第二章・序『氷の子供』

第二章01『差』

 水に揺蕩うような深い眠りから意識が覚醒してから、翔が毎朝取る行動は変わらなかった。寝床カプセルを出、はじめに確認するのはその日の日付だった。


「……今日も『飛んで』ない、か」


 その安全を確認してから、赴く場所はいつも変わらない。基地の端、立ち入り禁止の柵を越えしばらく階段を上ると、そこにあるのは彼の休憩所オアシスだった。


 休憩所といってもそこは普段は喫煙所として使われている空間だった。タバコの匂いを嫌う翔にとってそこは訪れるはずもない場所のように思えたが、それを差し引いてもそこから見える景色が壮観だったのだ。


 喫煙時の開放感を出すためか、その空間は床を除いてガラス張りになっている。基地内は基本禁煙な上に、屋外そとで吸おうにも吸いたくもないガスまで吸ってしまうという訳で、翔の上司は泣く泣くここで喫煙しているそうだ。それでも時々監視フィルヒナーの目を盗んで吸っているのを翔は度々目撃しているのだが。


 ガラス張りのためそこからは外の世界が一望出来る。いつ見ても『白』しかないその景色も閉鎖的な基地の内装に比べれば絶景である。加えて早朝にはまだ喫煙者元二もここに来ていないため、澄んだ空気でその景色を眺めることができるのだった。そのため、翔はその場所がお気に入りだった。


 ふぅ、と一つ息を吐く。吐く息が白く変わったのは、そのスペースまでは暖房が行き届いていないためだ。その寒さに身震いをしながらも、しばらく翔はそこでもの思いにふける。


 といっても何かを具体的に考えているわけでもなかった。それは翔の毎朝の儀式ルーティンだったのだ。そして数十分後、翔はその儀式を終え、階段を降り居住区に戻る。時刻は七時の少し前、そろそろ朝食の時間なのであった。


 時は西暦2042年4月、翔がこの猛吹雪の世界に『時間跳躍』してから、半年ほどの時が経っていた。



 ********************



 スルガ基地の朝食の時間は基本的に七時で固定であった。無論遠征隊の面々については遠征直後などは昼頃まで泥酔することがあるので、その場合は要交渉となるのだが。


 とはいえ実際はその食堂スペースの狭さから、全員がその場に集まり一斉に食べ始めるというよりは、七時を目安に食事を取りに行き、各々好きな場所で食べる、という形に近い。


 翔はわざわざ移動するのも面倒なのでいつも食堂で食事を済ませていた。遠征隊の面々も同様の理由で朝食を食堂で済ますという者も多く、そこで簡単に遠征隊の朝の会合ミーティングをすることも珍しくない。


 ──とはいえ、今朝はちょっと早く着きすぎたな……。


 翔はまだ人のまばらな食堂を見渡してそう思った。しかし今から例の場所喫煙所に戻るのも面倒なので、翔は先に注文を済ましておくことにした。


 滑稽なことに、二十一世紀も半ば、誰かの予想で言えば人工知能AIが人を超える『技術的特異点シンギュラリティ』などが目前に迫っているこの近未来においても、その食堂のシステムは『二十五年前』とほとんど変わらなかった。カウンターの向こう、調理場にいる食事担当の人達に注文を告げ、少し待ってからその食事を受け取り好きな場所に座るという何ともアナクロなシステムだ。


「……日替わりAで」


 翔はカウンターの向こうにそう告げ、しばらくその場で待つ。見渡すと少しずつ眠そうな者達が食堂に集まりつつはあるが、未だ席の余裕は十分にあった。食堂にはあまり席の数もないので時間によっては壮絶な席の奪い合いに発展することもあるのだが、今朝はその心配はなさそうだ、と翔は安心する。


