自ら踏み出す一歩

 翌朝の目覚めはまるで生まれ変わったような気分だった。受験戦争に疲れ、負けたことを知り、川越に来て奴隷となって恐怖と戦っていた。僕にとってこんなに爽やかな朝はいったいいつ振りだっただろうか、と考えてみるけど、すっきりとした頭でも思い出せないほどだった。

 壁にかけてあった魔剣アリシアをとる。不思議と今までより軽くなっているように感じた。あれほど重くて振ることすらできないと思っていたのに、ベルトを通して背中にかけると、なんだかしっくりとくる。そのまま階段を下りてギルドのダイニングに向かうと、心配そうな顔でミオさんが駆け寄ってきた。

「叶哉さん。ロウには私が言って聞かせますから、まだ休んでいた方が」

「いえ、大丈夫です」

 僕はミオさんに笑顔を返すと、僕が急に顔色が良くなったのでミオさんはずいぶん驚いているようだった。当たり前といえば当たり前だ。昨日の僕はいつ倒れてもおかしくない、もう倒れているのと同じくらいの状態だったのだ。それがたった一日でこんな顔をしていれば誰だって不思議に思うに違いない。

 ソファやカウンター前、思い思いの場所に座っているみんなに並んで、僕は何日か振りに朝ご飯を食べた。そういえば川越のさつまいもはこんな味だったなんて感慨にふけってしまう。いつもなら吐き出すのが嫌で食べないところを腹八分まで詰め込んだ。今日は絶対に倒れたりするつもりはない。

「よし、それじゃ行くか」

 朝食を終えて、氷雨ちゃんが後片付けを終えたところでロウさんは立ち上がった。今になってみると声色が違うように思う。昨日まで重くのしかかるように響いていた声は今はよく晴れた日に干したお布団みたいな軽さだった。

「まだそんなことを言っているんですか!」

 声色が変わったくらいでミオさんが許してくれるはずもなく、ロウさんは耳元で怒鳴られて体を固まらせた。さすがのロウさんでも耳元で叫ばれれば反射的にこうなるみたいだ。特に人狼ウェアウルフは耳のいい種族みたいだし。

「あの、ミオさん?」

「大丈夫ですよ。今日という今日は徹底的に叱っておきますから。叶哉さんはお部屋に戻って休んでいてください」

 一回り小さな体なのにミオさんは別の意味で一番頼りになる。つま先立ちになって背を伸ばしてロウさんの耳を引っ張る姿はやっぱりギルドのお母さんという感じだ。

「僕、行きます」

 ロウさんが痛がりながら僕に目で訴えかけているから、僕はできるだけ簡潔に伝えることにした。でもミオさんは僕の言葉を強がりだと思っているのか、まったくロウさんの耳を離す気配はない。

「そんな無理をしなくていいんですよ。少しずつでいいんですから」

「今日はロウさんが言ったんじゃなくて、僕が自分で行くって言ったんですよ」

 はっきりと言い切った僕にミオさんは不安そうなまま、耳から離した手を僕の額にそっと当てた。温かい手が僕の額を覆っている。やっぱり猫妖精ケットシーって人間よりも体温が高いんだろうか。雪女スノーホワイトの氷雨ちゃんは冷たかったし。

「熱は、ないみたいですね」

「かにゃおにいちゃん、すこしあたまひやそうか?」

 氷雨ちゃんまで心配そうな顔で寄ってきてくれる。でもその言葉はちょっと違う意味にも聞こえるからやめてほしい。僕はきっと元気なはずだ。ただの空元気でまた迷宮ダンジョンに行けば戻ってしまうかもしれないけど。

「大丈夫だから凍った手をこっちに伸ばさないで」

 冷やすどころか凍傷になってしまいそうだ。じりじりと近づいてくる氷雨ちゃんをどうしようかと思っていると、後ろからエレナさんが氷雨ちゃんの腕をとった。

「本人が行くと言っているならいいだろう。自分の宿命を受け入れるなら手伝おう」

「我も異存はないぞ。我らに叶哉が必要なことに違いはないからな」

 勇さんは氷雨ちゃんから離れるようにカウンターに逃げながらそう言った。こっちは逆に火蜥蜴サラマンダーだから氷なんて当てられたらみるみるうちに体温が奪われていくんだろう。そのまま寝られてしまうと戦力が一人いなくなってしまう。

