(4)私が女ってこと忘れてる?

 その後もクラエスにはいろいろと問いただしてみたものの、胡散臭い笑みで煙に巻かれる一方で、望むような回答を得ることはできなかった。ふたたび馬に揺られて数時間、疲労を感じた私がうつらうつらと船を漕ぎはじめたころ、ふいにクラエスは馬の歩みを止めた。

 まさか、怒られるのだろうか――彼のを目にしたばかりの私は、我に返って、馬上で身を強張らせた。

「――そろそろ夜が明ける。日が昇る前に休息を取りましょう」

 しかし淡々とした口調でそう指示されただけで、お咎めが飛んでくることはなかった。早々に馬を降りて荷を卸しにかかった彼を横目に、私は乗ったとき同様、キナアの手を借りて砂地へと降り立った。

「あなたって何も喋らないの? ――喋れないの?」

 薄明かりを照り返す大きな鎧兜を見上げて、私は問いかけた。その巨体は一拍置いてうなずきを返す。

「そうなの」

 不便ね、とか――不都合だとか、こういうときに他の人ならば返すのかもしれないが、私は言葉少なにうなずくしかできなかった。

「話してないで手伝ってください。私は気が短いんですよ」

 苛立ちをにじませた声に振り返れば、両腕に荷を抱えたクラエスの姿がある。

 彼は適当な岩陰を選ぶと、馬から卸したテント道具一式を運ぶように言った。これから日が昇れば、必然的に外気温も高くなる。暑さで身動きがとれなくなる前に用意してしまうつもりなのだろう。このあたりの砂漠バーディヤは夜こそ涼しいものの、昼の酷暑は想像を絶する。馬での移動は避けたいのかもしれなかった。

 断熱性の高いヤギ毛を密に織った布を金属の支柱で固定して天蓋をつくると、砂の上に敷物を広げる。このあたりでは一般的な移動式の簡易テントだ。テント部分にくる布にはご丁寧にも帝国ハディージャ軍の紋章が織り込まれていて、こういうのも支給品になるものかと私はぼんやりと考えた。

「――お嬢様のお口に合うかはわかりませんが」

 テントのなかでようやく腰を落ち着けた私に、クラエスが差し出したのは粗末な携帯食料だった。

「……お嬢様でもなんでもないわよ」

 ――そういえば、昨日の昼から何も食べていない。

 それどころではなかったから忘れていただけで、私だって当然お腹はすく。今更のように空腹を感じ、同時にこみあげる疲労に全身から力が抜けた。しばらくこの場から立ち上がりたくない。

 クラエスから受け取った携帯食料を眺めてみる。何かを油脂で固めたものなのか――とりあえず口に含んでみたが、無味乾燥としていて食事という気がしない。

「日没には行動を再開します。夜中にはアル・カーヒラに到着するでしょう。それまでは休んでいてください。――ちょこまかされるだけ迷惑ですからね」

 もごもごと食糧を咀嚼する私と、目も合わさずにクラエスは言う。「私とキナアが交代で見張りをしますので」つけたされた言葉に、思わず肩を落としかけ――その瞬間、目に映ったものに思わず口のなかのものが出そうになる。

「ちょっと! ここで着替えないでくれる?」

 お世辞にも広いとは言えない天幕テントのなかで、クラエスがおもむろに軍服の外套と上衣を脱ぎはじめる。私が声を張り上げたときにはもう、ネクタイを緩めて、その下の襯衣シャツがはだけそうになっていた。赤褐色の汚れがまだらに残る襯衣シャツから覗いた首と、鎖骨――それが眩しいくらいに白い。

「うるさい娘ですね。血で汚れて、うっとうしいんですよ」

「……せめて隅でやってよ」

「見たくないなら、あなたが見なければいいだけの話でしょう」

 持ち込んでいた背嚢から替えの襯衣シャツを出したクラエスの背にむかって、それもそうね――と、なんだか悔しい気分になりながらもうなずく。しかし昨晩、あれほどのを繰り広げて、彼はほんとうに傷ひとつ負わなかったのだろうか。そのことが気にかかって、チラチラとその背中を観察してしまう。

