打ち砕かれた勇気

「僕には無理です! お願いします! 他のことなら何でもします!」

 僕はまだまっすぐに立てない体を床に伏せてそう叫んだ。涙があふれて床板の色を変えていく。

「もう行きたくないんです! 怖いんです!」

 叫んだせいで空っぽの胃の中がまた逆流しそうになる。流れ出しそうになる何かを必死に抑えながら、僕はただ額を床に擦り付けるだけだった。

 ロウさんは何も言わなかった。他のみんなも何かを言ってくれることはなかった。ただギルド全体を包む困惑の雰囲気だけが背中を通して伝わってくる。

 僕はどれだけ期待されていたのだろうか。迷宮ダンジョンをさまよう死霊ファントムを狩れる人間がギルドに入ってくる。それは自分の安全が保障される上に、より深い階層へ行き、ギルドの収入が増えることにも繋がる。

 それを僕は今、全部投げ出そうとしている。それを許してくれるなんて思ってもいない。このまま外へ放り出されても文句ひとつ言えない立場なのだ。

「明日も、迷宮ダンジョンに連れていく」

 ロウさんから返ってきた言葉は僕の考えがまだ甘かったことをたしなめている。川越で人間がそんな簡単に自由を手に入れられるわけがないのだ、と。ただ拒否すればギルドから放り出してもらえるほど甘い世界ではないのだ、と。

「お願いです。他のことならなんでもやります。だから」

「俺は言ったはずだ。川越での人間の存在価値は戦うことだけだ、ってな」

 僕はもう何も言えなかった。言えるはずもなかった。僕は、人間はみんなここでは等しく奴隷なのだ。何かを頼める立場になんてなかったのだ。僕は顔を伏せたまま起き上がれない。やや重い足音がしてロウさんが自分の部屋へと帰ってしまったのだとわかった。

「叶哉さん。とにかく今は休みましょう。エレナ、手伝って」

 エレナさんに抱えあげられて、僕は情けないほどに力の抜けた体のままただ自分のベッドに寝かしつけられた。

 翌日、ロウさんは言っていたことをまったく容赦なく実行した。僕を片手でつかみあげるとそのまま抱えて迷宮ダンジョンまで連れていった。昨日と同じように死獣タナトスを見つけてそれを瀕死に追い込み、のたうちまわる死獣タナトスを指差して低く言った。

「やれ」

 僕は連れてこられただけでもう力なんて入りそうもなかった。もう魔剣アリシアに触れることさえ嫌だった。僕の背中にのしかかった責任は振るわれることを拒んでいるようにさえ感じる。違う。拒んでいるのは僕の方なのだ。

 人を傷つけたことも動物さえもひどく扱ったことなんてない。自分が襲いかかれば必死に抵抗してくるけれど、こうして見ている間はただ自分の命のためにもがくだけだ。それならこのままでもいいじゃないか。そう思えてしまう。

死霊ファントムはこうはいかないぞ。お前が倒すしかないんだ」

 僕の頭の中を見透かしているようだった。ロウさんの言うとおりだ。これはまだ練習段階。それも一番簡単なことなのだ。手負いの死獣タナトスを狩らせ、次は正面から戦って倒し、最後には僕一人で死霊ファントムに立ち向かわなくちゃいけない。まるで狼が子どもに狩りを教えているようだった。

 戦えなければ僕は川越で生きていく価値を失ってしまうのだ。それが頭でわかっていても体は動いてくれない。頭と体が乖離かいりした僕はまた魔剣アリシアの代わりに胃の中のものをただ吐き出すことしかできなかった。

 それが何日続いたのか、僕はもうよく覚えていなかった。毎日吐き出すのが悪い気がして、僕はもう朝食に手をつけることができなくなっていた。ギルドの生計は決していいものじゃない。僕に付き合ってくれているせいで、迷宮ダンジョン巡りもあまりはかどっていないはずだ。そんな中で吐き出してしまう食事をもらうなんて僕にはできなかった。

 憔悴しょうすいしていく顔は自分でも驚くほど早くて、もう別人になりかわったとか、急激に歳をとっているとか言われた方が正しく思えるほどだった。それでもロウさんは毎日僕を迷宮ダンジョンへと連れていった。諦めてもくれなかった。いつものように起きているのか寝ているのかわからないほど背を丸めてボロボロのソファに座っている僕を引っ張り上げる。