 そんなことを考えていると、先の注文から五分やそこらで、山盛りのそれが翔の前に置かれた。それを差し出した女性はどこか得意げで、翔は思わず声を出す。


「え……あの、これ……」


 その女に、流石に朝からこれほどの量は食べられない、といった旨を続けようとしたが、その言葉がその女の陽気な声に阻まれる。


「あらやだ、遠慮しなくていいのよ? 遠征隊さんはみんな頑張ってるんだから」


 どうやら翔の遠慮が目の前の女性に通じていなさそうだ、ということに気付いて翔は苦笑した。


 その女性は食事を担当する主婦の一人、桜木さんだ。彼女は一児の母、それもシングルマザーながらも、その陽気さでいつも周りを励まし元気にする。そのためこの朝食の量超大盛りもきっと善意によるものだろう、と翔は解釈し、大人しくそれを受け取ることにした。


「……ありがとうございます」


 その食事の予想以上の重量感に戸惑いつつも、翔はおどおどとそう感謝した。その翔の様子に桜木さんはけたけたと笑って返す。


「うちの娘も世話になってるからね。お安いもんさ」


 そう言って彼女が見やった先にいたのは、少し前の白衣騒動で翔が世話になった少女、コハルだ。少女は翔がこちらを見ているのに気付くと太陽のような笑顔でこちらに手を振り返してきた。その笑顔にドギマギしつつも手を振り返し、その母親の方にも一つ会釈を軽くしてから翔はようやく席につく。


「……あの親子母娘、普通にいい人達なんだけど眩しすぎる……」


 まるで陽光のような暖かい雰囲気を持つその親子から距離を取り、翔はそうため息をついた。


 コハルの方も桜木さん母親の方も、翔にとってはその善意がかえって辛く感じられる時があるのだ。直射日光は浴びるといいとはされているが、浴び続ければ日焼けなどを起こすのは明白だ。彼女たちが嫌いなわけでも、その善意が迷惑おせっかいな訳でもない。ただ長時間関わっているとその朗らかさに毒気を完全に抜かれ、かえってその暖かさに卑屈になってしまうというだけだ。


「……いや、これも単純に二十五年前一匹狼ぼっちと卑屈極めてたからなんだろうけどさ」


 少しずつこの人の温もりというものにも慣れていかなければいけない、などとまるで笑えるようなことを思いながら翔は食事に取り掛かり始めた。


 基地の食事は基本的に基地内で栽培している野菜と遠征によるマンモスなどの肉で構成される。ここ最近は遠征の頻度が高いので肉類が食卓に並ぶことが多い。普段は喜ばしいことなのだが、朝から大きな肉塊と山盛りのご飯を目の当たりにするのはいくらなんでも翔には苦であった。とはいえ嘆いていても何も始まらないので、翔は少しずつそれを口に運んで無理やり身体にエネルギーを詰め込む。


「お、朝からよく食べてるな」


 そう言いながら、もぎゅもぎゅと重すぎる朝食を口に詰め込んでいた翔の前に座ったのは翔の二十五年来の親友、松つんであった。最もその松つん親友の年はもう翔とは随分と離れており、傍から見ると二人は親友というよりも叔父と甥、あるいはひょっとしたら親子に見えるかもしれないのだが。


 松つんは口をリスのように膨らませ朝食を消化していく翔を見て再びニヤニヤとし始める。


「もしやお前、また桜木のおばさんに盛られたのか?」


「……ご名答だよ、松つん。食い切れそうにないからちょっと肉食ってくれるか?」


 そう言いながら翔が肉を一切れ差し出すと、松つんは両手を挙げて答える。


「わり、もう朝っぱらから肉々しいもん食える歳じゃねぇんだ。勘弁してくれ」


 その何気ない言葉に翔は、首をすぽんと切られたような衝撃を受ける。『時間跳躍』によって生じた歳の差は仕方の無いことで、もう同年代の友達と見られることは無いというのも知っていて、しかしそれでも翔はその事実に打ちひしがれた。もう取り返しのつかないほど、目の前の親友と自分には『差』ができてしまっているのだと。


 するとそんな翔の様子を見かねたのか、松つんが翔が戻しかけたその肉片をつまんで口に放り込んだ。


「ん、やっぱ肉食うと精がついた感じするよなぁ。美味い美味い」


 引きつったその笑顔を見て、翔は自分が気を遣われたのだと気付いた。その笑顔は二十五年前と同じようで、以前にはなかった皺が確実に増えてきている。そのことにまた心を痛めながらも、これ以上親友に気を遣わせないために作り笑いをしてその場を過ごす。


