第三十三話 夜舟北窓 隣りは何をする人ぞ
ひとしきり咳き込んでから、美美は、ため息をついて庭に置かれた焼き物の椅子に腰かけた。
井桁がお茶を運んできてくれた。
最初の一杯は、うがい茶だったので、それでいがらっぽかったのどをすっきりさせてから、
「あー、生き返る。ありがとう、井桁」
「どういたしまして。おれの本来の仕事だからな。美美にお茶をいれるのは」
「うれしいこと言ってくれるのね。でも、井桁のいれてくれるお茶は、うちの家族みんなへのサービスなのでしょう」
「最優先は、先々代亡き後の次期冥菓道の継承者予定、つまり、美美だ」
「そう、なんだ。現継承者のお父さんではないってことね」
そこで、井桁は、あれ?という表情になった。
「もしかして、美美、現継承者が開店休業だってこと知らない?」
また、新たな事実が出てきたようだ。
「お父さん、いろいろやらかしてるけど、冥菓道の継承の修行はちゃんとしたって言ってたけど」
「修行をしただけなんだよ、それが」
井桁の申しわけなさそうな困ったような顔をした。
「?」
「冥菓道を極めてはいないんだ、実は。だから。今、この店には、あやかし側の冥菓の君も、人の側の正式な継承者もいない状態なんだ。つまり、それは、邪なものにつけ込まれやすい状況ってこと」
美美は、父が逃げ回っている理由がわかった。
中途半端な自分を恥じているのだ。
そんな風には見せないが、自尊心は山のように高いのだろう。
しかし、本人がいないところで、何かをできるわけでもな
曝書をするよう手紙に書いてきたのには、きっと何か理由があるのだろう。
今は、目の前の成すべきことに集中するのだ。
「お茶菓子は、何かな」
美美は、ふだん通りの様子で言った。
「おはぎ、だよ。美美、朝食べなかっただろ」
「え、どうしてわかったの」
「食べたらさ、美味しかったとかなんとか必ず感想を言うだろ。それ、なかったからさ」
美美は、おはぎを食べ損なった経緯をかいつまんで話した。
「とにかく、おれがついてるにしても、気をつけておいた方がいいからな」
「おはぎ、ぼたもち、
美美は唱えるようにおはぎの異名を口にした。
「秋の萩、春の牡丹もいいけれど、ね」
美美は、ひと口食べてのみこんでから、言葉を継いだ。
「おはぎは、もち米を搗かずに少しつぶして作るから、お餅搗きの音が聞こえない。そのことから生まれた呼び名も風情があっていいわね」
「北向きの窓からは月が見えないすなわち月知らず(搗き知らず)、夜更けの舟はいつ着いた(搗いた)かわからないから夜舟」
打てば響くように井桁が答えた。
美美は、にっこりとうなづく。
「北の窓からは月が見えないからね。ぼくたちの仕事ぶりを見てもらえないとは残念
いつのまにかそばに来ていた玉兎が口をはさんできた。
「玉兎、だめじゃない、店番ちゃんとしててよ」
「お店を開けてないのに、店番をするのかい」
「緑珠姫みたいに、まじない菓子のご注文は、店を開けてなくても、お客様がいらっしゃることがあるのよ」
「年中無休なのかい。それはたいへんだ」
「たいへんだと思ってくれるのだったら、さあ、もどってちょうだい」
「はぁい、お任せあれ」
威勢のいい返事をして、玉兎はぴょこぴょこと店へもどっていった。
「さて、井桁、とりあえず、ちょっとの間、玉兎を見ててあげて。さて、もうひとがんばりしますか」
「了解!」
「あ、そうそう、昨日緑珠姫にもらった金木犀の花を、水洗いして、ざるに広げて干しておいてもらっていいかな」
「いいよ。それはおれがやっとく。つづきは、美美、自分でやるんだぞ」
「もちろんよ」
井桁との気軽なやりとりで、ひと息つけた美美は、蔵の中へもどった。
今度は、 刺し子のふきんで頬かむりをして、三角巾で顔半分を覆い、かっぽうぎに軍手と、蔵出し作業の準備も万端にした。
