第三十五話 冥菓の君

 

 お茶時間を過ごしてひと息ついてから、美美は、よしっ!もうひとがんばり!とばかりに、蔵の掃除の続きにとりかかった。


 すずろは、私はまだよく動けなくて申しわけないと断りを入れてから、内階段の上り台に毛氈を敷いて、そこに横座りして美美の様子を見守っている。

 寒くはないかと美美がたずねると、では、朧桜の着物を持ってきてほしいと言い、美美が行こうとしたところ、ぼくが持ってくるよと玉兎が店の奥の間へと飛んでいった。


 井桁は、美美がほこりを払った後を、お茶殻をふきんで包んで拭いていく。

 お茶の持つ抗菌作用と、すっきりとした香りが、ほこり臭さをぬぐっていく。


 艾人がいじんは、蔵憑きのあやかし、おくらさまのお相手をすると言って、蔵の隅っこに陣取って、見えない何かにくどくどと話しかけている。

 端からみたら、明らかに危ない人だが、蔵の中の空気が和やかになったのを美美は実感して、人から見たら不審なことでも、人の理で生きていないものたちには必要なことがあるのだな、と感心した。


「あ、あった」


 それは、ほこりまみれの行李の中から見つかった。

 行李の中には、たとう紙に包まれた、古い着物が重ねられていて、その豪華な刺繍や華やかな絞り染の振袖の間に、探しものは、収められていた。


 ――朱塗しゅぬ蒔絵文箱まきえふばこ――


 美美は、掃除用の手袋をとり、庭の井戸水で手を洗うと、おろしたてのさらしのふきんで手をぬぐい、組みひもの結び目をほどいて、ふたをはずした。


 中には、今にもくずおれそうな、和綴じの冊子が収められていた。


菓子司美与志冥菓見本帖かしつかさみよしめいかみほんちょう


 達筆で記された表紙の文字は、紙の古さに対して、妙に生々しく、墨汁のにおいが漂ってくるようだった。


 美美は、触れたらそこからこぼれてしまいそうな冊子を、おそるおそる手に取り、ページをめくった。


 一頁ごとに、和菓子の意匠が描かれていた。


 美美は思い出した。


 祖父といっしょに眺めた、美しい色彩や図案に溢れた、お菓子の絵本はこれだった。


 祖父は、確か、冥菓道を継承する意志のないものは、これに触れてはならないと、その時ばかりは厳しく美美に諭して、紙の端にも触れさせてくれなかった。


 でも、図案の美しさ、面白さに見入る様子が、あまりに熱心だったので、しまいに祖父は美美に、その熱心さには継承の意志ありと宣言して、自由に見てもよいと許可してくれたのだった。


 すずろが最初はおっていた、冥菓「朧桜」もこのどこかにあるはずだ。


 そう思いながらページをめくったその時だった。


 はらり、と、なにやら一葉、舞いこぼれた。


「写真?」


 美美はその一葉の写真を手にとると、しげしげと眺めた。


 あせたセピア色の写真には、まだ若かりし頃の祖父を真ん中に、二人の女性が祖父の両側で微笑んでいた。


「これは、おじいちゃん、と右隣りはおばあちゃんね、あれ、この左隣りにいるのって」


 美美は、すずろを見た。


 すずろがうなずいた。


 玉兎が持ってきた朧桜の模様の着物を羽織ったすずろは、心なしか輪郭がぼやけて、いっそうはかなげな気配を漂わせていた。


「すずろ?あなた、女の人、だった、の?」


 うろたえる美美に、すずろは、穏やかな笑みを浮かべたまま、口をひらいた。


「冥菓の君は、対になる相手の望む形をとって、共に冥菓道を極めるべく務めます。先々代、美美さんのおじいさまの時は、その朧桜の着物を依代に、娘姿で務めました。おじいさまが、そのようにお望みになったのです」


「あの時は、ぼくたちも立候補したのだけれど、美美のおじいさんは、もふもふも筋肉も遠慮するとか抜かしてくれたんだ。ぼくたちは、せっかくお風呂にはいって、ふかふかにして冥菓の君候補に臨んだのに」


「そりゃ、美美のおじいさんは、子どもの頃から、その前の代の冥菓の君を務めていたすずろの艶姿あですがたを見てたからさ、子ども心にすっかり魅了されてたんだよ、初恋ってやつ?」

 

