第一章04『名前』

 意識は深い海を彷徨っているようだった。まるでこの世界に来る直前に体験した、あの眠りのような。だがしかし、前回と違うところもあった。目を開けると、目の前には青く輝く、大きな球があった。


「……?」


 夢の中だから意味が分からないのは当然だった。目の前のこの球は何であるのか。翔は好奇心から手を伸ばし、それに触れようとする。


 それを制したのは、一つの声だった。


「……カケル」


 聞き覚えのない声。しかし馴染みのある女性の声。そしてその声の主を確かめようにも、何故か翔は振り返ることが出来なかった。


「カケル……カケル……」


 背後にいる「何か」は翔の名前を呼び続ける。一体誰だ。翔の名前を呼び続ける、この後ろにいる「誰か」は何なのだ。


 振り返ることは出来なかった。だが、それが翔の頬を後ろから撫でたのを感じた。


「カケル、今回は……」


 その先の言葉は、聞き取ることが出来なかった。目の前の球がパリンと割れた。そしてそれと同時に、翔は目を覚ました。





 目を開けると初めに感じたのは腹の痛みだった。どこか骨が折れているのだろう。マンモスに叩きつけられた時だ。と、その時になって初めて、あの怪物のことを思い出す。


 ガバリと飛び起き、辺りを見渡す。そこはどこか洞穴の中のようであった。出口から見える外の風景は、気を失う前と同じく白のみがある猛吹雪。そして翔のすぐ側に、あの人獣がいた。


「……あの後、俺はどうなったんだ……?」


 ここが天国ということはなさそうだ。こんな殺風景なところがあの楽園の正体なら、自殺を試みたことのあるかつての翔がバカのように思えてくる。いや、バカには違いないのだが。


 人獣はスヤスヤと寝息を立てていた。その足の傷は草かなにかで包帯のように巻かれており、未だ痛々しくも気絶する前よりは治っているようだった。


 翔と人獣が無事にここにいる。マンモスの姿は見当たらない。つまりこれは──


「……逃げられた、ってことか?」


 相手に逃げられた、ではなく逃げることが出来た、ということだ。あの状況で、人獣は片足を潰され、翔は身動きが取れなかった。いくら多少ダメージを与えていたとしても、それを怒り狂ったマンモスが放っておくとは思えない。ならば何故、翔と人獣はこうして逃げ延びて、無事に洞穴にいるのだろうか。


 ふと、側で眠る人獣が目に入った。なにか薄汚い布を纏ったその体は、煤けて汚れていた。


「……まさか、こいつが助けてくれたのか?」


 ──片足が潰れた状態で、翔を担いであのマンモスから逃げたというのか。


 ありえないとは言いきれない。この世界は翔の住んでいた世界とは違うのだ。この人獣は怪我をしていても変わらず走れるのかもしれないし、もしかしたら翼か何かを隠し持っているのかもしれない。この世界では、「ありえない」は「ありえない」のだ。


「それにしても、ここ……」


 翔は辺りを見渡す。翔が立ち上がっても問題ないほどの高さ、人が一人余裕を持って横になれる幅。幸か不幸か、翔はこの吹雪の中で絶好の場所を見つけられたらしい。


「……俺とこいつをここに運んできてくれた奴に感謝だな。もっとも、こいつ自身なのかもしれないんだけど」


 そうして人獣の方に向き直ると、それは既にむくりと体を起こしていた。


「!?」


 咄嗟に距離を取る。マンモスと戦っていたあの時はこちらに敵意を向けてこなかったが、翔の敵でないと決まった訳では無い。もしかしたら人獣は翔をここに連れてきて食べるつもりだったのかもしれない。翔の緊張の糸がピンと張られる。


 すると人獣は、人懐っこそうに翔の腕に頭を擦り寄せてきた。


「…?」


 この世界の食の作法が余程特異なものでなければ、これは


「……懐かれてる?」


 少なくとも翔にはそうとしか見えなかった。人獣の顔は昼過ぎ暖かい陽光に日向ぼっこをしている時のようにこの上なくまどろんでいた。とりあえず懐かれているということで良さそうだ。その理由までは計り知れないが。


