第十二話 甘味の品格
店の奥から、お茶の香りとともに、
いつも以上にうまくいれられたのか、井桁はご機嫌だ。
「お待たせっ」
井桁はすっと茶托をテーブルに置いて、その上に湯呑茶碗を置いた。
繊細な筆遣いの跳ね兎文の色絵湯呑だった。
緑珠姫の御所望菓子の桂花白雲片が、月に生えているという金木犀にちなんでいるようだとのことから、同じく月にちなんだ生きものの兎をもってきてくれたのだ。
さすがあやかし。
一見子どもに見えても、年の項は
朱塗りの菓子皿に懐紙が敷かれ、そこには純白のカステラのような形の菓子が載っていた。
「これは、富山のお菓子よね?」
美美は、お菓子を手で割って、口に含んだ。
白い泡が口の中で溶けて、上品な甘みが広がる。
淡雪を食べているようだ。
目を閉じると、雪の野辺をはねる、湯呑から抜け出した白うさぎの姿が見えた。
はね跳ぶ白うさぎの足裏の体温で、雪がじわりと溶けて足跡ができる。
白うさぎは、ひとしきり跳ねまわった後に、最後に大きく飛び跳ねて、湯呑にではなく、月に帰っていった。
「
あつらえたかのような「月」からの連想。
「富山の銘菓月世界って、満月に照らされた雪深い街って風情がある。実際は、暁の空に浮かぶ月の光、月影の美しさのイメージからつけられたそうだけど。この極甘さは、洋菓子にはないわ。メレンゲの甘さはひたすらキュートだけど、このお菓子の甘さは、和三盆の品格が感じられる。新鮮な鶏卵の白身とグラニュー糖や白双糖といった結晶の大きな砂糖を使うのは一緒なのに、熟練の職人の手で細かい結晶の粒に丹念に研ぎ上げられる和三盆糖を加えると、こんなに違う風味になるなんて」
美美は、白い甘味にうっとりとしながら、語っている。
「栗せんもいいけど、館の旦那が、
井桁がお菓子の出所を説明した。
全国御清水サミット運営委員会は、日本各地の湧水の町によって組織された、水資源の有効利用や環境保全、湧水による街起こしなどの情報交換機関だ。発起人が福井の湧水の郷、奥越大野出身ということで、彼の地では湧水のことを“御清水”と言うため、それが会の名称に使われている。
三島も、富士山の伏流水の恵みの地ということで、郷土資料館の新館長が参加してるとのことだった。
「月をイメージしたお菓子やパンって、月餅みたいに満月だっり、クロワッサンみたいに三日月だったり、形そのものって感じのが多いけど、これは、月の世界をイメージしてる。はかなげが月影を映しとったらこうなったのね。詩情、というのかな、和菓子独特の世界よね、抽象的なものを形にするのって」
ひと口食べれば、情景が広がる。
人の甘味の記憶を刺激する。
――そんな和菓子をつくりたい――
美美は、あらためて、自分が和菓子つくりに魅かれていくのを自覚した。
それを知ってか、井桁がうれしそうに美美に視線を向けている。
その視線に気付いて、ますます、今さら、正体不明の自称・朧桜の君のいれたお茶を飲んでしまいましたとは、言い出しにくくなってしまった。
美美は、薄手の湯呑に顔を近付けると、ぬるめのお湯でじっくり出した深蒸し茶の香りを深く吸い込んだ。
それから、お茶を口に含んだ。
「ぬくまるー。熱くはないんだけど、じわっとくる。やっぱり、井桁のいれたお茶が一番。帰ってきたって感じがする。さっき飲んだのも美味しかったけど、ぜんぜん違う、くつろぎ度が」
つい調子にのって行って言ってしまった。
先に告げなければならなかったのに、何言ってるのよ、自分、と美美は思わず自己突っ込みを入れた。
「さっき、飲んだ?」
井桁の問いかけに、美美は、言葉を詰まらせた。
「井桁、あの、お茶、ね、実は」
「飲んだって、お茶、飲んだのか。茶葉なかったよな」
「なかったはずなんだけど、あったのかな」
「日本茶じゃないってこと?紅茶か中国茶か何かあったっけ」
「あの、あのね、そうじゃなくって、お茶、飲んでしまったの、いれてくれたのよ、彼が」
「飲んでしまった?彼が?」
井桁はきょとんとしている。
「ごめん。井桁がもどる前に、長い髪の男のあやかしが現れて、その、私、疲れてたみたいで、あんまり自然にお茶を差し出されたので、飲んでしまったの」
そこで、美美は、一気にお茶を飲み干した。
明神さんの草団子を、お茶請けに食べてしまったとは、伏せておいた。
お茶がのどをすべりおりて胃の腑に落ちたら、少し落ち着いた。
「長い髪?男のあやかし?そいつ、名乗った?」
井桁は、思ったほど感情を露わにせずに、たずねてきた。
「朧桜の君って名乗ってた。うちの菓子見本帖で見たことのある模様の着物をはおってた」
「おぼろ……さくら……」
井桁は、その名を口にすると、少しためらってから
「その、そいつは、冥菓の君とは名乗らなかったか」
と、確認してきた。
「名乗らなかった。けど、もしかして、彼が、あやかし側の冥菓道継承者?緑珠姫が言っていた冥菓の君、すずろ?」
「そいつ、お茶をいれただけか」
井桁は問いかけには答えずに、何か心配しているようだった。
「お茶をいれてくれただけ、だったかな」
美美はとぼけようとしたが、そんなすぐさっきのことを忘れましたとは言い逃れできそうになかった。
「お茶をいれてもらって飲んで、お茶菓子を出してもらって食べて、それから、派手な模様の着物を肩にかけられて、そう、その模様が、菓子見本帖にあった朧桜の覚書のページに載っていたので、それから……」
「まだあるのか」
井桁が困ったような顔で美美を見た。
「髪の毛を抜かれたわ」
「髪の毛を抜かれた?どうやって?」
「どうやって、って、こう、引っ張られたのよ」
状況説明がうまくできそうにないので、美美は、事実だけを述べた。
「わかった。そいつが誰なのかは、会ってみないとわからないからな。見当はつかないわけじゃないけど」
井桁はそう言うと、再びたずねた。
「そいつのお茶飲んだのは一杯だけか」
「ええ」
「じゃあ、あと二杯、飲んで。新しい茶葉でいれ直すから」
井桁は、そう言うと、再び店の奥へと入っていった。
「特深蒸し茶、一煎だけで捨ててしまうのもったいないんだけど」
美美のつぶやきに、井桁からの返事なかった。
約束を破ったことに怒らずにいる井桁に、美美は不安を感じた。
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