巡礼者 ――サウナしきじ

 

 日本の聖地と言われたときに、あなたは一体どこを想像するだろうか?

 伊勢神宮? 出雲大社? それとも皇居?

 いいや、違う。

 日本の聖地は静岡だ。

 静岡県静岡市駿河区敷地。

 そこにあるサウナしきじこそ日本の聖地である。




 とある夏の日。かんかん照りの日差しの中で、私たちは歩き続けていた。

 JR静岡駅で新幹線を降りてもう二十分は過ぎたが、未だ目的地は遠くにあった。

 8月の太陽は容赦なく私たちを照りつけて、Tシャツはとうにずぶ濡れだった。まっすぐに伸びる石田街道は進んでも、進んでも、終わりが見えない。地図で見たときはこんなにも長い道のりとは思わなかった。

 この道をずっと進むと海がある。そして、目的地はそのすぐ手前にあった。

 ――サウナしきじ。

 日本最高のサウナ。サウナーの聖地。

 サウナーたちの間でまことしやかにささやかれる伝説のサウナへと私たちは向かっていた。

 曰く、しきじほど整うサウナはない。曰く、しきじで整わなければもう整わない。曰く、しきじの水風呂は“奇跡の水風呂”。

 真か嘘か、日本中のサウナーたちの間で、そう言われるサウナ。日本中からサウナーたちが集まってくる“サウナの聖地”。それこそがサウナしきじなのだという。

 ――日本最高のサウナ。

 その言葉は私たちの耳にセンセーショナルに届いた。

 日本最高のサウナと言われて、それを確かめずにはいられないのがサウナーの性だ。例によって私とK氏とT氏の三人は“サウナの聖地”と如何ほどのものかを確かめたくてうずうずとしていた。学生時代からつるんできた私たちは今やもう社会人であり、それぞれに仕事や家庭があった。ようやく予定を合わせてしきじに向かったのは、サウナしきじの存在を知ってから数ヶ月が経ってからだった。

 私たち三人は意気揚々と新幹線に乗り込んで、一路、静岡へと向かった。

 静岡駅に辿り着くと、他の何にも目をくれず、しきじへと足を向けた。

 そうして、サウナしきじを目指して歩き始めたわけだった。

 けれど、道のりは思いの外、過酷だった。

 サウナしきじへと向かって歩き続けた私たちはへとへとになっていた。

 夏の日差しは全く容赦はない。歩いても、歩いても、景色は似たようなままで、前へと進んだ気がしない。

 聞くところでは、サウナしきじに行くことを“巡礼”とサウナーたちは言うらしい。このいつ終わるともしれない過酷な道のりを歩くことは、まるで修行のようにつらく、確かに“巡礼”と呼ぶに相応しいかもしれなかった。

 まっすぐに伸びる石田街道。その先には海があるはずだったが、果ては未だ見えずに、遠くまでただ同じ景色が続くだけだった。

 “巡礼”の道のりはまだ長く続いていた。




 果たしてどのくらいの時間歩いたのだろうか。

 そんなに歩いていないと言われれば、そんな気がするし、すごく長い距離を歩いたと言われればまた、そうだろうと思う。同じような景色が続く街並みは私たちから時間感覚を奪っていた。

 少なくとも私たちのTシャツが汗でずぶ濡れになるぐらいに歩いたのは確かだった。

 へとへとになってやっと見えてきたのは、白いこざっぱりとした建物だった。

 大きな黄色い看板に『サウナしきじ』と書かれているから、間違えようはなかった。

 ――ここが目的の“聖地”だ。

 看板を見てそれを確認すると、胸が高鳴った。今、私たちは“サウナの聖地”を目の前にしている。その事実は私たちを興奮させるに充分だった。

 駐車場を見回すと、足立、大阪、福岡、青森、――実に日本全国のナンバーを付けた車が止まっている。日本中から巡礼の旅をしてきた者たちが今、この“サウナの聖地”たる白い建物――言うなれば、神殿である――の中にいる。

