第二十八話 たたり石にて戀度鴨
桜川沿いの遊歩道から明神さまこと三嶋大社の境内の敷地の外側の道を辿って、ぐるりと回り南に抜けて、正門となる大鳥居に美美は到達した。
畏怖堂々とした佇まいに、美美は、「お久しぶりです」と、心の中で挨拶をする。
明神さまこと三嶋大社には、山森農産の守護神である
中世以降では、伊豆に
源氏再興に成功するや、頼朝は社領神宝を奉納し、三嶋大社は、よりいっそう武門武将の崇敬の対象となった。
さらに伊豆国 一宮として、伊豆への玄関口として、天下にその名は広まっていったとのことであった。
「さて、と、神馬舎は、本殿への神門の手前にあったんだっけ」
美美は頭の中で、境内の案内図を広げて、井桁が誰かと待ち合わせをしているという神馬舎の位置を確認した。
この神馬というのは、毎朝、大社に祀ってある御祭神が、その馬に乗って箱根山に登るという伝説から、子どもの成長と健脚を祈るために祀られているのだそうだ。
「平日はあまり人いないのよね。今の時機だと、週末は、金木犀のお花見の人が増えそうだけど」
美美は大鳥居をくぐると、いったん立ち止まった。
大鳥居をくぐってすぐ右手に、たたり石と呼ばれる歴史ある
「たたり」というのは、本来は怨霊が祟るという意味ではなく、「娘子らが 績み麻のたたり 打ち麻懸け うむ時なしに 恋ひわたるかも」と万葉集の歌にも詠み込まれている、古くからある織物の道具「たたり」に由来している。
万葉集のこの歌は、麻の細く裂いた繊維を1本ずつつないで糸にしていく作業も出来ばえも飽きないように、あなたのことも飽きずに恋し続けていますといった、恋心を歌っている。
たたりとは、糸のもつれを防ぐための道具である。
台に三本の柱状の木の棒を立てて、そこに糸の
そのような用途から、「たたり」は、整理を意味する語として使われるようになった。
たたり石は、もともとは大社の前の旧東海道の中央にあり、その昔交通整理の役割を果たしたとされている。
ところが、後に交通量の増加に伴い、この石を移そうとしたが、そのたびに事故が起こり、いつしか祟り石とも言われるようになった。
大正時代に大社の境内に移して後は、交通安全の霊石として拝まれるようになった。人々から尊崇されることによって、石も落ち着いたのであろう。
井桁によると、人とあやかしの間が不穏になると、その石に、明神さまのお遣いさんが陣取って、お互いの関係修復を図るとのことだった。
美美は、ここのところこの一帯が不穏だということから気になって、たたり石をちらっと見やった。
すると、何かもやもやしたものが、たたり石の辺りに漂っているのが見えた。
目をこらして見ても、
不吉な気配ではないが、かといって、神々しい光気を放っているようでもない。
「もしかしたら、
美美は、言祝町のあやかしたちが、人の形をとるのに、着る物が必要だというのを思いだした。
とは言っても、今、美美は昨晩泊まる用に用意して替えた下着しか持っていない。
「あ、スカーフ」
美美は、バッグに結んである大判のスカーフをするりとバッグからはずした。
「これくらい大きければ、パレオみたいに使えるんじゃないかな」
履き物は、ホテルで履く用に持っていった室内履きがあった。
美美は、たたり石に近づくと、辺りに人がいないのを確認してから、畳んだスカーフと履き物を重ねて石の上に置いた。
と、境内の参道手前の左手にある
風は、スカーフを吹きあげて、器用に腰巻のような形をとって、もやを包みこんだ。それから、スカーフの端同士を結び合わせたところで、ふぉんっ、という音とともに人の形が現れた。
「うむ、ちとすーすーするが、いた仕方あるまい。娘御、かたじけない」
丁寧なような武将のような妙なしゃべり方をする
その彼の着ているのは、腰巻――サモア諸島で見られる一枚布で着こなす腰巻風衣装のラバラバだった。見かけはファイヤーダンスのダンサーのようで、神社の境内ではかなり違和感があったが、辺りに人がいないのが救いだった。
人形になった明神さんのお遣いさんと思われる男は、大きなくしゃみをした。
「人というのは不便なものですな」
鼻をすすりながら、彼はぶるっと身震いした。
「え、と、寒いですよね。困ったな」
天気はいいとはいえ、秋の気配の空気は上半身裸では肌寒いであろうと思われた。
美美は、もう一度バッグの中をかきまぜた。
「あ、とりあえず、これを羽織っておいてもらおう」
美美は、バッグの底から、携帯用のレインコートを取り出して
「明神さまのお遣いさん、ですか?よかったら、これをお使いください」
と、男に渡した。
男は、ぺらぺらでくしゃくしゃのレインコートを広げて手を通した。
腰巻にレインコート。
ますます怪しくなってしまったが、上半身裸のままよりはましだった。
「親切な娘御であるな。かたじけない。私は、正しく、明神殿の遣いである。いつもは本殿裏の桂の木に宿っておる。ところで、娘御は、なんという名でござるか」
男はやはり明神さまのお遣いさんだった。
ふだんは木に宿っているということは、
いずれにしても、挨拶をしておこうと思い、美美は名乗った。
「わたしは、言祝町の菓子司美与志の家のものです。美美、といいます」
「おお、では、冥菓道を継ぐものがもどってきたというのは本当だったか。なんと、もしや、あのこんまいおさなごだったのが、すっかり娶り娶られる年の頃になっておったとは。私は、明神殿の許しがなければ自由に外へも出られぬ身。ゆえに、挨拶にもうかがえずにおった。失礼いたした」
大げさな物言いに、少々閉口しながら、美美は知りたいことを尋ねた。
「時間がないので、端的にきかせてください」
「うむ、娘御、何を知りたいのかな」
「この石、たたり石に、明神さまからのお遣いさんがいらっしゃるってことは、この場が不穏だってことですよね。私の住んでいる言祝町をはじめとしたこの一帯が、なんだか落ち着かないんだそうです、ここのところ。このままだと、何か危険なことが起るんじゃないかと思って、心配なんです」
「ふうんむ」
お遣いさんは、腕を組むとうなった。
「言祝町は、治外法権なのでな。明神殿の力も及ばないのだ」
「そんな強い結界があるんですか」
「ここの辺りは、ほれ、たたり石があるくらいだからな、いろんなものが溜まりやすいのだよ、娘御」
「では、それを、お遣いさんが、整理してくださるのですね」
お遣いさんはうーむと考え込むように目を閉じると、しばし瞑想に入ったようだった。
それから、ゆっくりと目を開けて、
「さて、一服してまいらぬか」
と言って、たたり石の陰から、茶道具一式と、見るからにお供え物の
美美の問いには答える様子はなかった。
「いえ、急いでますので」
美美は、うず高く積まれたお供え菓子を眺めながら言った。
「そうであるか。では、帰りに寄るがよい」
お遣いさんはそう言うと、たたり石に腰かけて、両膝に両肘をついて、居眠りを始めたのだった。
「なんだか頼りないのね、明神さまのお遣いさんって。もっと霊験あらたかっぽいのかと思ってた」
美美はつぶやくと、井桁の待っているであろう神馬舎を目指して歩き出した。
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