 それから何気ない話をしながらも箸を動かす時間がどれだけ続いただろうか。時計の短い針が七に随分と近づいた頃、ようやく翔は山盛りの朝食をすべて平らげた。


「うっ……もうお菓子シベリアも入んねぇ……、それ入れるための別腹も埋まってる感じがする……」


「お疲れさん。んじゃ俺は先行くぜ。頑張ってくれよ、遠征隊さん」


 ケラケラと笑って松つんはそう去っていった。彼に手を振りながら見送ってからも、大量の朝食を詰め込んだ身体はしばらく動きそうにない。


 仕方が無いのでその場でもう少し消化を待つことにした。もう随分と眠気の取れた眼で周囲を見渡すと、食堂の席は半分ほど埋まっており、ちょうどその時奥から大きな欠伸をしながら白衣を着た少女が入ってきたのが見えた。


 その時いなくなった翔の前の席に誰かが座る音がした。視線を変えるまでもなく、その場にかすかに漂ったタバコの匂いから翔はその男に口を開く。


「おはようごぜーます、隊長」


「おう、今日も早いな。いいよなぁ、若さって。オッサンにはもう早起きはきついぜ」


 などと言いながら懐から取り出したタバコに火をつけようとした元二に、「食堂内禁煙」の張り紙を指さして翔はなんとか被害を食い止める。ムッとした顔をしながらも元二はそれに応じ、大人しく食器に手を伸ばし始めた。そしてそれを口に運びながら、神妙な面持ちになって翔に話し掛ける。


「三日後、また遠征をすることになった。準備しておけ」


 その何気ない言葉に翔は一瞬静止してから問い返す。


「また遠征、って……。そんな重要なこと、他の奴らはまだ来てませんけど、言わなくていいんすか?」


「また追って連絡するさ。とりあえず見かけたからお前に伝えただけだ」


 そう言いながらエネルギーを身体に詰め込んでいく元二に、翔はもうひとつ疑問を口にする。


「なんか最近、やけに遠征多くないっすか?そんなに食料は余裕ない様には見えないんですけど……」


 というのも、翔は一週間ほど前に遠征に行ったばかりなのだ。その前も確か十日前後しか感覚が空いていない。通常は月に一、二回の遠征をここまで頻繁にするのは翔には不可解に思えた。


 その疑問に元二は心底嫌な顔をして答える。


「……お前は本当にそういうとこ気付いちまうから面倒臭いよなぁ。

 いいか、これ機密事項だからな? 誰にも話すなよ」


 そう前置きしてから、元二はそれを口にした。


「……ヒナが言うには、最近周辺の生態系の様子が変なんだってよ。新種の獣が出たらしい、って噂もあってな」


 翔はその情報に舌を巻く。元よりこの猛吹雪の世界には『氷の女王』の乗ってきた隕石による放射線の影響で珍しい生物ものが多い。元の世界では牙象マンモス剣歯虎サーベルタイガーなどもお目にかかる機会などなかっただろうが、事実翔はそれらを目の当たりにしたのだ。更なる新種の登場と聞けば、不安も伴うがその分期待も大きい。


「まぁ、ここのところ多忙でお前も色々不満はあるかもしれないがなんとか我慢してくれ。俺だって我が子の出産に立ち合いたいからそろそろゆっくりしてぇんだ」


 と、その元二の言葉が翔の耳に止まる。


「あ、そう言えば近々父親になるって前言ってましたね。もうそろそろ生まれるんですか?」


「まだ七、八ヶ月なんだけどな。初めての出産だから、色々と不安なんだよ」


 確かに元二は見たところ年は三十後半から四十というところだろうか。子供を持っていてもおかしくないが、初めての子供というところには驚いた。


 ふと、翔は疑問に思い口に出す。


「ちなみに、お相手って誰なんすか……?」


 するとその言葉に元二は「言ってなかったっけか」と目を丸くしてから答えた。


「ヒナだよヒナ。フィルヒナーだ」


 その答えに翔は一拍置いて叫ぶ。


「ええええええええ!?」


 その翔の驚きの声は食堂を通り抜け、少し遠くを歩いていたその苛烈な女フィルヒナーの耳にも届いたのだった。

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