第五話 癒しの袂と明神さまの草もち
「お忘れになってしまったのも無理のないことです。ずっと、お会いさせていただけなかったのですから」
あやかしの青年は、はおっていた打掛のような着物をおもむろに脱いで、ふわりと美美にかぶせかけた。
ゆるやかに舞い降りてくる打掛に、美美の視界は緋色に染まった。
月影
ニッキの匂いが、いちだんと強くなった。
「美美さん、少し我慢してください」
あやかしの青年は、美美の腕をつかんだ。
「すぐ済みます」
「え?」
彼の言葉の意味がわからず茫然としている美美は、手首をつかまれ引き寄せられて、あやかしの青年の腕の中にいた。
――苦い。けれど、苦いだけじゃない――
美美がすんと鼻を鳴らすと、ニッキの匂いが目の奥を刺激した。
――苦くて、甘くて、なつかしくて……
安心感が湧いてきて、美美は彼の腕の中にもたれかかった。
着流しの生地は着るうちにやわらかくなった馴れ具合で、それがやんわりと肌に気持ちがいい。
「あなたは何という名前なの」
「そうですね。この着物の柄の冥菓にちなんで、
「朧桜の君?」
不審げに問い返しながらも、美美は、もうあまり追及する気がなくなってしまっていた。
心地よいのだ。
自分を包んでくれる腕の中にもたれかかっていることが。
彼のさりげなくやさいい身ごなしも、美麗な容姿も、心地よい声も全て、美美を癒してくれるのだ。
「冥菓の
美美は、店を継ぐというか、
今、目の前にいるあやかしの青年が、もしかしら、
彼の手が、美美のうなじを、下から上にすっと撫でた。
「痛っ」
美美は鋭い痛みに声をあげた。
「な、なにをしたの」
美美が突き飛ばそうとするより前に、あやかしの青年は、美美からすっと離れていた。
手には、美美の髪が数本握られていた。
「なんてことするの」
美美は一気に覚めて、声をあげた。
「申しわけございません。でも、どうしても、抜きたての毛髪が必要だったのです」
「抜きたての毛髪?」
美美は、うなじの髪の毛の抜かれた辺りをさすりながら、少し涙目になっていた。
痛みが鈍く残っている。
無理やり毛を抜かれるのは、痛いものだ。
健康な毛であれば、なおのこと。
「人間の新鮮な髪の毛なんて、ろくでもないことに使うんじゃないの。
口に入れるものを扱うところで、髪の毛いじったりするのもいただけないわ」
我に返って美美は問い詰めた。
あやかしの青年は、それには答えず涼しい顔で、店の奥から菓子折をのせた
お盆には、三嶋大社の
「明神さまの草もち!」
美美の目が輝いた。
「確か、お好きでしたよね。美美さんが帰ってらっしゃると聞いて、つきたてのを求めてまいりました」
美美はこの餅菓子に目がなかった。
見るからにもっちりとして甘々なこしあんたっぷりの草もちは、一つ食べてしまったらあとひきで、全部平らげてしまわずにはいられない。
目にやさしい草色のころんとした形、もっちりとした舌触り、歯をたてると、微かにたちのぼる
蓬の香りはひと噛みごとに匂いたち、春の野辺へと美美を連れていく。
一つ、二つと胃におさめてから、美美は、はっとして彼に問いただした。
「どうして、わたしが帰ってくるって知ってたの、誰に聞いたの」
彼は微笑を浮かべたまま、口を開こうとしない。
これは、あやしい。
こういう時に限って、井桁がすぐにもどってこない。
と、思ったところで、美美は、思いだした。
――おれがいない時にお茶いれて飲んじゃだめだからな――
井桁の言葉が脳裏に響く。
お茶どころか、お菓子まで食べてしまった。
それに、髪の毛まで抜かれてしまった。
井桁は、何かを察して、美美に釘を刺したに違いない。
それなのに……
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