 井桁が口をはさんできた。


「で、ふじやんも同じで、すずろには娘姿で冥菓の君になってもらって、って思ってたらしいんだけどさ」


 美美は、まばたきをして、立ち尽くしている。

 

 言祝町のあやかしたちが、着る物を依代にして、人形をとるのは知っていた。


 それぞれにしっくりくる着る物であれば、自在に自由に力を発揮できるのだと。


 なにか不安定なところのあるあやかしは、依代が合ってなかったりするのだと。


 戸惑っている美美の様子を気にしながら、井桁が続ける。


「実はさ、同じあやかしが冥菓の君になるのは、あまり何代も続けてはだめなんだ。ぎりぎり三代か、四代か。そのあやかしがもってる癖っていうか偏りってのが、どうしたって何代も重なれば強くなるからさ。人とあやかしは、違う生のことわりで生きているから、あやかしの力の人への影響力が大きくなりすぎるのは、まずいんだよね。均衡が保てなくなるんだ」


「え?」


「均衡が保てなくなると、人は、精神を病むか、肉体が綻びる。いずれにしても人としての生に支障が出る」


「井桁、待ってください、」


 すずろが、階段の手すりにつかまって、よろよろと立ち上がった。


「美美さん。私は、あなたの対になりたいと、ずっと思っていました。あなたのおじいさまとよく似た気をまとい、表に出さずとも、まじない菓子への思いを深く抱いている、あなたと。その気持ちは、周りには気取られないようにしていたつもりだったのですが、あなたのおとうさまには、伝わってしまったようです」


「そんなこと、父は、ひと言も……」


「そういうとこあるからな、ふじやん。でもな、すずろだけの一方通行だったら、ふじやんも譲ろうとはしなかったと思うよ」


「譲る?」


「そう。ふじやんは、すずろの気持ちと、それから、美美のすずろへの懐き具合をに、自分の子どもの頃のほのかな恋心を重ねたんだな。愛娘まなむすめの願いには勝てないってことだったんだと思うよ」


 美美は、あの身勝手なばかりだと思っていた父を理解していなかった自分のことを思うと、こらえきれなくなって、涙がこぼれた。


 井桁が驚き手にしたふきんを差し出そうとすると、すずろが、はおった振袖の袂で、そっと美美の涙をぬぐった。


「おとうさまは、店を経営していく。美美さんは冥菓道を極める。そういう形で、冥菓道の店をつないでいく。そういうことだと、私は理解しました」


「おとうさまが、継承者として、冥菓道を極めることを決意したのであれば、私はいつでも娘姿になるつもりだったのです。でも、おとうさまは、姿を隠してしまいました。冥菓道を継ぐ修行をしてはいましたが、はっきりとした人形の希望を私にはおっしゃってくださいませんでした。ですから、私は、自分の力を持て余し、道を踏み外しかけて人形をとるのがつらいほど力を失ってしまい、療養しなければならなかったのです」


「……」


「美美は、意欲が溢れてた。自分じゃわからないかもしれないけど、おれたちから見たら、ああ、この娘だったら、憑いていける、って思ったんだ」


 井桁が励ますように言った。


「それで、すずろは、本腰を入れて、療養を始めた。本来しっくりくる依代ではない着流しの着物で人形をしっかり保っていられるように。美美の意欲が枯れてしまわないうちに、なんとしても、継承者になってもらおうと思って。美美は、子ども心に、ニッキのにおいをさせてそばにいたすずろを、おじいさんと一緒に見ていた時代劇のハンサムな若侍のようなものだと思っていたみたいなんだ」


 井桁の言葉に、美美は、ぱっと顔を赤らめた。

 時代劇の若侍が好みのタイプなのだと、うっかり言ってしまって、笑われたことがあったのだ。


「かわいかったからな、子どもの頃の美美。すずろが、そばにいたい、守ってあげたいって思ったのも無理はなかったのさ」


 井桁の言葉に、美美は、すずろの顔を見上げた。

 

 あやふやになりかけていた輪郭が、しっかりともどり、すずろの姿を気清けざやかに浮き上がらせていた。


めいという言葉には、心の奥深いところという意味があります。人の心の奥深く、記憶を辿って、お望みを汲みあげ、それをまじない菓子“冥菓”という形にするのです。それが、私たちの生きる道なのです」


 すずろは、美美を振り向かせて、その手をとってうなづいてみせた。


 美美もすずろにうなづき返した。


 ふわりと、すずろの蜜色の髪が流れ、ニッキの匂いが美美を包んだ。

 

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