第一章03『ヒーロー』

 彼──冰崎翔の目前で睨み合う二匹の獣。彼のマンモスに比べ人獣は大きさでは劣っているように思える。が、その気迫はマンモスに劣っていない。まさに「獣」と形容するのが正しい。人の形をした、残忍な獣だ。


 翔はそこに立ちすくむことしか出来なかった。目の前の戦闘に介入することなど出来るはずもない。ただこの戦闘の傍観者となることしか出来ない。だが、それでも彼の心は高揚していた。


 目の前で行われるこの戦いは、彼のいた「日常」では到底見ることの出来ないものだったから。


 人獣がマンモスに飛びかかった。


「迅い……!」


 人のようなフォルムではあるが、人のような顔の作りをしているが、人とは違う作りのようだ。そしてそのままマンモスに飛び付き、その牙を突き刺した。


「ふぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 マンモスが雄叫びを上げ、その牙を退けようと暴れるが、人獣はその巨体に噛み付き離れない。あの小さな体で巨大なマンモスを苦しめるその姿に、翔は興奮する。


 だが、氷河の大王はそれほど易くなかった。マンモスは噛み付く人獣を押し潰さんと、なんと片足を大きく上げ、自らバランスを崩す。


「……!」


 人獣はそれを察知しマンモスから離れんとする。が、一拍遅かった。倒れ込んだマンモスの身体と氷床に、人獣の片足が押し潰された。


「!!!!!!」


 声にならない人獣の叫びがその場に響く。翔は前の世界にいた時にテレビで聞いた象の体重を思い出す。あのマンモスはその象よりも重い。それに足を潰される激痛など、想像するに耐えない。


 だが、やはりあの巨体だ。自ら起き上がることはあまり得意ではない。人獣に分がある、と思われたその時


 マンモスがその長い鼻を鞭のように使い、足を潰し逃げる術のない人獣を打ち始めた。


 翔はそれを見ていられなかった。人獣は獣のようであるとはいえ姿形は人に近い。そんな存在があれほど鞭打たれ、何も感じないはずはない。


 それでも人獣はマンモスの身体に新たな歯型をつけ、勝負を諦めない。するとマンモスは、鼻の鞭を止め、また体をもごもごと動かし始めた。


 ──まるで、そのまま身体を横に一回転しようとするように。


 そのまま回転をすれば、数トンの重さが足の挟まった人獣にかかり、恐らく潰れてしまうだろう。


 ──その結論に至った翔は、迷わず走り出していた。


 生身の人間が、あんな大きな生き物相手に勝てるはずもない。仮にどうにか出来たとして、あの人獣が翔を襲わない確証はない。その事を考えていなかったわけではなかった。だが走った。目の前で人のようなものが死ぬのは、ガマンできない。


 ふと、足がなにかにつまづいた。それは人の頭ほどの大きさの石だった。丁度いい。マンモス相手の武器としては貧弱だが何も無いよりはマシだ。それを片手に持ち、マンモスに走る。


「!!!!!○△☆!!」


 人獣は押しつぶされる激痛で言葉にならない言葉を叫ぶ。いや、もしかしたらそれは翔に通じないだけで何か意味を持つ言葉なのかもしれない。だがそれは分からない限り、ただの意味を成さない叫びにしか聞こえない。だがそれが苦しんでいるものであるのは、疑うまでもない。


 ならば助ける。助けたい。雪原を駆け、翔はその石を振りかぶる。そして──


「ああああああ!!」


 それを全力に振り下ろした。こんな武器で戦うにはしっかりとダメージを与えられる、弱点となる場所に当てなければならない。今や横に倒れているマンモスの弱点は、素人目に分かる限りでは「目」だった。


 視界を失えば、とりあえず逃げる暇くらい作れるかもしれない。安直ながら、その判断をすぐにすることが出来たのが功を奏したのだろう。人の頭ほどのその石はマンモスの右目をぶちゅりと潰した。


「ふぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 マンモスは怒り狂い、倒れた体をジタバタとさせた。その動きでまた人獣が苦しそうにした。翔は少ししまった、と思いながらマンモスから離れ大回りして人獣に近付く。


「おい、お前! 大丈夫か!」


 言葉が通じるとは思えない。だが無意識にそう呼びかけていた。


「とりあえず挟まってる足を抜くぞ!