 それをミオさんが制した。

「もうやめましょう。こんなこと」

「こいつが生きていくにはやるしかないんだよ!」

 ミオさんの手を振り払おうとして、ロウさんはあっさりとかわされる。その手を絡めとるようにミオさんがまた抑えつけた。

「それにしてもひどすぎます。叶哉さんが落ち着くまで休ませるべきです」

「そんなことしたって前には進めねぇんだよ!」

 ロウさんが語気を強めて吠えた。僕はそれに驚くことすらできない。どうして僕よりもロウさんが焦る必要があるんだろう。僕がふがいないから、予定通りにことが進まないからなんだろうか。

「あなたは人間を物のように扱うのが嫌だからこのギルドを設立したんじゃなかったんですか!」

 ミオさんの言葉にロウさんはびくりとして僕から手を離した。人形の取り合いのようになっていた僕は力が入らないままソファの前に転がり落ちる。ロウさんは僕をもう一度つかみあげることなくただ言葉が漏れ出さないようにうつむいてぐっと唇をかみしめていた。

「それでも、これは、必要なことなんだよ」

 命令ではなかった。絞り出すようにロウさんからこぼれ落ちた声にはミオさんに、僕に同意を求めるような苦しそうな色をはらんでいた。

「必要なことでも今すぐではないんです。何をそんなに焦っているんですか」

「いつか、なんて日が必ず来るわけじゃないんだ」

 ロウさんは力なくそう言うと、いつものソファに寝転がることなく自分の部屋へと帰っていった。それを見送ってから、ミオさんが僕を助け起こしてくれる。そうしてその手で僕の頬を拭った。

 僕は泣いていた。いつから涙が流れていたのか、自分でもわかっていない。ロウさんに怒鳴られたからじゃない。自分があまりにも弱すぎて、それが惨めだったから泣いていたんだ。みんなを守ってあげられるような強さが僕にもあれば、きっとロウさんもミオさんもみんなも苦しまずに迷宮ダンジョンに行ってたくさんのものを持ち帰って、今より少しでもいい暮らしができたはずなのに。

「今日は私たちだけで行こう。叶哉は休んでおくといい」

「そうだな。我らに任せておけ」

 気を遣ってくれたエレナさんと勇さんが立ち上がる。氷雨ちゃんも準備をはじめているようだった。

「おにいちゃんにげんきのでるものもってかえってくるね」

 僕は氷雨ちゃんの優しさにただ首を縦に振ることしかできなかった。

 ミオさんに支えられて僕はまた寝室に戻った。これも何度繰り返したのかよく覚えていない。猫妖精ケットシーは体格も小さくて力も強いわけじゃない。ミオさんの支えを受けながら、少し急な階段をゆっくりと上っていく。

「やっぱり僕には無理なんです」

 弱音をこぼした僕にミオさんは何も言ってはくれなかった。

 寝室に寝かしつけられて、涙で赤く変わってしまった目をミオさんが温かいタオルで拭いてくれた。誰の役にも立てないどころかこうしてお世話までされていて、僕は本当に情けないと思ってしまう。

「僕は、本当にダメな人間です」

「今は、そうかもしれませんね」

 ミオさんは僕の弱音を否定しなかった。

「でも伝わっていますよ。叶哉さんが私たちの役に立ちたいと思っていることが」

 それはきっとロウも同じです、とミオさんは僕の頭を優しく撫でた。

「叶哉さんが初めてなように、私たちも初めてのことばかりです。何をしていいかわからないのはお互い様なんですよ」

 ロウさんも僕と同じように苦しんでいるんだろうか。海斗さんとの約束を守れるように必死になってもがいて、焦って、悩んでいるんだろうか。僕のことをまだ必要だと思ってくれているんだろうか。

「でも私はきっと二人とも乗り越えられると信じています。だから、今はおやすみなさい」

 ミオさんはそう言って僕の部屋から静かに出ていった。僕は布団を頭からかぶって、せっかく拭いてもらった頬をまた涙で濡らしていた。

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