「――変態」

 するとクラエスは顔だけで振り返り、唇を尖らせて悪態をついた。

 淡青色の目が、いたずらっぽく細められて――私はぶんぶんと頭を左右に振って、彼に背を向けた。

 しかしその一瞬で、彼の背中が目に焼き付く出来事があった。無駄なところのないしなやかな体つき――そして脱ぎ落とした襯衣シャツの下にも真っ白な肌があるのかと思えば、ひどくみにくい傷痕を見つけてしまったのだ。

 新しいものではない。ひとめ見て、古いものだとわかる。

 私は思わず胸のあたりを押さえて、唇を引き結んだ。

 ――あれは、焼き印だ。

 それも、ひとつではない。私の目に飛び込んだのは、彼の軍服にもあった『竜』をかたどった焼き印だった。それが右の肩甲骨にある。そしてそれに並ぶように、もうひとつ、焼き印があった。『竜』のものよりもずいぶん古い――一瞬のことで、視認することはできなかったが。

 ――まさか、《紋》だろうか?

 頭の片隅にそんな考えが過ぎったとき、着替え終わったクラエスが立ち上がった。入れ替わるようにキナアが中に入ってくる。彼は相変わらず黒い甲冑姿で、テントのなかでも外套さえ脱ごうとしなかった。もうしばらくすれば外気温が体温を超える――全身を服で隠すほうが涼しくなるといえども限度があるだろう。

 彼の装いは暑苦しいことこの上なかった。

「――兜も脱がないの?」

「彼は全身にひどい火傷を負っているんですよ。アラクセス紛争の生還者で――とても見れたものではない。貴方であれば卒倒するに違いないでしょうね」

「……そんな言い方」

 クラエスは振り返り、皮肉げに笑った。眉根を寄せた私の反応を意にも介さず、肩を竦めて言葉を続ける。

「あれはひどい戦場だった。誰も彼もが死んだ。愛すべき隣人も何もなかった。私はまだ士官生だったので難を逃れましたが、あれが原因で軍役を退いたものも多い。あるいは癒えぬ傷を抱え、なおその場に踏みとどまるもの……」

 長い髪を背に払い、クラエスはテントを出て行った。

 私はその背を見送ることなく、隅で膝を抱えた。日陰となっている分、テントでは砂漠の暑さもいくらかやわらぐ。寄宿舎のベッドとはまったく違う、下に砂を敷いた感触。これもこれで中々気持ちがいいものだった。

 私は眠気に誘われるまま、とろとろと瞼を落とした。この状況でも、すこしくらい、休息をとっても許されるだろう――彼らは私を首都に連れていくといっているのだから、すぐに危害を加えてくることもあるまい。自分にとって都合のよいようにそう言い聞かせる。

 意識が蕩けてゆく中で、後見人バラドがどこからかやってきて、私を連れて去ってくれる想像が浮かんだ。しかしそれもすぐにかき消えて、意識は深い砂底へと沈んでいった。


 ――暗い空の下に立っている。

 生ぬるい風が吹き付けて、いざなわれるように振り返れば、そこには茫漠とした荒野バーディヤが広がっている。何かが積み重なっている。よくよく目を凝らせば、それは無数の白い骨だった。

