第二章30『発見』

 ──声が、鳴り止まない。何かが俺を、離してくれない。


 その少年の心は荒んでいた。数日前、まるで夏の高い青空のように澄んでいたその心は、今や冬の曇天のように、重くくすんで、濁っていたのだった。


 その少年の頭の中にはいくつもの『声』が鳴り響いていた。それらの声の主は皆聞き慣れたものだった。それらの声の大多数は少年の仲間によって発せられたものだったのだ。しかし一つ一つでは耳障りのいい声でも、数多あまたのそれらが混声ミックスされたものはあまりに煩雑としていた。その声の波が、少年の頭をかき乱してしまっているのだった。


 ──ああ、うるさい。うるさい。うるさい。うるさい。


 心に黒く淀んだ何かを持ち、頭にその声の雑音ノイズを響かせた少年は、そう心の内で呟いた。今やその目からはかつてと比べ物にならないほど生気を感じられず、黒ずんだその目元からはその少年の並々ならぬ疲弊が伺える。しかしそんな少年の辛苦などつゆ知らず、『声』は少年に語りかける。


 その『声』の中、一際大きく、そして悪意を孕んだものが言った。


『どうか、今度の遠征に参加しないでください』


 その、聞きなれた相棒の声であり、しかしその相棒から発せられていない言葉に、翔は思わず毒づく。


 ──うるせぇ。


 しかしその『声』は勢いを弱めることなく言った。


『カケル、貴方はその力を封印した方がいい。もし今後もその力を使い続けたとしたら、いつか貴方は絶対に後悔することになります』


 ──うるせぇ。


 翔はまた毒づく。しかしその翔の悪言に怯むことなく、『声』は翔に語りかける。


『そう……ですね。カケル兄ちゃんは英雄ヒーローでしたもんね』『最近、頑張ってるな。凄いと思うぞ。この調子で頑張れ!』『……お疲れさん、カッコよかったぜ? 英雄ヒーロー』『……ですが、でしたら、あなたも覚悟を決めてくださいね』『……大言壮語はもっと実力付けてから言うんだな』『本当にすまないな、カケル』『……無事に、帰ってきてくれますよね?』『……楽しみにしてますよ、カケル』


 ──うるせぇ。うるせぇ。うるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇうるせぇ。


 それらの声は、翔の心の中に宿った黒い何かを増長させるかのようになり続けた。その声を必死に振り払おうとする翔だが、かえってその行動がその『黒』の侵食を許すこととなった。


「……あ……」


 重く、鈍く、霞んでいく視界の中、翔は何かに救いを求めるように目を大きく開いた。しかしそこにはただ虚空が広がるだけで、翔は身体から湧き上がる『熱』を感じて呟いた。


「……そんな、俺は、ただ……」


 その翔の呟きも、誰にも届くことはない。失意とともに、翔の身体はその『黒』に堕ちていった。



 ********************



「……ェル! ……ケル!」


 遠くから聞こえてきたその声に、翔の意識は緩やかに覚醒へと向かっていく。その意識が急速に現実へ向かうことになったのは、その声の主が翔の身体を揺さぶったからであった。


「……カケル! おい、カケル! 大丈夫か!?」


 その悲痛な叫びに、翔の意識は漸く完全に覚醒する。ぼんやりと開いた翔の視界に、翔の方を見る数多の仲間達が映る。


「……大丈夫か? カケル」


 辺りを見渡す翔に三度そう呼びかけたのは、橙色オレンジの防寒具に身を包んだフレボーグであった。彼のマスク越しの顔をようやく認識してから、翔は返事をする。


「……あ、はい。大丈夫っす……」


「大丈夫じゃないだろ! 何ぼーっとしてたんだ、らしくないぞ」


 そのぼんやりとした翔の返答に、フレボーグは翔を叱り付けるようにそう言った。そのフレボーグの言葉に、今自分が何をしているのかを思い出した翔は、慌ててその頭を起動させる。