「さて、菓子木型を外に出しますか」
美美は、さっきの続きで、菓子木型を手にとった。
菓子木型は、木目がまっすぐなもの、年輪が入っていないもので作るとひずみがないのでよいとされ、桜や
使い込まれた木型の柄は手になじみ、菓子木型の付喪神と握手をしているようだった。
「ほこりまみれにしてしまって、ごめんなさい。これからは、わたしが手入れをするので、よろしくお願いします」
美美はそう言うと、ふきんで丁寧にほこりをぬぐった。
干菓子に使われる木型には、干菓子の中でも水分の少ない
焼き物用としては、2枚組の月餅用、成形した饅頭をはめて形をつける栗饅頭用のもの、成形したものに模様をつける桃山用などがある。
また、押し板というのもあって、これは、平らな板に梅や
祝い事の飾り菓子の木型の中には、
そこまでこったものではなくても、菓子司美与志にも、先祖伝来の特別な彫りを施したまじない菓子の木型はあるはずだった。
とは言うものの、今はこの場を片づけるのが最優先事項だった。
美美はほこりをぬぐった菓子木型を外に運び出すと、ござを敷いた上に並べていった。
「これは、と、なつかしいな、桃山の押し型。おくらさんの二階の文鎮が、桃山の形だったのよね」
桃山は、白餡に卵黄、水飴、
卵黄が入ることで、生地はほっこりとした暖かみのある色合いに焼き上がり、ほくほくした食感が特徴的だ。
安土桃山時代の桃山御殿の瓦の印を押したので桃山と名がついたと言われているが、詳細ははっきりとわかっていないとされている。
「確か、あの文鎮は、同じ町内のアイアンクラフト工房に特注したものだってきいたな。歴史ある
最後の一つを運び出してから、美美は、中に置かれている長机や、物置台にはたきをかけ始めた。
と、その時だった。
ごそごそっ、と、何かがうごめくような音がした。
美美は、手を留めると、用心深く辺りを見渡した。
すると、音は止んで、しん、と静まり返った。
ねずみのふんはないし、仔猫のうぶ毛も飛んでおらず、脱皮した蛇の皮も見当たらないので、さては
「
返事はなかった。
美美は、断りを入れたのでよしとして、今度はほこりがたたないように静かにはたきをかけ始めた。
と、薄暗い中、何か紙屑のようなものを踏んづけてしまった。
ぐしゃり、と、嫌な音がした。
何だろうと思った、その瞬間だった。
その紙屑はずるり、と、美美の靴の裏から滑り抜け出して、蔵の奥へと舞っていったのだった。
美美は猛烈な悪寒に襲われ思わずしゃがみこんでしまった。
全身の血がきーんと冷えていく。
身動きができない。
視界がかすむ。
耳鳴りがする。
そんな中、嗅覚だけが異常に鋭くなって、鼻の奥に蓬の若葉を搗いている時の若青いにおいが広がった。
においは鼻から目へ抜けて、つんと刺激し、涙がじわっとにじみ出た。
「な、なんなの?」
美美は目を痛めないように縁ににじんだ涙をハンカチでぬぐって、顔をあげた。
と、前方に、もやもやとした
「蔵をお守りしてくださってるあやかしさん?蔵守さん?」
返事はない。
「
美美がそう言うと、靄はすーっとひと筋の煙のようになって、片隅に積まれた
「蔵守さん?」
美美がもう一度声をかけると、行李のふたが、ぐぐっと持ち上げられて、がたん、とふたが開け放たれた。
「……!?」
行李の中から現れたのは、
美美は、それをを見て、思わず声をあげた。
「おとうさん!?」
よもぎ色の髪の彼は、自分のからだをうまく操れないかのように、ぎくしゃくしながら、美美に近づいてくる。
美美は、混乱し、その場に立ち尽くした。
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