(2)ひとりにして


 私は黒い兜の男――たしか、名前はキナアだ――の付き添いで、もとい『監視』のもと普段生活をしている寄宿舎へと戻った。

 すれ違う女子生徒たちは、帝国ハディージャ軍の紋章を背負う男を連れた私をみるなり、怪訝そうに顔を合わせ、ひそひそと小声で会話をしながらそれぞれの自室に引っ込んでいく。ガランとした廊下に取り残され、私はくちびるを噛んだ。

 私は特定の友人というものがいない。この女学院は帝国を生まれとする令嬢のための箱庭であり――自由な校風や雰囲気こそあれども、属領生まれの私と彼女たちの間には越えられない溝がある。

 彼女たちは、本来私の人生には必要のないものなのだ。そう自分に言い聞かせている。私が『ここ』にいるのは、早く大学まで行って、生活の糧を得て、自分の力で生きるという目標があるからなのだ。

 私は自室の扉を前にして、小さく息を吸い込んだ。

「ちょっと、部屋まで入ってくるつもり? 帝国軍人っていうのは、どこまでデリカシーがないのよ」

 ドアノブに手をかけ、背後の男を振り返った。キナアというこの人物はずいぶん大柄で、全身を黒い甲冑で包んでいる姿は巨大な影のようだ。ここまで一言も喋らず、一度もその声を聞いていないのも、彼の不気味さに拍車をかけている。

「別に逃げやしないわよ。逃げたって、どこにも行けるわけじゃないし……。荷物を取ってくるだけよ。あなたたちは知らないだろうけど――もともと、バラドと旅行に出るつもりで、準備はしてあるの。おあつらえ向きにね」

 見上げたキナアは、ちょうど後見人と同じくらいの背丈だ。バラドも大柄だった。――彼のことが思い起こされて胸が苦しくなる。

 バラドが国家反逆人だなんて――信じられない。

 足もとのドアマットに目を落とし、私は痛みをやり過ごすように唇を噛みしめた。――今は、ここで傷心している暇はない。

 しかしその態度に兜の男が明らかに動揺したのを見て、私の頭にある考えがひらめく。

「バラド……、どうして……」

 私が意図して肩を震わせれば、キナアはやはりうろたえた。

 軍というのは男社会だと聞いたことがあるし、若い娘に接するのに慣れていないのか。傷心の少女に同情せずにはいられないのか――どちらにせよ、都合がいいことだと思って、私はさらに深くうつむいた。

 長い髪で顔を覆い隠した下で、ちいさくほくそ笑む。

 もちろん、自分にかけられた疑惑も、後見人のことも、ショックだ。時間さえ許せば、私だってさめざめと泣いていたに違いない。でも今はその余裕がない。これは私の生命に関わる問題なのだから。

 卑小で、とるにたらない人間のひとりでしかないとは言っても、それでも私は失われるには惜しい人材である。――自分にとって。私が私を諦めてしまえば、誰も助けてはくれない。そういう矜持で生きている。

 こっそりと拳を握ると、「ひとりにしてほしいの」とか細い声を揺らす。

「すこしでいいから……ほんとうにすこしでいいのよ」

 ほとんど吐息のような声で囁き、私はおとがいを上げた。顔の前面を覆う、兜のむこう――その目のあたりを思われる部分を注視して、ほろりと涙を流す。

 すると、慌ててキナアがうなずいた。私はありがとう、と弱弱しい笑みを浮かべる。しおらしく……しおらしく、と念じながら。

 ここまではすこぶる順調である、と私はすばやく踵を返して自室に入った。後ろ手にバタンと音を立てて扉を閉めると、涙をぬぐい、勉強机の上に置いていた荷鞄を引っ掴んで寝台に投げる。