「……っ! すいません、大丈夫っす」


 そう言ってぺこりと下げた翔の頭に、ひらりひらりと雪が舞い散る。頭を下げた翔の視界に映るのは、何の濁りも持たない白のキャンパス。翔を含めた遠征隊は、既に基地を出発し、猛獣けもの跋扈ばっこする外の世界に足を踏み入れていた。


「……寝不足か? しっかり頭起こしとけよ。ここじゃ油断は禁物だからな」


 意識を取り戻したらしい翔にそう言って、フレボーグは前方の列に戻っていった。その言葉は翔には少し厳しくも聞こえたが、その言葉が翔を思いやったものであると悟った翔はフレボーグに心の中で感謝して、改めてあたりを見渡す。


 色とりどりの遠征隊の防寒具を除いて、やはりその場には白と黒の色しか存在しなかった。今も翔の視界の中でちらりちらりと舞い散る雪は、この世界の平均降雪量を考えればまだ穏やかな方であった。いつ見ても代わり映えのしない、その白銀世界を見て翔は再度実感する。


 ──そうだ、よな。遠征に来てるんだよな、俺。


 そう思うのと同時に、翔は先程自分が囚われていた不吉なイメージのことを思い出す。黒く淀んだ世界に、一人。翔はあそこで何かを煩わしく思っていた。何かに抗っていた。そして、何かに飲まれていった。


 ──あれ? 俺はあの後、どうなったんだっけ……。


 翔が垣間見たあのイメージが何を意味するか翔には分からなかった。しかしただ一つ分かったことは、何か自分の中に良くないものが芽生えつつあるということだった。そしてその芽生えた何かが、翔を苦しめているというのは間違いなさそうだ。だがその感情の正体が何なのか、その黒い感情が翔に何をもたらすかまでは、翔は知ることが出来なかった。


 そうしてまた考え事をしてしまいそうになる自分を必死に律して、翔は現実に意識を取り戻す。


 ──何やってんだ、俺。……集中しろ。ここは外の世界なんだぞ。


 そうして気合を入れ直した翔は、駆け足で前方にでき始めた遠征隊の列に加わる。翔が列の最後尾に並んだのを見て、元二は皆に通信を繋げて歩き出した。


「……よし、じゃあ歩き始めるぞ。周囲、警戒しとけよ」


 そうして歩き出した遠征隊の様子を見るに、どうやら翔が考え事をしていた間遠征隊を待たせてしまっていたらしい。自分の迂闊さを改めて猛省してから、翔も前方に倣い歩き出した。


 しゃくり、しゃくり、と雪を踏み分け歩く音だけが暫くその場に響く。雪原を歩行する遠征隊は、今基地を中心として辺りを巡回していた。その退屈にも思える進路も、今回の遠征のを考えれば無理もない話であった。とはいえ、どうしても飽き飽きとしてしまうその現状に、翔はまた集中力を欠いて考えを巡らせるのだった。


 ──フィル、元気にしてるかな……。


 翔が最初に案じたのは今も基地に眠る相棒の体調であった。そこから考えは基地の子供たちのことに至ってから、ふと気付いた。


 ──あ、そういえばさっき、先輩にお礼言うの忘れてたな。


 先程不吉な予感ビジョンにうつつを抜かしていた翔を現実に連れ戻したフレボーグに、翔は感謝を伝えるタイミングを逃していたのだった。慌てて翔はマスクに付いたダイヤルを回し、通信をその男に繋ぐ。