 巡礼の旅をしてまで来たいという聖地とは、一体どれほどなのか。

 私たちもまた一人の巡礼者として、白い建物へ――白い神殿へと入っていった。


 神殿に入ってまず目に入るのは、受付カウンターと下駄箱、そして古い券売機。カウンターに、よく日に焼けた綺麗な女性が座る。

 券売機で入場券を購入すると、受付の女性に渡す。彼女は満面の笑みで私たちを迎えてくれた。

 私は彼女にどきりとした。

 綺麗な受付のお姉さんに心奪われるのは、サウナに限らず、ままあることだが、けれど彼女の笑顔は何かが違った。それは他で見るような作られた笑顔ではなく、心からの笑顔だったからだ。

 いや、もちろん、彼女のそれは作り笑顔だと分かっている。客をもてなすための笑顔であると重々承知だ。だが、彼女の笑顔はそうであることを悟らせない、純粋な笑顔に見えたのだ。

 かつて、大昔のキリスト教圏では巡礼の旅をする者のため巡礼教会なるものがあったという。巡礼教会の修道女は旅人に宿を貸し、食事を与え、時に体が不調であれば手厚く看護した。

 この“サウナの聖地”たる神殿の受付を任せられた彼女もまた、そうした修道女の一種なのかもしれないと思った。

 少なくとも彼女の笑顔は、そう思わせる力を持っていた。

 修道女はロッカーの鍵とタオル、そして館内着を私たちに手渡した。

 タオルと館内着はビニールに包まれていたが、そのビニール越しにふかふかとした柔らかさがあった。

 ――ビニールマンの仕業だ!

 そのビニールとふかふかのタオルに触れて、瞬間、それに気が付いた。

 ビニールマンとは、サウナしきじの社長――つまり、この神殿を司る筆頭神官の通称である。潔癖症の彼は、下着やタオルなどをなんでもかんでもビニールパックすることから、家族にビニールマンと呼ばれている男だ。

 そもそもビニールマンがしきじの社長になったのは、彼がしきじの猛烈なファンだったからだ。不動産業を営むビニールマンは、自分の愛するサウナしきじが競売に出されるという情報を知って、すぐに買い取った。

 そうして、しきじの社長になった彼は、しきじのタオルと館内着をビニールパックした。

 なぜビニールパックをするのか?

 それはそのほうが気持ちいいからだ。

 その話を最初に知ったときは、なんて潔癖症なおっさんなのだろうと思ったが、ロッカー室でビニールを開くと、その考えは改めざるを得なかった。

 ビニールから出たタオルと館内着は大気に触れた途端に優しい香りを鼻孔に届け、ビニール越しで感じた以上のふかふかの手触りを与えた。

 ――なるほど、これは気分が良い。

 どこのサウナでもタオルや館内着はきちんと洗濯されている。しかし、こんなにもさわり心地のよいものは初めてだった。

 ビニールマンのこだわりは確かだった。




 服を脱いで、浴場へと赴いた。

 外の光がよく入る、明るい浴場だった。ところどころに観葉植物が置かれていて、それが少し不可思議だった。

 ドアを開けた瞬間に鼻孔に届いたのは独特の香り。薬草の香りだ。他では普通嗅ぐことのないような、漢方の香り。それは決して不快感はなかった。

 私はすでにこの時点でサウナしきじに完敗していた。

 受付の女性の笑顔。ビニールパックされたタオルと館内着。ちり一つないロッカー室。すでに高すぎるホスピタリティに私はやられていたのだ。どこのサウナでもそうしたものには気を遣っているが、ここまで徹底しているのは初めてだった。その時点でこのサウナのレベルの高さに恐れおののいていた。

 サウナに入る前から、このざまなのだ。

 しかも、この浴場。一見しただけで良い雰囲気だ。さぞかし整ってしまうことだろう。

 浴場の中は決して広いわけではないが、よく光を取り入れて明るい。観葉植物に違和感があるものの、薬草の独特の香りが光と相まって、爽やかさがある。

 浴槽は三種類。

 普通のお風呂と水風呂と薬草風呂。この薬草風呂が不思議な香りの大元らしい。

 水風呂は広くもないが、狭くもない。特筆すべきは天井から水が流れ落ちていることだ。まるで滝のように水風呂の真上の天井から常に流水が流れ落ち、水しぶきを上げている。

 水が落ちる滝の音と水しぶきが、光を乱反射して、浴場内に美しさを添えていた。

 サウナ室はと言えば、二種類。

 フィンランドサウナと薬草サウナ。

 どちらもガラスの重たい扉が据え付けてある。その他に大きく窓が取られて、浴場からよくサウナの中が見えた。浴場全体も明るいが、サウナ室も明るい。サウナ室というものは薄暗いことが多いが、大きな窓のおかげで明るく光る浴場の光をサウナによく取り込んでいた。

 フィンランドサウナと薬草サウナは隣接されて、その二つはまた大きなガラス窓で区切られている。テレビはフィンランドサウナの中にしかないが、その大きなガラス窓によって、薬草サウナからもテレビが見えるようだった。

 フィンランドサウナの方は普通のサウナ室のようだが、薬草サウナはあちこちに薬草の入った袋がぶら下げられて、目に見えるほどに水蒸気が立ち上る。スチームサウナらしい。

 こうして浴場内を一望するだけで期待感がこみあげた。

 その期待感と恐怖感に私は身を焦がしていた。




 しきじに来るまでに体にべっとりとまとわりついていた自分の汗を流すと、さっそくサウナへと向かった。

 ひとまずはフィンランドサウナへ。

 しきじのサウナ室の温度は最低100℃、時には120℃になることもあるらしい。中に入ると実際に温度計は110℃だった。ずいぶんと熱いサウナだ。

 熱いサウナというのは往々にして出会う。

 100℃を越えるサウナが他にないわけではないが、不思議なのは不快感がなかったことだ。

 熱すぎるサウナは、時に熱による不快感をもたらすこともある。体が芯まで熱せられる前に、顔だけが熱くなり、それに耐えられなくなって、充分にボイルされないままにサウナ室を後にしてしまうのだ。体を熱し足りないと、うまく整わない。

 地元のサウナがそうであるが故に私は警戒心を抱いた。

 けれど、否。しきじのサウナ室は、確かに猛烈に熱かったが、それによる不快感が全くなかった。それどころかずっと居座りたくなるような居心地の良さだった。

 ――まずは十二分。

 その心地良さを確認すると、十二分時計を見やって、じっくりと体を温めることにした。大きな窓から入り込む光が心地良い。時間はとうに昼を過ぎていたが、けれどもサウナ室は常に朝のような爽快な光に満ちていた。

 サウナ室はそれなりに広い。

 混み合っているわけではないが、がらがらというわけでもない。

 地元のおじさんたちが、大きくもなく、小さくもない声でたわいもない話に華を咲かせている。寡黙に腕を組み目を瞑る人もいる。私たち三人は物珍しそうな顔をしながら、「悪くない」などと偉そうに言い合いながら、サウナを楽しんだ。

 

 十二分時計が一周すると、私たちはサウナ室を出た。

 100℃を越える灼熱のサウナは、しきじに来るまでに流した汗よりも大量の汗を私たちに流させた。

 私たちは急ぎ足で水風呂へと向かった。

 もう体が熱せられて、どうしようもなく火照っている。

 早く水風呂で冷やしたい。

 私はそっと足先を水風呂に付けようとしたが、しかし、それは叶わなかった。

 ゆっくりと水面へと向かった足先は勢いよく水風呂の奥へ、奥へと進んで行ってしまう。体が水風呂へ進むのが止められない。それは決して転んだとか、足を滑らせたとかではなく、水風呂が私の体を誘ったからに他ならなかった。

 無意識に私の体は水風呂へと深く深く入り込んでいった。

 水風呂の不快感――しきじの水風呂にはそれがなかった。

 サウナから水風呂へと行くとき、どうしても体は冷たさに強ばる。当然だ。灼熱のサウナから冷えた水風呂へと入るのだ。体は無意識に緊張を帯びて、堅くなる。けれど一度、水風呂に浸かれば気持ちいい。