 椅子にかけていた薄手の外套ミシュラハを制服の上から羽織ると、行儀悪く寝台の上に飛び乗った。

 両手で窓をこじあければ、ふわりと冷たい風が頬を撫ぜる。

 日はほとんど落ちかけている。燃えがらのように空で瞬く陽の残照に目を凝らし、私は一瞬、強烈な不安に襲われた。

 けれどもそれにかかずらっている暇はないと、私はすぐに気持ちを切り替えた。ここは寄宿舎の二階だ。地上に視線をめぐらせ、他に軍人らしき姿がないことを確かめる。小娘であると、あなどっているのであれば好都合だ。

 宿舎の窓に寄りかかるようにして生えた木があるので、それを伝っていけば地上に降りられるだろうか。運動神経には自信がない――が、ないからといって、ここ以外の脱出経路はない。

 腹を決め、窓枠に足をかけたときだった。


 ――ここで、話は冒頭に戻る。


 足音が響いたかと思えば、部屋の扉が蹴破られ――背後を降り返ろうとした瞬間、私は力強く後ろ髪を引っ張られた。

 状況を把握する余裕もないまま、気がついたら板張りの床に引き倒されていた。肩甲骨のあいだに男の革靴の感触がある。ギチギチと、私の背骨を容赦なく圧迫していた。私は痛みに声もなく、床板を爪先でひっかくしかなかった。

「――まあ、こうなるとは思っていたのですが。血気盛んな娘ですね、貴方も」

 床上に転がされたまま、溜息をついたクラエスを睨みつける。ひきずりおろされた時に打った頭が痛い。左の膝もすり剥けているし、もう散々だ。

 この状況から抜け出すには――そう頭を巡らせた瞬間、後ろ手に腕をひねりあげられ、私はくぐもった声を上げた。

「荷物はこれだけですか。まあ、少ないに越したことはない。何事もね。あなたは思い残すことも少なそうだから羨ましいものだ。未練だってないんでしょう」

「どういう、意味よ……」

「いいえ? 言っておきますが、私は女子どもというものが総じて嫌いなんですよ。ついでに、を大量に所有してふんぞり返っているファランドール家もね。だから今度逃げ出そうとしたときは、いまみたいに穏便な方法はとれないかもしれません。……おわかりで?」

 私は拳を握りしめた。――どうやら泳がされていたらしいことを理解する。きっと、『』という失敗経験を私に植えつけたのだ。

 自尊心の高い人間ほど、一度の失敗があとにまで響く。今度同じことをしようとしたとき、失敗したという経験が頭にちらつくからだ。

 現に、私はこれ以上の反撃をできないでいる。

(……腹が立つ)

 頭を小突かれ、男の拘束から解放される。私は咳きこみながら、勉強机に腰かけた男を力強く睨みつけた。

 回転式拳銃を脇のホルスターにしまう男の腰には、立派な半月刀シャムシールが吊り下がっている。飾りではない――その柄を覆う布はすり切れて、手垢に汚れているのだから。

(ほんとうに、むかつく――)

 クラエスという男は、容貌こそ、年頃の少女が夢見るような繊細で優美なつくりをしていた。しかしそれに惑わされる私ではない。彼の淡青色の瞳は、冬の湖よりも深く凍てついている。私の胸に沸き起こるのは、当然、憧憬やときめきではない。

 ――怒りだ。

 苛立ちのままに、私はその美しい男を睨みすえる。しかし当の本人はどこ吹く風といったところで、鼻歌まじりにそのきれいな髪を指で梳いてすらいて、私はひどく悔しい気持ちになった。同時に、自分ではどうすることもできない状況に陥ったことを理解してしまって、奈落に落ちた心地だ。

 爪が食い込むほどに拳を握り、私は奥歯を噛みしめた。

(……まだきっと、どこかにこの状況を打開できる隙があるわ)