「……あ、あのビー先輩」


 その翔の声を聞くやいなや、遠征隊内での非匿名コードネーム『ビー』のフレボーグは、それに反応したようだった。


「……さっきは、その……」


 ありがとうございました、とその後に続けようとした翔の言葉が、通信を繋いだその男によって遮られた。


「あー、さっきは悪かったな、カケル。ちょっと厳しく言いすぎた」


 そのフレボーグの予想外の言葉に、翔は慌ててそれを否定する。


「い、いえ! むしろありがたかったです。さっきは俺、ちょっとぼーっとしてたんで」


 翔はその先輩から避難の言葉こそ掛けられど、謝罪の言葉など掛けられることなどないと思っていた。事実その先輩フレボーグが注意した通り翔の意識は散漫であったし、それを指摘したフレボーグの言葉も決してトゲのあるものではなかった。それでも翔のことを気遣いそう謝罪したフレボーグの優しさに、改めて翔はその先輩のことを好きになるのだった。


 その翔の言葉に、「ハッハッハッ」と少し笑ってからフレボーグは意地悪そうに返した。


「なら、もう遠征に来てるって覚悟は出来てるよな? 今回の遠征の目的、俺に説明してみてくれよ」


 その翔を試すようなフレボーグの言葉に、翔は即座に答える。


「基地周りの巡検と、まだ姿も見ない『新型』の猛獣の調査、でしたよね? 前者はキラ騒動の影響から。後者は……もはや付け加えたようなもんだと思いますけど。」


 そうスラスラと答え始めた翔だったが、最後の方はそうして言葉を濁すことになった。それはその二つ目の目的である『新型』との遭遇が、これまで一度も果たされていないことが理由だった。


「……ホントにいるんですかねぇ、『新型』なんて猛獣やつ


 そう嘆息する翔に、フレボーグはその弛みを注意するように言った。


「あのな、カケル。遠征隊おれらにとって新種の猛獣なんてものは恐ろしくて仕方ないもんなんだよ。相手のことを知らない、ってだけで人間は弱くなるからな」


 そう言うフレボーグは、少ししてから続けた。


「……それこそ、お前の大嫌いな『先輩』もそれを舐めてかかって大変な目に遭ったような奴だからな。油断禁物だよ、この世界では」


 そのフレボーグの言葉に翔は思わず目を見開く。


 ──『先輩』が、って……。あの人、遠征隊最強って言われてなかったっけか……?


 翔はその事実を認めたくないため回りくどい言い方になったが、事実翔が嫌うその『先輩』、ランバートの戦闘能力は遠征隊の中でも群を抜いていた。もちろん彼も最強というだけで、フレボーグの話す時代に彼がどれくらい戦えたのかは翔には分からない。


 しかし少なくとも、身近に存在する『最強』の存在が敗れたというその事実は、翔にとってあまりにも衝撃的だった。


「……あれは、そう……初めて剣歯虎サーベルタイガーに遭遇した時の遠征だったな。その時はまだマンモスくらいしか狩ったことのなかった旧遠征隊おれらは、当時の隊長と最大戦力を失って、何の成果もなく基地に帰ることになった」


 そう語るフレボーグの口調はかつてないほど冷たい。そのことを実体験のように語っているあたり、その時既にその男も遠征隊に入っていたのだろう。そしてその筆舌に尽くしがたい地獄を体験したのだ。そう悟った翔は、その先輩への謝罪を口にしていた。


「……すいませんでした。ちょっと、いや、大分油断してました」


「いいって別に。お前が今色々と大変なのは知ってるしな」


 そうしてその優しい男はいとも簡単に翔を許した。そしてその気まずさを吹き飛ばすように、フレボーグはこう続けた。


「そうそう、ランはあの事件以前はホント弱っちくてなぁ……。それこそカケル、お前とそんなに……」


 そうしてその続きの言葉を発そうとしたフレボーグの口が、ふと止まった。それは彼が視界にとあるものを見つけたからであった。


「……っ! あれは……!」


 それと同時に元二もその存在に気付いたようで、思わず隊列の先頭で足を止めた。そして全員に通信を繋げてから言った。


「……総員、周囲を警戒しろ」


 そう言いながら元二が向けた視線の先には、雪原に横たわる猛獣がいた。


 その猛獣けものは、腹から大量の血を流し、今にも息絶えようとしている剣歯虎サーベルタイガーであった。

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