 私の中ではそれが水風呂というものだった。

 ――けれど、しきじの水風呂は違う。

 そうした無意識の緊張を肉体に与えない。体は一切強ばらない。

 まるで水風呂の中にいることが当然であるように、自然と体が水風呂へ入っていく。大気に己の身をさらすことよりも、この水風呂に浸かっていることが自然なのだ。

 体の緊張は一切存在せず、するすると水風呂へと入っていく。

 柔らかさ。

 この水風呂には、柔らかさがある。

 一切の嫌味なく水風呂に入ることができる。その柔らかさは優しく体を包み、まるで羊水の中に浸かるようでもある。不自然なのは今までの自分でしかない。この水風呂に浸かっていない自分こそが誤った存在だったのだ。

 この水風呂にいなければならない。いるのが当たり前。いない方がおかしい。

 天井から滝のように流れ、循環する水が流れを作り、高温に熱しきった体の温度までがその循環する流れの中にいる。

 一体である。私は今この水風呂と一体になり、液体に溶けた。

 ――奇跡の水風呂。

 しきじの水風呂がそう言われているのを思い出す。

 なるほど奇跡だ。この柔らかい水質は他にない。サウナしきじの地下には富士山系の地下水が通り、そこから汲み上げた水を使っているらしいが、この優しい羊水のような水質はそれ故なのだろうか。

 後から入ってきたおっさんが、天井から落ちる滝に打たれ始めた。

 あぁ、なるほど、そうすれば良いのか。頭から滝に打たれることで、肉体全部でこの水風呂を味わっている。普通の水風呂ならば、冷たさに身悶えするだろうが、しきじの水風呂――この奇跡の水風呂では、それこそが最善に見えた。

 次から私もそうしよう。

 そう心に決めて、私は水風呂を後にした。




 水風呂を出ると、私はベンチに腰掛けた。ベンチの数は多くはないが少なくもない。

 腰を下ろすと、すぐにぐにゃりと視界が歪み、サウナトランスに入った。

 サウナ、水風呂、そしてベンチという、お決まりのルーティン。いつも通りだが、しかし、そのスピードと質は段違いだった。

 サウナ、水風呂、ベンチの三段階の流れ。これを一度行ったからと言って、すぐに整うわけではない。だいたいのサウナでは、このサイクルを3セットほど繰り返して整うに至る。

 けれど、座った瞬間に私にはわかった。

 ――もうすぐ整う。

 たった1セット。たった1セットだけで整う。

 そして、その整い方の質も上質であろうと私は確信していた。

 並のサウナでは自分から整えようと思って、気持ちを持って行かなければならないが、今この瞬間、私にそんな気負いはなかった。けれども、ベンチに座った瞬間に体が整い始めているのがわかる。

 ぐるぐると歪んだトランス状態の視界の中で、明るい浴場の光がいっぱいに満ちる。窓から入る日光がきらきらと光り、水風呂に落ちる滝のしぶきが乱反射。漂う湯けむりに光は乗って、妖精のように踊る。

 観葉植物の葉が水滴に揺れてなびく。落ちた水滴が床に跳ね、また光る。葉から落ちるのは水滴だけではない。

 香り。あの薬草の香り。

 薬草の香りと観葉植物の緑がトランスする私に幻覚を見せる。

 ――森だ! ここは森なんだ!

 絶え間なく私に届く薬草の香り。それは森の匂いだった。鬱蒼と茂った木々の香り。薬草の香りが観葉植物に絡みつき、大自然の空気を漂わす。

 ここはまごうことなく森の中。

 ベンチ脇にぽつりと申し訳程度に置かれたはずの観葉植物は、森の中の大樹。私はその大いなる大樹の足下に腰を下ろしているのだ。

 浴場に届く日光、湯けむりに乱反射する光は朝靄のようで、爽やかな朝の森林浴。

 サウナと水風呂、そして森林浴。

 森林浴で体は整う。整う。もう整ってしまう。整い過ぎている。整うという現象が加速する。

 そのまま大樹に体を預けて、私は目を瞑る。

 もっと整う。まだ整う。さらに整う。無限に整う。底なしの整い地獄へ落ちていく。

 ――整わない、ということが許されない。

 ここでは整うことしか許可されていない。サウナの妖精トントゥが、羊水のような母なる水風呂が、森の大樹となった観葉植物が、ビニールマンが、光り輝く浴場全体が、整うことを強制する。

