第三十話 政子さんと朱紅の乙女心

 

 毎朝祭神を乗せて箱根詣でをするという神馬は、神門の手前の神馬舎の中に納められていた。

 思ったよりすっきりとしたスタイルの馬だった。

 

「ここでは、流鏑馬やぶさめもやるのよね。武門にゆかりなだけあるわ」


 美美は、祀られている神馬をしげしげと眺めながら言った。


「確か、流鏑馬の神事は夏、お盆明けの頃よね」


 三嶋大社での流鏑馬の起源は、伝承では平安時代とされるが、記録に残っているのは1185年文治元年に源頼朝が奉納したのが始まりとされている。


 流鏑馬とは疾走する馬の上から的を鏑矢かぶらやで射流して射る競技で、武士の嗜みともされて、奉納されることもあった。


 三嶋大社での神事としての式次第は、次の通りである。


 一に、寄せ太鼓を合図に射手をはじめとした一同が前庭に集合する出陣。

 

 二に、鏑矢を神前に奉献し、天下泰平、五穀豊穣の願文を奏上する、神前奉献しんぜんほうけん願文奏上がんぶんそうじょうの儀。

 

 三に、奉行が「五行の乗法じょうほう」に則って乗馬し、左廻りに三回、右廻りに二回廻ってから、鏑矢を弓につがえて天と地に対して満月に引き、天下泰平、五穀豊穣を祈念する天長地久てんちょうちきゅうの式。

 

 四に、四季の花を添えた四季の的を射る、式の的の騎射。

 

 五に、土器かわらけと五色の切紙を入れた三寸の小的こまとを射るのを競う競射。


 それが終わるととどめの太鼓が打ちならされる。

 

 六に、競射の最多的中射手が、持参した式の的を奉行によって検分を受け、勝鬨かちどきを揚げる凱陣がいじんの式。

 

 七に、凱陣の式が終わった後に神門で神酒を拝戴して流鏑馬神事を終了とする。


 武士としての技能を誇る勇ましい競技だが、この名を持つ和菓子が京都にある。


 北野天満宮東門前の上七軒に店を構える有職ゆうそく菓子御調進所「老松おいまつ」の「流鏑馬」である。

 下鴨神社の神事で行われる流鏑馬にちなんで、しっとりとしたどら焼様の生地に丹波大納言の粒餡をはさみ折り、射手のかぶる綾傘あやがさをかたどり、葵の御紋が刻印されている。


「流鏑馬の射手は、みなさん凛々しい顔立ちでかっこいいのよね。スキー場効果?みたいな?」


 美美がそう言うと、その言葉をひきとるように井桁が声を発した。


「そうだな、流鏑馬、カッコよかったぜ、な、政子さん」

「え?政子さんって?」


 美美は、井桁がするっと美美の脇から神馬舎の右脇に流れたのを見た。

 そこには、石が二つ並んでいた。


 石の後ろの木札には、腰掛石とあり、その由来が記されていた。

 由来によると、源夫妻が、平家討伐源氏再興祈願で参詣にきた時に、この石で休憩をしたのだという。


 大きい方が頼朝で、小さい方が政子のだと伝わっている。


 その小さい方に、神社の境内には似つかわしくない、尼僧姿の女性が腰かけていた。 


「こんちはー。今日はわざわざ、ありがとうございまっす」


 井桁が元気に声をかけると、尼僧は穏やかに笑みを浮かべた。

 

「なにしろここにお参りしてから、900年近く経ってるから、政子さんになりきり実体化となると、けっこう疲れただろ、って、もうちょい保っててくれよ」


 尼僧は、にこやかに首を傾げた。


「そっか、思い出の地だもんな。彼氏との。そういうの情念って言うの?それはけっこう残ってるもんなんだ」


 言葉を発せずににこにこしているだけの尼僧と井桁の会話は、傍目には、一方的に井桁がしゃべり続けているように見えた。


「井桁、そこ、そこに座ってるのって、もしかして、」

「そ、北条政子さん」

「北条政子さん、って、源頼朝の奥さんで、鎌倉幕府の尼御前、尼将軍よね。墓所は鎌倉でしょ。どうしてここに出てきちゃってるわけ?」


 驚いている美美に、井桁は、


「うん、まあ、厳密にいうと完全なる本人とはちょっと違うかな」

 