 ひたひたと、足もとで水音が響く。深紅の液体が――なまぐさいにおいを放ちながら、まだ体温の残る水溜まりをつくっている。

 荒野の大地は見えなくなる。私は折り重なる屍の上にいる。吹き上げる風が、制服のスカートを膨らませ、長い髪を揺らす。

 私はまたたきひとつせずに、おのれの足場を見つめている。

 ともすれば、ガラガラと屍は崩れ……砂の粒子となり、その流砂のなかへと私は呑み込まれていって――。


「……っ」

 私は飛び起きた。はっきりと目を覚まして、じぶんがいる場所が変わらずテントの中であることを理解しても――胸の動悸はやまず、全身が震えていた。

 右足の付け根がズキズキと痛む。

 ――あれはなんだったのだろう。

 さきほど、クラエスのを目にしたせいだろうか? アレクサンドリアは名門女学院が建つだけはあり、比較的治安のいい街だ。首都やそのほかの土地ほど、『死』を目にする機会はないから? さきほどのあれは思い出すだけで身の毛のよだつ光景だったが――そのときとは異なるおそろしさのような気もする。

 痛む右足の根元に触れ、はいあがる恐怖をこらえようとした。それでも身を包むひどい寒気がなくならない。ほとんど何も考えずに、暖をもとめて外に飛び出した。まだ、日は高い。頭上では浩々と太陽が照っている。

 頭と顔を陽射しに焼かれ、そこで私は外套をはおってくるのを忘れたことに気がついた――その矢先、ばっと上から布をかぶせられ、目を見開いた。

 振り返ってその犯人を確かめれば、キナアの姿があった。

 彼の姿を目にしてはじめて、夢との境界が曖昧だった現実が明瞭クリアになってゆく。動悸が収まり、手足の震えも止まった。

「あ……」

 キナアはすぐに顔を背け、興味を無くしたように私から離れてしまった。その背を呆然と見送りかけ――ふと、思い起こして乾燥したくちびるを開く。

「太陽に食われてしまう?」

 ――その言い回しに、キナアは足を止めた。

「……ごめんなさい。私の後見人がよくそんなことを言っていたの。私がなんの日よけも身に着けずに外に出ようとするたび、今みたいに……」

 ふと我に返る。沈黙をとおす兜から、私はすぐに視線をそらした。

 ――気まずかった。思い出したからと言って、なんだというのだろう。きっと、変な娘だと思われたに違いなく、そのことが気恥ずかしかった。

 この先どう言ったものかと考えあぐねて、外套のフードを目深にかぶろうとしたそのときだった。

「――おや、どこへ行くのですか?」

 その声に顔を引きつらせる。背後から正面へと回り込んだクラエスが、私とキナアの間に立った。どこかに姿を消したものかと思っていたのだが、神出鬼没な男だった。

「よ、用を足そうと思ったのよ。別に逃げるつもりなんてないわ」

 ――とっさに口をついたのは、そんな言い訳だった。

「そうですか。ではついて行きましょう」

「……は? 何でついてくるのよ。逃げないって言っているでしょう」

「あなたは一度逃げようとしているし、信用度はゼロに等しいんです。おわかりでしょう? 私には監督責任というものもありますので」

 最悪だ。胡散臭いほほ笑みを浮かべる男を、私は睨んだ。

「いやに決まってるじゃない。大体、男とテントが一緒というだけで嫌なのよ。私が女ってこと忘れてるでしょう。それとも何? そういう趣味なの、あなたは」

「失礼な子どもですね。あなたのような乳臭いガキにこれっぽっちも興味はない。ユリアナ――あなたこそ、自分の立場をわきまえたらどうですか」

 拳を握りしめ、後ずさりかけたその瞬間――腹部に衝撃を受けて、私は砂地の上に倒れ込んだ。

 クラエスに蹴られたのだと理解したのは、一拍遅れて、彼が私のからだを踏みつけてからだった。靴底の硬さを感じたかと思えば、その先端を腹にねじこまれる。

 ギリギリと、容赦なく。しかし当の本人は悪戯っぽいほほ笑みさえ浮かべて。

「――――っ」

 私が熱砂の上で不格好にもがけば、クラエスは低い声で笑った。そして身を屈める。長い横髪が落ちてきて、そのやわらかい毛先が陽を反射してキラリと光った。

 彼は凍てつく笑みをむけた。足を離すかわりに、私の前髪を引っ掴み、その端正な顔を間近に寄せてきたのだった。

 上体をひきずり上げられ、衣服からむきだしになった手足の皮膚が熱砂に擦れた。そうしてむりやり顔を上向かせられた私の耳もとに――「あなたは罪人でしょう?」という囁きが吹き込まれる。蜜の滴るような、甘い声。同時に、はらわたが凍ると錯覚するほどに冷え込んだ声――逆光のなかで、淡青色の瞳が磨きぬいたナイフの輝きを放った。私はなによりも、その瞳がおそろしかった。