 閉じたまぶたを押し開ける。

 輝いた光はさらに光度を増していて、私は眩しさに目を薄めた。

 輝いたこの世界の中で、通り過ぎ往く人々を見た。いるはずもない人影が、幾人もの人々が、座り込んだ私を傍目に通り過ぎる。私はただ座るだけで、進んで行く人々の波からこぼれ落ちている。

私は道往く人々にぽつりと置いていかれてしまって、ただ一人ここに座るだけだ。

 けれど、それは不快な光景などではなかった。私は人間社会からこぼれ落ち、この森の中で一つの生命として、ただあるだけだった。社会に居場所がないと思っても、孤独に苛まれていても、どんなことがあろうとも、私は今、間違いなく一つの生命としてここにある。

 それだけが確かなことだった。

 それだけが確かであれば充分だった。それはまさしくこの聖地に御坐す神の見せた神託オラクルだった。

 ――整った。

 私が今の自分を表現するには、その言葉しか言いようがなかった。

 しきじに着いて、まだ三十分も経っていなかった。




 古来、シャーマンというものは、儀式の際、ある種のトランス状態に陥っていたという。祭りの熱か、酒の力か、はたまた麻薬の効果か、ともかくシャーマンはトランス状態となり、人々はトランス状態に陥った彼を見て神が宿ったのだと考えた。

 また、あるいはそのシャーマン自身も、普段とは全く異なる自分自身の状態を神が体に宿ったせいだと思ったのかもしれない。

 私がこうして不可思議な幻覚を見たのもまた、ある種のトランス状態のせいと言えるかもしれない。私は古代のシャーマンと同様の状態に陥っていたのではないか。そう私は考えるのだ。

 しかし、それはいわば、このサウナしきじという場所が、一種のシャーマニズム的な場であると――言い方を変えれば、神殿であると言うことができまいか。

 サウナしきじが日本中のサウナーから“聖地”と言われる所以はそこにあるのではないか。

 たかがサウナを神殿とは片腹痛い、読者諸兄はそう嗤うかもしれない。

 確かにこの白亜の神殿にはご神体やなにやらありがたそうなものはない。いや、サウナーからしてみれば、サウナも水風呂もありがたい限りのものだが、しかし神聖とまでは言えないかもしれない。

 だが、考えてもみて欲しい。果たして神社は、お寺は、教会は、それそのものが神聖なものなのだろうか。

 それらは人々から神聖なものとして、あがめ奉られているが、しかし、それはただ人間が建てた構造物にすぎない。にも係わらず、なぜ誰しもが神聖なものと考えるかと言えば、それはそこに神が現れるからに他ならない。

 人間が作り上げた、ただの構造物。だが、そこが神が現れる“場”である限りにおいて神聖となるのだ。

 建物はそのための“場”に過ぎない。

 そうであるならば、このサウナしきじもまた神聖なものなのではないかと思うのだ。この白亜の建物の中にあるのが、サウナと水風呂とおっさんたちであっても、そこに神が降りる限りにおいて、神殿たる資格はある。

 通り過ぎ往く人々の幻は、あるいはただの夢だったのかもしれない。のぼせたせいで見た白昼夢なのかもしれない。

 けれど、それはさして問題ではない。

 私はそこに神の意志を見たのだ。

 いいや、それは私だけではあるまい。

 見よ、あのベンチに座るおっさんの幸せそうな顔を。彼もまた今、この瞬間、神との対話を果たしているのだ。

 それ故に人はこのサウナしきじをこう呼ぶのだ。

 ――“サウナの聖地”と。

 