「……もしかしたら、マンモスと一緒に戦った時に恩義でも感じてるのかね」


 とりあえず懐かれているということで頭でも撫でてみると、人獣はゴロゴロと喉を鳴らした。


「少なくとも発声器官はちゃんとあるのね……っと」


 ふと、その流れで首元に手を伸ばすと、なにか硬いものに触れた。見ると、金属で出来た首輪のようだった。そしてそれには、何か文字が掘ってあるようだった。


「ふぃ……りーに?」


 見るとそれはアルファベットのようだった。「firinne」と読める。この世界は元の世界と言語が共通しているのだろうか。欲を言えば公用語は日本語であって欲しいが、英語でも一応コミュニケーション位は取れる。他の言語であったら、その時はその時だ。


 すると人獣はふるふると首を横に振った。その様子を見て、翔は自らの推理に確信を持つ。


「フィリーニ」


 再び人獣は首を横に振る。


「フィリーニ」


 また横に振る。


「フィーリニ?」


 すると人獣はこくこくこく、と首を縦に振った。


「やっぱりか……」


 その人獣の反応で、二つの事実が新たに分かった。


「……お前、言葉が通じるのか」


 また首をこくりと振る。その様子を怪訝そうに見ていると、人獣はそのどんぐり眼でジロジロとこちらを見てきた。


「……さっきのアルファベットといい、この世界では言葉の心配は無さそうだな」


 言語が共通した異世界か。随分とその面では被召喚者には優しい世界のようだ。最も、ここが異世界と決まった訳では無いのだが。


「けど、ここが異世界じゃないんだったらどこだって話だ」


 この文明化の進んだ二十一世紀、このような氷河期に、マンモスの生き残り、人にそっくりの獣などが存在する場所など心当たりがない。


「……むしろそんな場所知ってるのは国家のお偉いさんくらいだと思うけどな」


 すると事の大きさからして翔はこの世界で誰かに見つかったら口封じに殺される可能性もあるということか。全く世知辛い。


「そして、もうひとつ分かったことは……


 お前はフィーリニっていうのか」


 そう言うと人獣──フィーリニはまたコクコクと頷いた。誰かがこれを飼っていたのかは知らないが、首輪の名前がそう告げていたのだ。人獣なんて味気の名前ではなく、きちんとした名前で呼んであげた方が彼女(?)も嬉しいだろう。


「……まぁ、とりあえず何はともあれ助けてくれてありがとう、フィーリニ」


 そう言うとフィーリニは嬉しそうに笑った。その笑顔に、久しぶりに人間の顔というのを見た気がして、何故か涙が出てきた。


 こうして見るとフィーリニは見た目は全く獣というよりも人であった。顔付きは十つやそこらの少女を彷彿するし、こうしていると「獣」の要素はその頭に付いた獣の耳──その下に人の耳もあるのがどういう原理なのかは知らないが──や少し濃い体毛くらいだ。きっと翔が彼女を獣のようだと思ったのはあのマンモスに向き合っていた時であったからだろう。闘争本能が刺激され、より獣らしくなっていたということだろうか。


「……って、ちょっと軽くトラウマよぎったな」


 思考の途中で出てきた──あのマンモスはどうしたのだろうか。翔が潰した片目のせいで、きっとあのマンモスは二人に恨みを持っているに違いない。次に遭遇した時には気を付けねば。


 と、その時


「ゴォォォォォ」


 どこかから地鳴りのようなその音が聞こえた。


「今度はなんだ……!?」


 この吹雪だ。雪崩など起きてもおかしくない。それとももうあの隻眼のマンモスが追い掛けてきたのだろうか。


 冷や汗をかきながら翔は必死に音の源を探す。すると、それはすぐ「隣」にあった。


 フィーリニが恥ずかしそうに腹を抑える。だが、その音は止まなかった。音の発信源は他でもない、彼女の腹だった。


「……ぷはっ」


 ──この世界に来てから驚きの連続であったが、これはまさに予想外であった。音の正体に、でもあるが、こうも警戒した自分自身にもだ。


「……何にせよ、そういえば初めてだな……」


 この世界に来てから、初めて心から笑えた気がする。吹雪に凍え、獣に怯え、かつてないほど翔は気を張っていたのだ。ふとこうして「安全圏」に辿り着くと、改めて疲労と、そして……


「ぐぅ~」


 ……フィーリニのこと笑えないな、と翔は苦笑した。翔も腹が減っていたのだ。そんなことにも気付かないほど、神経をすり減らしていた。


「そうだな、ここがどんな世界であるにしろ、とりあえず衣食住をきっちり揃えていくか!」


「住」はこの洞穴で特に問題がないだろう。あとは「食」と「衣」だ。


「さあ、始めようかフィーリニ」


 ──ゼロから始める、氷河期生活を。

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