 力、入るか!?」


 その問いかけに、偶然か必然か、人獣はコクコクと頷く。通じているのか、肯定しているのかは分からないが、ひとまず信じることにした。


「よし! じゃあ次に象が身体を起こそうとしたら…」


 その先の言葉は継げなかった。何かが翔の腰に巻き付き、宙に持ち上げた。


 それは間違いなくマンモスの鼻であった。そしてその鼻は、翔を離さないまま勢いを付け氷床に叩き付けられた。


「がっ!!」


 身体に衝撃が走る。肋骨がどこかが折れた音もした。そして尚もその長鼻は翔を掴んで離さない。


 痛い、痛い、痛い──!


 畜生、こんならしくない事しなければ良かった。この人獣が、一種だけの生き物とは思えない。つまり人獣という種族はこの世界のどこかにいるはずなのだ。この目の前の人獣を助けずとも、どこか漂流していればそのうち巡り会えたはずだ。


 なのに、何故、こんなことをしているのだろうか。全く合理的ではない。目の前で困っていたから、救いを求めていたから、なんてヒーローみたいな理由はあるはずはない。むしろ翔はヒーローに救われる側の人間のはずだ。


 翔の学ランには大抵カッターナイフが忍ばせてあった。右の手首にはうっすらと何本か切り傷が走っているし、学ランには実は色んな奴の靴の跡が染み付いている。要するに翔は虐められていたのだ。そしてそれに抗うこともなく、最低な現実の日々の中に翔自身救いを求めていた。あの世界にいるはずもない、ヒーローという救いを。


 だから翔はヒーローなんかじゃ決してない。なれる訳もない。だが戦わなければいけない。目の前のそのものを、救いたいと願ったならば。


 マンモスが再び鼻を振り上げんとする。もう翔は迷わなかった。例えそれが過去の翔の「弱さ」の象徴でも、今では「武器」として使えるのなら。


 左のポケットに手を入れ、カッターナイフを取り出す。刃が通るかどうかは分からない。通らなかったら冰崎翔の人生は幕を閉じるだろう。この世界に来てから翔は運に恵まれず神に嫌われていると思っていた。だがその刃がその鼻に通った時、翔は初めて神に感謝した。


「よし、よし……!」


 鼻の拘束力は力なく消えていき、翔はその縛りから逃れた。そして力なく鳴くマンモスを横目に人獣へ走った。


「おい! 死んでないよな?」


 人獣は力なくこっちを見る。その足は未だ抜けていないようだ。


「俺も手伝う! 合図で引っ張るぞ!」


 言葉が通じないであろうと踏んでいるのにそう喋るのはどこか変な気もしたが、今はそんな暇もない。


「いっせーの、せ!」


 合図とともに足を引っ張る。ぐちょり、と嫌な音がしたが、もう歩けない、というほどの傷には見えなかった。ほっと安堵をしつつ、人獣を担ぎその場から逃げようとしたその時


「ふぉぉぉぉぉぉぉぉ!」


 そのマンモスの雄叫びがその場に響いた。見れば既にその巨体は身体を起こしている。その左目は痛々しく潰れているが、もう片方の目は恨みを持って翔と人獣を睨んでいた。


 逃げなければ、そう脳は指示を出した。しかしもう、その指示に従うことの出来る力は、翔の身体には残っていなかった。


 マンモスから逃げ、走り出そうとしたその時、彼の身体は膝から崩れ落ちた。


「あ……れ?」


 思えばこの軽装備で慣れない雪の足場を数時間歩き、高さ十数メートルのところを落下し、あのマンモスの目を潰した石を持ちながら走り、そしてマンモスの鼻によって地に叩きつけられたのだ。所詮翔は平凡な高校生。蓄積したダメージは少なくない。彼の身体が動かなくなるのも、無理はないだろう。


「……結局、ヒーローにはなれなかった、ってことか」


 目の前に迫り来るマンモスという脅威に、翔はもう対抗する術はない。そして自然に疲れからか、彼の意識は落ちていった。

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