 この場所が、ただの言葉のみならず、真の意味で“聖地”であると気が付いてから、周りを見てみると、そこかしこに“巡礼者”の姿が見えた。

 サウナしきじに来ることを、サウナーのあいだでは“巡礼”と言うことは先に述べたが、確かにここにいる人々は“巡礼者”に見える。

 取り憑かれたように水風呂の滝に打たれ続けるおっさんは、まさに滝行をする修験者そのものだし、薬草サウナの中であぐらをかいて微動だにしないおっさんは座禅、瞑想の中にいるに違いない。


 私は薬草サウナが気になった。

 このしきじで重要な要素は“森”だ。そして、その“森”を作り上げているのは、明らかに薬草の香りだった。浴場全体を森へと変貌させる、その不思議な香り。異常なほどに整う、その秘密は変わった水質の水風呂もさることながら、薬草にあるに違いない。

 ならば、その薬草に満ちた薬草サウナこそが、しきじの根源に迫るものではないのかと考えた。

 重いガラス戸を開けて、中に入るとやはり薬草の匂いで充満していた。

 ハッカのような、グレープのような、それとも別の何かのような、得体の知れぬ薬草の香りだ。ともすれば麻薬的な成分があるのではとすら思えるほどに蠱惑的だ。さきほど見た白昼夢もそのせいかもしれない。

 ――熱い。いやに熱い。

 薬草サウナに入って思ったのは、その香りよりもまず熱量についてだった。

 猛烈に熱い。いや、熱いと言うよりも痛い。床の熱に耐えきれず足踏みをしてしまうほどに熱い。

 温度計を見ると、60℃。先ほど入ったフィンランドサウナは110℃だったから、それよりも40℃以上も温度は低いはずだ。けれど、熱い。さきほどの比ではないほどに熱い。痛い。

 薬草サウナに入る人たちは皆一様に顔にタオル巻いている。それもそうだ。熱すぎて顔にタオルを巻いて保護しなければ耐えられない。

 この熱の原因の一つは水蒸気だった。

 薬草サウナはスチームサウナだ。湿度の高さに比例して体感温度は上がる。日本の夏が暑いと言われるのもこのせいだ。

 この薬草サウナでは、床の板の目の隙間からゆっくりと水蒸気が煙のように登るほどに湿度に満ちている。

 この熱さの原因。もう一つは薬草だ。

 熱せられた薬草が水蒸気に溶けて、体にまとわりつくのだ。ハッカのような成分が体の表面にまとわりついて、普通の気温なら爽快感を与えるが、この熱せられた空間では殊更に肌を敏感にさせて、熱を痛いほどに絡め取る。スースーとする感覚に熱が重なり、火傷しそうになる。