 どんな感情も読み取らせない、かすかなさざなみさえ浮かべることのない、硝子玉の目だ。

 その恐怖を振り払うように、私はけっして顔を背けず、その目をまっすぐに睨みすえた。男の水色の目に、じぶんの深い青の目が映り込むのをみる。

「まだ罪人じゃないわ……っ! 容疑者よ」

「……この状況でよくもまあふてぶてしい態度がとれますね。その点に関しては褒めてさしあげる。しかし……この国で一度泥をかぶせられた者がどうなるのか、――子どものあなたでも知らないわけじゃないでしょう?」

 私は唇を噛みしめた。「もうなにも覆せない」と言われているようで、ひどく悔しかったのだ。握りしめた拳から、ホロホロと熱い砂がこぼれ落ちる。ともすれば火傷をしそうな砂の熱さは忘れ、右足の付け根の痛みだけを感じていた。

 一度ぎゅっと目をつむると、激しくかぶりを振って、男の手を振り払おうとする。両手足を使って抵抗する。しかし髪が抜けるばかりなのに、むなしさが胸にこみあげる。じたばたともがく私は、あまりに不格好で、みじめだ。

 砂漠の砂を詰め込まれたように胃が、体が熱い。必死になってあらがい、それが反故にされるたびに、頭の中の整理がつかなくなってゆく。

 ――悔しい。

 それと同じくらい、自分がみじめで、そのことが悲しかった。どうしてこんな目に遭わなくてはいけないのだろう。「私は」何も悪いことをしていない。どうして今、自分よりも体が大きくて、ずっと強い人間に、いいように蹂躙されなくてはいけないのだろう……。そのことを考えると、心臓が押し潰され、体が引き裂かれそうだ。

「いやよ。私、自分で自分のことを諦めたりなんかしないわ。私はなんにも悪いことをしてないもの。バラドだって……きっと……」

 口をついて出た言葉さえ方向性を見失う――鼻をすすって、私は唇を噛んだ。

 瞬間、ゴミか何かを放るように砂の上に放りだされた。私は弾かれたように身を跳ね起こし、クラエスを睨みつけた。ぎりぎりまで目を見開いて、けっして、そのふちから涙がこぼれないようにこらえながら。

「あなたなんて嫌いよ――軍人なんて大っ嫌い。アラクセス紛争が何よ。あなたたちは奪うだけ奪って何もしないじゃない。属領がなんと呼ばれるのか知っているの!?」

「――属領ロストコーナー。名と歴史を奪われた忘れられた土地」

 そのとき、クラエスの顔を過ぎった影を――私はほとんど認めることがなかった。自分自身のことで手いっぱいだったからだ。腹に力をこめて、声をしぼり出す。

「その上今度は私から何を奪おうって言うの……こんなひどいいいがかりをつけて……」

 私は走り出した。

 クラエスとキナアに背をむけ、あてもなく砂漠のなかを駆ける。

 ただの小娘でしかない私の足では、すぐに追いつかれることが分かっていた――この後、きっとひどい目に遭うことも予想できたはずだった。しかし、頭の中が真っ白になってしまって、何も考えることができなかった。無我夢中になって、手足を動かした。何か決定的にこの状況を変えてくれるものを求めて――。

 我に返ったのは、ひときわ柔らかい砂を踏みしめたとき。それがくずれ落ち、陥没穴シンクホールに呑み込まれたと理解した瞬間だった。

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