第一章02『獣』

 思えばこの銀世界は小さな頃の彼にとっては夢のようなものだろうとは思った。彼──冰崎翔は雪などとは縁のない生活を十六年間してきた。数時間前の彼ならば、この雪景色も少しは楽しめていたかもしれない。


 足を雪の沼から引き抜き、前に出し、落とす。歩くとはそれの繰り返しだ。この一歩は人類にとっても彼にとっても小さな一歩であるが、それでも踏み出さなければ何も変わらない。そしてそれを積み上げなければ、希望の光など見えやしない。


 洞穴、もしくは民家か何かだ。人のようなものがいるならばそれが住む場所もあるはずだ。ひとまずこの猛吹雪を凌げる場所を見付けなければすぐに凍死してしまうだろう。食料も問題だ。この環境で、先程から彼は生物を一つも見つけていない。召喚されたのが昼過ぎだったのが不幸中の幸いといえるだろう。今はまだ空腹は覚えていない。が、それも時間の問題だろう。


 とにかく、この無限にも思える白に覆われた世界に、何か変化が訪れるまで歩くしかない。だから彼は足を動かし続ける。


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く


 歩く、歩く、歩く



 されど、見える景色は変わらなかった。洞穴も民家も生物も、何も見えない。もしかしてここは雪しかない空間なのではないかとまで思い始めた。そうしたらもうこうして歩くのも無駄になるが、それほど世界は理不尽でないと信じたい。


 と、そんなに弱気になってはならないと自分を一喝する。何があってもこの世界には、少なくとも今は彼しかいない。弱音を吐いても状況が好転するわけでもないし、誰かが慰めてくれる訳でもないのだ。


 拳を握りしめ、また踏み出す。


 歩く、歩く、あ……


 その時、突然浮遊感が彼を襲った。無理解のまま、彼の体は落下していく。


「あああああああああ!」


 何が、何が、考える暇もなく、走馬灯が頭の中を駆け巡る。思えば友達なんてほとんどいない人生だった。友人と言えるのは松つん、召喚される前に教科書も借りていた彼だけだった。


 松本友也。去年同じクラス、どころか小、中、高と翔と同じ道を進んだ男だ。翔とは対称的な存在で、明るく人気がある、いわば翔にとっての光だった。せめて召喚される前に、一度彼と出会いたかった。こんな自分と今まで一緒にいてくれて、ありがとうと。


 だがそんな走馬灯が、衝撃とともに途切れる。痛い、ようでそれほど痛さは感じなかった。雪がクッションになったのだろうか。上を見上げると、さっきまでいたであろう高さの地面が遥か上にあった。


 なるほど、吹雪で崖に気付かず落下したということか。雪のクッションがなかったら骨は折れていたであろう高さ。今だけは雪に感謝した。


 が、その時に気付いた。ポケットに入れていた携帯がない。あの時落としたのだろう。どの道既に充電は切れている。果たして拾いに行く余裕があるのか。


 と、その時、彼は二度目の浮遊感を感じた。が、それは走馬灯を見る暇もなくすぐに終わる。先程いた場所もまた崖のようになっていた。というよりも、これは切り通しに近いようだ。先程落ちた雪の地面の下に、もう一つ切り開かれた道があったのだ。


 ──そしてそれは、まるでこれから彼が進む道を示すかのように、まっすぐと切り開かれていた。


「……なんじゃ、こりゃ」


 このような「道」は到底自然にできたものだとは考えられない。ならばこれを作った「誰か」がいる。この道を作った、人に近い知的生命体がこの世界にはいるという事じゃないか。


「……少しは、希望が見えてきたのかね」


 ため息とともに、立ち上がる。ひとまずはこの切り開かれた道に従って進む他ないだろう。もしかしたらその先に、人がいるかもしれない。下は凍った道だった。もちろんその上に絶え間なく雪は積もっていくが、それでも先程までの、崖の上の環境よりは歩きやすい。


 しばらく進むと、彼は先程の、この世界の知的生命体の存在について確証を持てるようになった。目の前に氷で出来た「階段」があったからだ。こんなものを作れるのは、ほとんど人くらいのものではないだろうか。それともここは異世界だから「魔法」かなにかで出来るのかもしれないが、いずれにしよ知性を持った生物がいる確証はもてた。


「……とりあえず、少しは前進、か」


 階段を上ると、先のような殺風景な雪景色に戻った。戻ることが出来たのならひとまず携帯を救出しよう。それからどこか、身を休めることの出来る場所を探して…


 と、そんなことを考えていたその矢先、


 耳をつんざくような、叫び声が一体を揺らした。


「ああっ!」


 とっさに耳を塞ぐ。少し耳の奥が痛み、見ると血が出ていた。鼓膜が破れてしまったのだろうか。人の体の膜の中では修復可能な類だった気がするからよしとしよう。


「……けど、さっきのはなんだ?」


 まるで先程までの風の鳴き声とは全く違う。明らかに「生物」の鳴き声。人のような知性のあるものかは分からない。野獣のような危険な生物であるかもしれない。だが少なくとも、この世界で初めて、生物に接触できる。


「だとしたら、行ってみる価値はあるな」


 そこに落ちていた携帯を拾い、声のした方へ歩き出す。走ることの出来ないのがもどかしい。この無限に思える白の世界で、やっと生物に会えるというのに。


 だが数分後、彼はそんな高揚した気持ちを忘れていた。鳴き声の元にいたのは、二「匹」の「獣」だった。


 その獣は、身体を剛毛で包み、そのもの特有の長い「鼻」と、その両脇に生えた「角」を武器としていた。その巨躯は彼に無条件に恐怖感を与え、その四つ足のどれかに踏み潰されたならばここまで足掻いてきた彼の命もすぐに儚く消えてしまうだろう。


「なんなんだ……? 全く

 ここは氷河期だとでも言うのかよ……」


 そう、そこにいた生物はマンモスの他に見えなかった。先程の叫び声もこのマンモスによるものだとしたら納得もする。問題は、何故こんな生物がここにいるか、ということだが。


 そして、その場にいたもう一匹の「獣」については


 ──「匹」と表現するのが正しいのか分からない、人形のフォルム。事実その生物は一見人間に見えないこともなかった。この猛吹雪の中で、もう少し彼の目が曇っていたならば、この異世界で同種の生物を初めて見つけた歓喜に暮れていただろう。


 だが、それは「人間」というにはあまりにも野性的であった。頭には猫かなにかの耳が生えており、体毛は全体的に多く、茶色。そして先のマンモスと向き合う目は大きく見開かれ、獲物を倒すそれのように敵を見据えていた。人獣、と称するのが適していそうなその出で立ちは、マンモス同様彼を戦慄させた。


「……なんなんだ、なんなんだよここは……!」


 そう呟く彼のことなど気にも留めず、目の前では二匹の「獣」が、向かい合い戦闘を始めようとしていた。

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