 K氏とT氏は早々に薬草サウナに挫折して、フィンランドサウナへと向かったが、私は薬草サウナに一人残り、深く、そして慎重に息を吸った。

 しきじの“森”を我が物とするためである。

 しきじの“森”感、その最重要ファクターは明らかにこの薬草だ。薬草の香りが“森”を作りだし、それこそがより深い「整う」を作る。

 “森”が「整う」を加速させるならば、その“森”をより多く取り込むことによって、さらに深く「整う」ことが出来るのではないか。そう考えたのだ。

だが、それは並大抵のことではなかった。

 タオルを頭巾のように被り、あぐらをかいて、じっとするおっさんたち。

 私は先ほどそれを禅を組み、瞑想していると言ったが、それは大きな間違いだ。

 これは荒行である。

 タオル被るのはのどが焼けただれるのを防ぐためだ。普段通り呼吸すれば、薬草成分と湿度と熱でのどが焼ける。

 あぐらをかくのは足裏を床に付けないためだ。加熱しすぎた床は、ずっと足を付ければ火傷してしまう。

 じっとしているのは空気を揺らさないためだ。自分が動けば空気が流れ、薬草のハッカ成分で敏感になった肌は加熱された空気と蒸気で痛む。

 だから。だから、それ故にタオルを被り、あぐらをかいて、じっとする。

 こんなにつらくとも荒行をこなすのは、薬草を、“森”をより体に取り込むため――“森”を取り込み、“森”と一体になり、“森”ととも整う。そのために。

 砂時計一回、つまりは五分。

 それがこの荒行を私がこなせる限界だった。

 蒸気か汗か、区別の付かない水滴で全身をびしょびしょにして、水風呂へ向かう。

 滝のように落ちる水を全身で受けると、これまでの荒行の苦しみもまた流れ、心地良い薬草の香りだけが体に残る。じっと滝に打たれて、体を冷やす。

 そうして、またベンチに座る。

 観葉植物は再び大樹へ姿を変える。

 薬草サウナに入り、水風呂を浴びる。そうして、ベンチに辿り着いたとき、それはつまりより深い森に私は入り込んだのだ。

 さらに深く、そしてすぐにサウナトランス。

 一撃で整う。

 またしても世界は輝いて、神が見せる幻覚の中に落ちる。

 これが“巡礼”なのだ。

 私はこの神殿の中で、今まさに“巡礼”を遂げた。


 サウナを堪能して、休憩室へ向かう。

 ふいにK氏が私の顔を見て笑った。どうしたのだ、と聞くと、私の鼻の頭だけが真っ赤焼けていると言った。鏡を見てみると、確かに鼻の頭だけが赤くなっていた。

 K氏とT氏は熱すぎる薬草サウナのせいだと笑ったが、嘲笑ったのは私の方だった。早々に薬草サウナを脱落した彼らが、果たしてこのしきじという“森”をどの程度、自分の中に取り込めたというのだ。どれほど神の見せる幻覚を見たというのか。

 体の“森”度で言えば、私の方が高い。

 鼻が赤く焼けているのは、いわば聖痕スティグマだ。

 しきじという“聖地”で私が神に認められた証明なのだ。

 彼らは私の鼻を笑ったが、私は彼らを鼻で笑った。




 休憩室でしばらく休むと、飯を食うことにした。

 休憩室に併設された食堂のテーブルでは、ビールを片手に陽気な笑い声が聞こえた。八十八カ所巡りで巡礼者を饗応するように、巡礼教会が旅人を保護するように、ここではうまい食事でもてなされる。もちろん、は必要だ。

 ビールを片手に笑うおっさんたちは、幸福度の高い人生を過ごしているように思えた。

 だから、私たちもまたビールを頼み、食事を頼む。

 とりたてて言うほどのごちそうではないが、それでも極上に感じるうまさだった。

 そうして、のんびりしているとひどく落ち着く。家よりも落ち着く。

 いつまでも、いつまでも、この場所でのんびりしていたい。

 そう思える空間だった。

 けれど、私たちには明日、仕事があった。翌日は月曜日だったからだ。

 帰りたくないと切に願ったが、しかし帰らざるを得なかった。

 “巡礼”の旅は終わりを告げた。

 帰り際、受付でポイントカードを手渡された。今日の分のハンコが一つ押してあるそれは、夏休みのラジオ体操のカードを思い出させた。けれど、私にとってこれは御朱印帳に他ならない。私はそれを鞄の中に折り曲げないように、大事に、大事にしまった。

 また来よう。

 しきじを出ると、また果てのないほどに長く感じる石田街道が見えた。しきじへと続くこの道はいわば“巡礼”のための参道。過酷な道のりも“巡礼”のため、致し方なし。

 そうして、名残惜しくも私たちは帰路へ着いた。

 もちろん帰りはバスに乗った。




【SAUNA DATA】

サウナしきじ

サウナ:フィンランドサウナ 100~120℃、テレビ有

    薬草サウナ 60℃程度

水風呂:18~20℃

ロウリュ:なし

宿泊:リクライニング(分煙)、仮眠室有(定員10名)

営業時間:24時間年中無休

料金:平日1,400円、休日1,600円、

   タイムサービス900円(6:00~9:00・17:00~26:00)

   深夜宿泊料金 平日1,400円(通常料金加算)、

          休日17:00~のみ総額2,500円

HP:http://saunashikiji.jp

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