 と軽い調子で言った。


「厳密にいうと違うって、どういうこと?」

「そこに座ってるのは、その腰掛石を守ってるあやかしなんだ。尼僧の着物をあつらえて、そこで人形ひとがたになってもらってる」

「それって、北条政子……さん、に用事があるから、そういう風にしてもらってるってこと?でも、当時の着物ではないわよね、それでも、大丈夫なの?」


 歴史上の人物は呼び捨てにできても、目の前にご本人がいるとなると、呼び捨ては失礼な気がして、美美は、井桁に倣ってさんづけした。


「着物は、知り合いから借りたものだよ。もちろん現代のさ。現代のだけど、尼将軍の衣装として作られたものなんだ。だから、依代として使える」

「そういうものなの?」

「長く生きているあやかしだったら、それくらいの力は持ってる。それに、この石を守り続けてきたんだから、その石に残っている政子さんの気配を汲み取ることができるからね」

「そう、筋が通ってるようだけど……」


 美美は、きつねにつままれたような面持ちで、尼僧姿のあやかしを見つめた。


「とにかく、その石には、ずいぶん時が経ってるけど、残存思念が微かだけどある。それを掬い取って政子さんの気持ちになってもらって、そこから、当時の乙女の恋心ってのを抽出してもらうんだ」

「あの、どうして、そんなややこしいことをするの?それに、ここにお参りに来てた頃って、当時としては、もう乙女って年頃ではなかったんじゃない、政子さん」

「乙女心に年齢は関係ないのさ」


 美美は、井桁の言葉に、絶句した。


「そ、そうね、井桁、ナイス」

「おれがどんだけ長生きしてると思ってるんだよ。女心っていうか、人の心の酸いも甘いも知ってるんだぜ」


 その割には、拗ねたりするんだよね、と美美はくすりと笑った。


「そ、そんな、妖術のようなことって、あ、妖しい術、あやかしの術?」


「わかってるじゃん。っていうか、最初からわかってろよ、美美。まじない菓子なんだぜ。どんなに優秀な菓子職人が、精魂込めて、手わざを極めたって、“あやかし”と手を組まなけりゃ、つくりあげられないんだ、冥菓道のまじない菓子っていうのは」


 また新たな冥菓道の一端を知ったのだと思うと、美美は、気持ちが改まった。


「でも、今の段階では、冥菓の君はいないじゃない。井桁のような、親しいあやかしに頼めば、簡単にまじない菓子ができてしまうのではないの」


 美美の問いかけに、井桁は、きゅっと口を結んで黙ってしまった。

 触れてはいけないことだったのだろうかと、美美は、それ以上問うのをやめた。


「とにかく、冥菓道には、あやかしの力を借りないと無理な工程があるってことなのね。それに、まじない菓子の材料は、自分で動いて見つけなければならないってことね」


「そうだよ。考えて、集めて、手を動かして、仕上げて、観て、直して、完成させる」


「で、緑珠姫のまじない菓子と、政子さんとのご関係は?」


「そりゃー、この土地で一番の情熱的な恋愛を成就させたのは政子さんだからさ、詳しくは人物伝でも読んどけよな」

「なんで、そこだけ説明略すのよ」

「時間がないんだよ。あやかしは、自分の好きなように人形をとってる分には、ある程度自由にできるけど、歴史に実在した人の形をとるのは力も神経も使うんだ。力尽きないうちに、ほら、美美、頼むんだ」

「何を?」

「乙女心を、分けてもらうんだよ。この土地最強の」


 美美は狐につままれた表情のまま、井桁に言われた通りに、尼僧姿のあやかし政子さんに言葉をかけてみた。


「あの、政子さん、わたし、この土地の言祝町で、代々和菓子屋をやっている家の娘です。美美と言います。うちの店は、ふだんのお菓子のほかに、冥菓道という特殊な方法で、まじない菓子を拵えてまして、その、わたしは、これから継ぐ予定なので、まだ未熟で、それで、あやかしのみなさんの力を借りています」


