? 確かに、いまはあなたのおかげで命拾いをしたわ。そう、礼が欲しいならいくらでも言ってあげるわ。ありがとうってね。――でも、そもそもの元凶はあなたなのよ」

「賢い娘かと思っていましたが、その考えを改めなければいけないようですね。あなたは力関係というものを理解していない。もうすこし年相応に――あるいは媚びを売るくらいのしたたかさがあれば、世渡りもしやすいでしょうに……」

 ――その瞬間、乾いた発砲音が砂漠の静寂を切り裂いた。

 どこかで鳥が大きく羽ばたき、鳴き声を響かせた。

 クラエスの銃口が白い煙をたなびかせる――彼は溜息をついて肩を竦めると、拳銃をもとの位置に仕舞った。

 私は動じていないようなふりをして、ゆっくりと肩の力を抜いた――私のすぐ横の砂を抉った弾丸を、視界の隅にいれる。そしてひそかに、指先を震わせた。

「それは先端をナイフで削ったものでね――先を鋭利にすることで強度が下がって、対象の肉体のなかで砕けてとどまり、その分殺傷力が高まるんですよ」

「……べつに聞いてないわ、そんなこと」

「食らっていたら死んでいた。私があなたを殺さないという選択をしたから、あなたは生きている。くだらないことだけれども、教えて差し上げますよ、ユリアナ。あなたは今、自分の力で生きているのではない。他者のあらゆる取捨選択の末に、たまたま生かされているだけ。――それが今の状況だと、おわかりではない?」

 反論の余地は残さないとでもいうふうに、クラエスは頭上へと視線をむけ、キナアを呼んだ。

 どこかで待機していたのか、黒い鎧兜の男が穴のふちから顔を覗かせる。

 すると私たちのいる穴底まで、するすると縄はしごが落ちてきた。

「さあ、行きますよ。そろそろ日が落ちる。夜にはアル・カーヒラに着く」

 縄はしごを掴んだクラエスが、慇懃に手を差し出した。その真っ白な手を視界にいれた瞬間、どうしてか――ひどくみじめなきもちを味わされた。

 ――生かされている。

 それは、平穏無事に暮らしてきた私にとって、背後から突然殴られたかのような、強い衝撃を与えた。同時に、ひどい悔しさややり切れなさをもたらしたのだった。

 私はこの手を掴まなければ、地上へは上がれないのだ。私ひとりの力ではこの砂壁はのぼれないし、機転を利かせて脱出する方法だって編みだすことはできない。つまり、クラエスの言葉と行動は――今のこの瞬間の、私のプライドを傷つけるには十分だった。

(――腹が立つ)

 拳を握りしめ、きつく唇を噛む。

 たしかに、彼のいうとおり、もうすこし年頃の娘らしく素直であれば――あるいはもっと器用であれば、この男の態度は和らいでいたかもしれないし、こんなにみじめな目にも遭わなくて済んだのかもしれない。

 暗澹としたきもちを一度大きく頭を振ってぬぐいさると、私は諦めてクラエスの手を取った。節くれだち、細かい傷があって――表面の皮膚が石のように硬くなった男の手だ。ほんのすこしだけ、バラドの手と似ていた。


 ◆


 薄暗くなってゆく空を、ゆっくりと鳥が旋回している。

 すぐにどこかに行くかと思ったその鳥は、しかし何を思ったのか私たちのはるか頭上に滞空し続けていた。前日と同じように私の背後で馬の手綱を握るクラエスが、目を凝らしてそれを識別する。

「ハヤブサですね。鷹狩り用でしょうか」

 濃い灰と白の斑になった両翼を広げ、ハヤブサは滑空する。飼い主の下に戻ってゆくのだろう。そのままどこかに消えて行く姿を、私は目を細めて見送った。


 ――その日の夜中、私たちは砂上都市アル・カーヒラに到着した。

 

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