「氷雨は、どう思いますか?」

「おにいちゃんはひさめがまもるからだいじょうぶ!」

 氷雨ちゃんが元気に言うのとは対照的にミオさんは頭を抱えて唸った。そんなに心配かな、と思ったけど、昨日までの僕を考えればこのくらいの反応でも全然おかしくない。

「私だけですか。仕方ありませんね。様子がおかしくなったらすぐに戻りますからね」

「それは今までだってそうしてただろ」

 ミオさんが折れる形で僕たちは今日も迷宮ダンジョンに行く。ずっと無理やりだったけど、今日は自分の意思で行くのだ。もう毎日吐き出していた僕とは違う。これからは強くなるために行くのだ。ロウさんが強くなったように僕もきっと乗り越えた先に新しい川越が見えてくるのかもしれない。よく晴れた空を見ているとなんだか僕も吠えたくなる気分だった。


 迷宮ダンジョンに入るといつものように氷雨ちゃんが僕の手を握ってくれる。今日はもう大丈夫なつもりなんだけど、全然離してくれる様子はない。すぐに戦うわけじゃないし、一人で迷っても困るから助かって入るんだけど。さらに今日は空いている手の方をミオさんがつかず離れずの位置で僕の様子をしきりに窺っている。

「大丈夫ですからそんなに見ないでくださいよ。落ち着かないので」

「昨日の今日で急に元気になったと言われたら、逆に心配です」

「そうだよ。かにゃおにいちゃんはひさめがまもるの」

 氷雨ちゃんも相変わらずだし、本当に僕は信頼されているのかちょっと不安になってくる。とはいっても僕自身まだ死獣タナトスを斬れるかわかっていない。本当に二人を安心させるためにも今日は絶対にこの魔剣アリシアを振るわなければ。

「よーし、今日は行けるところまで行くぞ!」

「我らが行けるのは五階層までだがな」

 やる気に満ちているロウさんはどんどんと進んでいく。肩の荷が下りて僕以上に元気があるように見える。そういえば最近は短い単語だけで話していたな、と思い出した。

「五階層までしかいけないんですか?」

 そういえばぽちさんが深層階には行かないように、って言っていた気がする。もっと深い階層のことだと思っていたんだけど、案外この丸平地下迷宮はそれほど深くないみたいだ。

「行けないということはないんですが、危険が増すので無理はできません」

 ミオさんによると、ギルドの調査ではほぼ五階層までは死霊ファントムが出ないのだそうだ。なので見習いの訓練士ドクトル奴隷スクラヴォスは先輩と一緒に五階層まで迷宮ダンジョンを探索して訓練を積むのだそうだ。

 死獣タナトスなら中堅の訓練士ドクトルなら複数いても対応できるので、少しずつ実戦を通じて実力をつけていく。もちろん僕みたいにいきなり入ることはなくて、ギルドでしっかりと訓練をつけてから入るのだそうだけど。

 でもそれなら早く言ってほしかったところだ。いつ死霊ファントムが出てくるかと思っていた僕はずっと気が気でなかったっていうのに。

「きょうはあんまりよくないひ」

 一階層をすべて回って二階層への階段前についた辺りで氷雨ちゃんが頬を膨らませた。今日はまだ何も落ちているものを見ていない。日によってバラつきがあるって話はもう聞いていたけど、まだ浅い階層しか行けない僕たちにとっては収入を左右する重要なことなのだ。隣にいるミオさんの雰囲気もやや険しくなってきている。

「まだ一階層だ。根気よく行こう。二階には甘いものが落ちてるかもしれないんだ」

「スイーツ系は換金しますよ。少し需要が伸びているらしいですからね」

 やる気を出そうと言った勇さんはあっという間にミオさんに潰されてしまう。でもさすがに毎日さつまいもも嫌になってしまうし、たまには甘いものが食べたくなってしまう勇さんの気持ちもよく理解できた。

 淡々と進んでいくエレナさんが宿命だ、とか言い出さないうちに何か落ちていてくれればいいんだけど。やっぱりギルドの方できちんと整備しているようで石で組まれた階段をゆっくりと降りていく。どうせなら迷宮ダンジョンの中にも明かりをつけてくれればいいのに、なんて僕はのん気に考えながら、みんなに続いて初めての二階層へと足を踏み入れた。

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