第四話 冥菓「朧桜」
人見知り橋を渡ると、そこは、
おめでたい名前だ。
おめでたい名前を付けることで、邪心あるあやかしたちを遠ざけたとも、あやかしたちに邪心を抱かせないようにしているとも言われている。
実際のところ、効果があるかどうかはわからない。
さて、実は、この町の名前には、重要な案件がある。
最近区画整理があって、町の一部の名前が変更になったのだ。
町の大部分は言祝町のままだが、その一部変更になった部分はごくあっさりとした名前の川東町となった。
名前は変わっても、区画は変わっても、土地そのものが変わったわけではないので、そこに元から棲んでいるあやかしたちも、変わらずそこにいるのだった。
が、その頃から、少しずつ、あやかしたちの心がざわざわしだしたとの噂が流れていた。
もちろん、
美美は店舗兼住いの実家菓子司美与志に着くと、外階段を上り二階の家に荷物を置いてから、内階段を下りて一階の店へ入っていった。
内階段は小部屋につながっている。
小部屋の土間に置かれたつっかけをはいて、美美は店へ入った。
道路に面した店の出入り口はシャッターがしまっている。
裏の勝手口もちゃんと施錠してあった。
母が具合を悪くして店を休んだのはここ数日だと聞いていたが、そのわずかの間に、人の出入りがない場所は、ひんやりとした違和感を漂わせていた。
人が動き回らないと、空気も澱む。
「疲れたな……」
美美はつぶやくと、店舗兼住居の我が家に入って、六坪ほどの店舗部分のショーケースの脇に置いてある椅子に腰かけた。
この椅子は祖母が嫁入り支度で誂えた軽井沢彫の丸テーブルのセットの一脚だった。
磨き込まれた地色の赤茶が艶々と美しい。
「
椅子の背もたれにからだを預けると、美美は、はぁ、っとため息をついた。
疎遠だった父からの手紙、いつも元気な母の入院、気を張っていたのだ、ここに来るまでずっと。
地元に帰ってきて、人とあやかし両方の幼なじみに会って、ほっとゆるんだり、でも、妙に気をつかってしまったりもして、目まぐるし過ぎたのだ。
美美は、椅子にもたれたまま、改めて店の奥を眺めた。
店の奥は、作業場と内階段のある小部屋があって、二階が住まい、裏手にはちょっとした庭があって小さな蔵が建っている。
庭の手入れは祖父が趣味でしていた。
店の奥の六畳敷の小部屋は、居間でもなく客間でもなく、ただ奥の間と呼ばれていた。
奥の間は、店の奥の作業場の脇に作られていた。
父が昼寝をしたり、ごはんを食べたりできる、休憩スペースだった。
けれど、美美は、滅多にそこに入らせてもらえなかった。
たまに父がいない時にあがりこんでうたた寝をしてしまうと、夢うつつの耳に、おかしな囁き声がきこえてきたり、髪の毛をひっぱられたり、口のまわりに紅砂糖がつけられていたりと、奇妙なことが起こった。
いたずらをしていたあやかしには、お茶くみさんの井桁も混ざっていたらしいけれど、本人曰く、美美を守ってたんだ、とのことだった。
今となっては、なにもかもなつかしい思い出だ。
そんなことを思いながら、うとうとしかけた時だった。
ふっと濃いお茶の香りがした。
――ああ、この
「井桁、もどってきたのね、おかえり」
美美は、目を開けると、日本で二番目に古いと言われている
「おいしい。井桁、ありがと……」
言いかけて、美美が、店の奥をのぞくと、食器棚と壁の隙間に吸い込まれた影が見えた。
赤い裳裾が風もないのにひらひらとはためいた。
「井桁って着物着ることあったっけ」
美美は不審に思い、茶碗を置くと、立ち上がって店の奥へ入っていった。
「井桁じゃないの?だれ?」
美美が平静を装って問いかけると、棚と壁の隙間から、赤い裳裾をひらめかせて、するりと人の形のあやかしが現れた。
整った顔立ちは涼し気で、蜜色の長い髪は、艶めいて背に流れている。
美美は、思わず見惚れてしまった。
が、すぐに、すらりとした立ち姿の彼がまとっている着物の柄に目が惹かれた。
その着物は、赤い裳裾の打掛のようだった。
そして、着物全体に散らされた柄は、菓子司美与志の冥菓の一つ「
いつだったか、父が、神経質なほどに手を洗って乾かしてから、そっとページをめくっていた
菓子見本帖には、繊細な筆遣いの菓子の
菓子見本帖は、横長の
その一枚に、緋色の桜がぼかし模様で一面に描かれ、真ん中に
美しく描かれた春の朧夜の桜の
そこに、なぜ、艶美な姿を打ち消すようにニッキを散らしてあるのか、美美にはよくわからなかった。
わからないのは、目の前にいる美形のあやかしの正体もだ。
「え、と、どなた?」
美美は、記憶の中の我が家のあやかし達を探ってみたが、見当たらなかった。
そんな戸惑う様子の美美にかまわず、彼は、すっと美美に近寄ると耳のそばでささやいた。
「美美さん、お久しぶりです。すっかり大きくなられて」
声のトーンや口調の穏やかさ、きれいな言葉のつかい方には、覚えがあった。
そっとやさしく包み込まれているようで、決して嫌ではなかった、あの感覚。
耳もとで感じた彼の息は、父からの手紙と同じ香りがした。
なつかしい、ニッキの匂いだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます