紅色の瞳

 無駄話が止まる。静まった迷宮ダンジョンの中で神経を研ぎ澄まして敵の位置を探る。後ろはない。一本道が長く続いていた。二手に分かれた道の先、階段側か脇道か。


「あっちみたい」


 氷雨ちゃんが脇道を指差した。死霊ファントムに関してはやはり一番敏感なのは雪女スノーホワイトである氷雨ちゃんだ。ありがたいことに死霊ファントムがいるのは脇道の方。うまくいけばやり過ごせるかもしれない。


「まず二人は帰り道の方へ。それから僕が見に行きます」


 耳打ちに三人が頷く。これが僕の居場所を決める。そう思うとまた手が震えてくる。もし危ないようならしっかり逃げる。帰りの道順はしっかりわかっている。後ろでは氷雨ちゃんがいざというときのために手を合わせてしっかり準備もしてくれている。


「行きます」


「かにゃおにいちゃん、きをつけてね」


 ふぅ、と息を吐いて脇道を覗き込む。じとりとした汗が首筋を伝った。なんでだろう。今までと違う感覚がする。僕の横を走り抜けてエレナさんと勇さんは逆側の角で様子を見ている。氷雨ちゃんだって後ろにいる。僕はこれから守ると同時に守られている。心配なんてないはずなんだ。


 遠くに死霊ファントムの姿がぼんやりと見え始める。薄暗い中に浮かび上がるその影はゆっくりとした足取りだった。前に倒した死霊ファントムとは違う。足で地面に立っている。そういうものもいるとは聞いていたけど、もっと人間のように見えて、僕は息を飲んだ。


 少しずつ目線を上げていく。どうやらコートのようなものを羽織っているみたいで、迷っている人間なんじゃないかと思えてくる。それでも明らかにまとっている雰囲気が人間のものではないと知らせていた。

 さらに上。ちょうど人間の目と同じ高さ。そこには死獣タナトスと同じく赤い瞳が浮かんでいた。死霊ファントムは赤い瞳なんてしていなかった。それでももう迷宮ダンジョンでは見慣れた色だ。何も怖がることなんてない。そのはずなのに。


 どうして視界がぼやけているんだろう。


「氷雨!」


「わかった!」


 すぐそばにいるはずの二人の声が遠くに聞こえる。左側から小さな氷の粒が飛んできて、僕の視界を覆う。今度は逆から炎が噴き出す。氷があっという間に霧に変化した。濃い霧は紅い瞳をぼやけさせる。いや、僕の視界がぼやけているのかも。


「逃げるぞ!」


「いったいなんでこんなところにあんなのがいるんだ!」


「そんなことはどうでもいい。早く叶哉を!」


 いつもと違う感触に僕を抱えたのが勇さんだとわかった。乱暴に肩に担がれた僕は、逆さまの世界で迷宮ダンジョンが進んでいく。


「えれなおねえちゃん、だいじょうぶ?」


「問題ない。これが私の宿命だ」


 氷雨ちゃんの氷を手に持ったまま、エレナさんが走っている。いったい何があったのか、僕にはよくわかっていなかった。

 でもどうしてみんな下を向いて走っているんだろう。氷のおかげで道はわかるはずなのに。逆さまのまま僕が顔を上げようとすると、勇さんに乱暴に上から押さえつけられた。もう迷宮ダンジョンでは吐かないって決めていたけど、ちょっと無理かもしれない。


「見るな。目を閉じておけ」


「どうして、ですか?」


「間違いない。今のが、魔眼の咎人ビゼリ・アマルティアだ」


 少し苦しそうな声で答えたエレナさんに返事をする前に、僕の意識は遠くへと飛んでいった。




 柔らかいベッドだった。ギルドのものじゃない。やっぱり今まで見ていたのは長い夢だったのかな。


「かにゃおにいちゃーん!」


 ベッドの上から氷雨ちゃんに飛びつかれてはっとして現実に帰ってくる。ここはやっぱり川越だ。町の中にまで砂ぼこりが舞っているこの川越でここだけはかなり清潔に気を遣っている。どうやら荒れ狂う大地アースクエイクの医務室らしい。尖った耳の治療師セラペアの女性が僕が目を覚ましたことに安堵していた。


「こら、氷雨。叶哉はまだ起きたばかりだ。危ないだろう」


 エレナさんにつかみあげられて、氷雨ちゃんはベッドから下ろされる。そうか、僕は魔眼の咎人ビゼリ・アマルティアに負けたんだ。


「すみません。叶哉さんが無理をしないように情報を隠したことが裏目に出てしまいました」


「とにかく無事でよかった。肝を冷やしたぜ」


 周りを見るとみんな揃っている。とても心配をかけちゃったみたいだ。当然か、相手は二つ名持ちなんだから。


「あれが、魔眼の咎人ビゼリ・アマルティアの力だ」


 赤い瞳。思い出すと体が震えた。見るだけで相手を殺す恐ろしい能力。あの霧がなければきっと僕も目を覚まさなかったんだろう。


「すまない。我らの不手際だ」


「いえ、ちゃんと助けてもらいましたから」


 でなければ僕はここにいない。


「でも出るのは十一階層だって言ってませんでしたか?」


「あくまで発見例が多いというだけです。二つ名持ちの行動はギルドも把握していませんから。だからこそ危険なんです。もっとも六階層で出たという話は初めて聞きましたが」


 運が悪かった、ってことなのかな。でもそう思えるのはなんとか生きて帰ってきたからだ。二つ名持ちに出会いながら無事に帰ってこられただけ運はいい方かもしれない。あれが深層階なのだ。簡単じゃないとは思っていたけど、初めての進攻はどうやら完璧とはいかなかったみたいだ。


「まぁなんとか命は持って帰ってきたんだ。叶哉はよくやったって聞いてる。今は休んどけ」


 ベッドから起き出そうとした僕をロウさんが優しく寝かしつけてくれた。自分でも意外なほど落ち着いている。少なくとももう迷宮ダンジョンに行きたくないなんて思わなかった。それよりも今はあの悪魔のような力に対抗する術がないかと少ない経験の中から探し始めている僕がいた。


「あれが、魔眼の咎人ビゼリ・アマルティア


 あの赤い瞳は思い返してみると死獣タナトスのそれとは違っていた。得物を狙っていたわけじゃない。ただそこを歩いているだけだった。たまたまそこに僕たちが居合わせただけだったんだ。実際あの後逃げている僕たちを追ってきていたわけじゃない。そうでなければこうして無事に帰ってはこられなかっただろう。


「それでも危険な以上は狩るしかないんだ」


 それは僕の木剣ルディスのためでもあるし、迷宮ダンジョンに向かう他の冒険者たちのためでもある。誰かを守るというのはそういうことなのだ。


「こんな言い方は嫌かもしれんが、六階層であいつを見られたのはよかったな。無事ならいくらでも手の打ちようはある。次は勝つぞ」


「はい」


 僕はまだベッドに横たわったまま、でもできるだけ力強く答えた。

 今すぐにでも帰りたいと思っていた僕だけど、二つ名持ちと戦った人間を簡単に治療師セラペアが許してくれるはずもなく、検査検査の連続で帰ることができたのはもう太陽も沈んだ頃だった。少なくとも検査した範囲では異常はない、ということで明日からまた迷宮ダンジョンに行くことはできそうだ。ミオさんは止めるだろうけど。

 医務室を出る僕の胸にあったのは悔しさとそれから妙な高揚感だった。

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