 そう自分に言い聞かせる。そうしないと、頭がおかしくなりそうだったから。

「これより砂上都市アル・カーヒラへとむかいます。砂漠の旅は小娘にはつらいものでしょうが、つべこべ言わずに付き合ってもらいますよ」

 クラエスが上げたのは近郊の都市だ。アレクサンドリアからほど近く、大河を下った先の砂漠のど真ん中にある。

「砂漠? 帝都に行くなら航路が一番手っ取り早いわ。ここは港町だし、帝都に出る船だってたくさん……軍用船だって」

「――大人の事情です」

「大人の事情? 軍の事情じゃなくて?」

「頭が回る娘は嫌いですよ。さあ、立ちなさい。ユリアナ・ファランドール」

 クラエスは立ち上がって、片手を差し出した。そして私がその手を取らないとわかると、強引に手首を握り、その場に立たせた。

 そして顎を掴まれ、上を向かされる。間近に男の淡青色の目があった――ともすればたがいの呼吸さえ触れてしまいそうな距離で、クラエスはつややかに笑った。

「――が幕を開ける」

 


 ――日が落ちる。

 周囲は茜色の光に満ち、女学院の敷地はしずけさに覆われていた。私は門の横に用意された二頭の馬を前に、いぶかしげにクラエス――その背後のキナアをみやった。

「乗馬の経験は?」

「授業で少しだけよ。軽早足くらいしか……」

「話になりませんね」

 嫌味っぽく肩をすくめて、クラエスは馬の手綱を握った。

「残念ながら今回は私と相乗りということで。騎乗中に寝たら承知しませんよ、私は心が狭いので」

「……なんで、いまさら馬なのよ。あなたが軍人なら軍用車だって……」

 クラエスは淡青色の目を細めただけで、何も言わなかった。有無を言わせぬ態度で、馬上にむけて顎をしゃくってみせる。

「それとも私の手を借りないと乗れないとか?」

「……自分で乗れるわよ!」

 そう言って、私は黒鹿毛の馬をみた。アラブ馬だろうか、授業で使用する馬よりはやや小柄で足が太い――が、その背にしつらえられた鞍は私の目線のはるか上にある。

(……無理)

 騎乗するときはあぶみと手綱を頼りに鞍に上るが、このときに大股を開く恰好になる。今の私は制服だ。

 スカートのまま、男の前で馬に乗るのはさすがに恥ずかしい。

 しかしそのことを言い出すのもはばかられて、私がちらちらと馬の目を見ていると、ふいに後ろから誰かに抱きかかえられた。――驚いて背後をみれば、私を抱き上げたのはキナアだった。

「あ、ありがとう……」

 先ほど私に出し抜かれたばかりなのに、なんともお人よしである、と正直な感想が頭に浮かんだ。彼の力を借りて馬上にのぼると、二頭の馬に荷物を載せ終えたクラエスが戻ってきて、身軽に私の背後に跨った。

 彼が私を抱え込むようにして手綱を握るのをみて、ふと恐怖をおぼえた。この瞬間、馬の主導権は彼に渡されたのだ。

 ――私はいったい、どこに連れて行かれるというのだろう。

 帝都か? それとも、もっと恐ろしいところかもしれない……おそろしい想像が頭のなかで膨らみ、考えても栓のないことだと強引に振り払う。

「……ああ、日没だ」

 ふと、クラエスが呟いた。その声に誘われるまま、私は顔を上げた。小高い丘上からは、アレクサンドリアの街並みを一望することができる。

 おもちゃのような家々の上に、覆いかぶさる太陽。砂漠に灼熱をもたらす陽は、残照を煌めかせながら水平線のむこうへと消えゆこうとしていた。落日は、砂漠にひとときの安穏を与えるだろう。

 私はまじまじとその陽をみつめた。瞬きさえなく――。

 死地への旅路であると、この男は言った。私はふと、茫漠と広がる砂漠にひとり取り残されたような、そんな心もとなさを覚えた。それは事実に違いなかった。彼らは私の味方ではない。味方であるはずのバラドも、今は影も形もない。

 バラドのこと、私自身にかけられた疑いのこと――いったい、この身はどのような渦のなかに投げ込まれてしまったのか。

 はたして、その渦を私は自分自身で確かめることができるのだろうか?

 先頭にクラエスが、しんがりにキナアが立ち、ふたりは呼びかけもなく馬を走らせはじめた。私は息をひそめるようにしてうなだれると、揺れる馬のたてがみをみつめた。

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