 言葉を選びながら美美は、そこまでひと息に言うと、いったん言葉を切った。


「井桁、こんな感じでいいのかな」

「いいんじゃね。美美の気持ちがこもってればさ、相手が誰であろうと、伝わるよ」


 井桁の答えにほっとして、美美は、続けた。


「このたび、こちら明神さまの金木犀に宿られていらっしゃる緑珠姫さまから、まじない菓子のご注文をいただきまして、え、っと、御所望菓子というそうですが、それは、まあ、さておき、以前うちの店でつくりましたものを、さらに強力にしてとのご依頼でして、材料も特別なものを集めております。こちらのうちの店憑きのあやかし、お茶くみさんの井桁より、政子さんの乙女心を分けていただくのがよいとの注進がありまして、その、このたび、こうして、お願い申しあげた所存でございます」

  

 敬語で舌を噛みそうになりながらも、なんとかお願いを伝え終えて、美美は、ほっと息をついた。


 それを待っていたかのように、尼僧姿のあやかし政子さんの顔がくしゃりと曇り、その目から、はらはらと涙が……


「え、血!?血涙振り絞ってる、の!?」


 政子さんの両目から滴り落ちたのは、朱紅の雫だった。

 尼僧姿ゆえに紅もひかずにいる唇に、雫は頬を伝って、ぽっ、と明るく朱を灯した。

 それから、政子さんは、懐からおもむろに、袱紗ふくさに包んだ何かを取り出した。

 国宝の梅蒔絵手箱と同じ八重の梅花が金糸で細かく全体に刺繍された袱紗の中には、赤ん坊の手のひら大の水晶玉が包まれていた。

 政子さんは、水晶玉に唇をそっとつけた。

 ひやりとした感触にか、少し眉をひそめて、それから、ふーっと、息を吹きかけた。

 すると、唇についた朱紅の雫が水晶玉の中へと吸い込まれていった

 朱紅の雫は水晶玉の真ん中まで至ると、そのままぷるんと収まった。


 水晶玉の中心部に、朱紅の雫が浮いている。


 これが政子さんの乙女心。


 政子さんは、水晶玉を袱紗でていねいに包みなおすと、美美に差し出した。


 なんともおとぎ話のようであるが、深入りをせぬようにしながらも、あやかしを身近に幼い頃から暮らしてきた美美には、それが単なる幻想ではなく、実体を伴う崇高な感情の結晶なのだとはっきりとわかった。


 普通の暮らしに溶け込むことを望むうちに鈍麻していった感覚であっても、その家系の宿命からは逃れられないということだ。

 

「たいせつに扱わせていただきます」


 美美が御礼を言うと、尼僧姿のあやかしは微笑んで、それから、気力が尽きたとばかりに、輪郭がぼやけ初めてやがて靄になってしまい、尼僧の着物はへたりと腰掛石の上にくずおれた。


「この尼僧の衣装はどこで準備したの。ここは神社だし」

「ああ、地元のサークル」

「サークル?」

「コスプレサークルがあるんだよ。地元のイベントに出たり、あとは、小田原城の撮影会にちょくちょく遠征してるらしい」


 小田原はコスプレ写真館もあり、お城がリニューアルしてから、いちだんと撮影会でにぎわっているらしい。小田原北条氏には根強いファンがいるのだ。


「衣装は、授与所に預けておけば、巫女さんのサークル会員が返しておいてくれる手はずになってる。

 さて、と、後は、姫んとこ寄って、さくっと用を済ませて帰ろうぜ」


 井桁は手早く衣装をたたんでまとめると、さっと、授与所に駆けていって衣装を預けてもどってきた。


「ごきげん麗しいといいけどなー」

「そうね。すんなり桂花糖けいかとうを分けてもらえればいいのだけれど」

「桂花糖が残ってるかどうかが問題だけどな」


 二人は、神門を抜けて、緑珠姫の宿る天然記念物の金木犀の元へ向かった。



*文中の流鏑馬神事の次第は三嶋大社発行の『三島大社〈略史〉』を参考にしました。

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