牙と拳と刀と剣と

 階段を探り探り下りていくと、逆に少しずつ明るくなってくる。壁のところどころに発光する鉱石があるみたいで月明かりに照らされているくらいの明るさはある。それでも何が飛び出してくるかわからない迷宮ダンジョンでは心許ないなんてものじゃなかった。


「暗いなぁ。でも懐中電灯とかあるわけがないし」


「かにゃおにいちゃんはよく見えないの?」


 足取りの重い僕に気がついたのか、すっと氷雨ちゃんが近付いてくる。真っ白な浴衣にまとった氷が光を反射してよく目立っている。


「氷雨ちゃんは見えるんだ」


「うん、みえるよー」


 氷雨ちゃんに手をとられ、みんなの元へと走らされる。ほとんど前が見えないから僕はとっても怖いんだけど、氷雨ちゃんはそんなこと気がついていないみたいだった。


「お、来たな」


「真っ暗でまともに進めませんよ」


「そうか。人間ヒューマンは目に頼るからこの暗さでも厄介なのか」


 感心したようにエレナさんはふむ、と冷静な声で言った。そんな落ち着いてないで対策を考えてほしいところなんだけど。それでもだんだんと目が慣れてきてなんとか近くに揃っているみんなの姿は判別できるくらいにはなってきた。相変わらず先が見えないのはどうしようもないけど氷雨ちゃんと手を繋いでいなくてもなんとかなりそうだ。


「普段は我らだけで来ているからな。すっかり忘れていた」


 そんな軽い気持ちでこんなところに置き去りにされちゃたまったものではない。一番目立つ氷雨ちゃんから目を離さないようにしておかないと。


「なにか匂うな」


 僕がしっかりと心に誓ったところでロウさんが鼻を向けながら何かの匂いをかいでいる。僕にはまったくわからないけど、人狼ウェアウルフであるロウさんにはわかるんだろう。そのまま鼻を向けたまま少しずつ迷宮ダンジョンの中を進んでいく。


「よし、あったぜ」


「これは、今夜の夕食はデザート付きだな!」

 勇さんのテンションが急上昇して、僕はまだ見えないそれが食べ物だということがわかる。なんていうかわかりやすい。いったいどんなものを拾ったんだろう。そもそもこんなところに落ちているというだけで食べ物としてはちょっと不安なんだけど。


 喜ぶ輪に加わってロウさんの手にあるものに目を凝らす。それを見て僕は目を二回またたかせた。


 カステラだった。しかも丁寧にパッキングされていて、切り込みまで入っている。まるでデパ地下の商品棚から間違って落ちてきたようだった。でもそんなはずはない。さっき見たデパ地下はもうそんなものなんて一つも残っていなかった。


 でもそのカステラは僕が今まで見慣れてきたものと同じように、きれいなままで腐っているとは思えない。みんなの喜びようを見ても食べても問題なんだろう。


「しかしこれは珍しいですね。そのまま食べられるお菓子類はレートが高いことが多いですからね」


 ミオさんはかなり逡巡しゅんじゅんしているようで頭を抱えてその場を回っている。こういうものを拾って買い取ってもらう。それが冒険者の仕事なのだ。


「幸先がいいな。これは期待できるぞ」


「ふむ。これが君の宿命か、叶哉」


 いや、全然違うと思います。ビギナーズラックって言葉は人間の世界にはあるけど、これもそれに含まれるのかな。カステラを氷雨ちゃんが抱えているリュックサックの中に入れて、みんなはもう今日の夕飯の話に移ってる。


 まだ状況が呑み込めていない僕だけど、とにかく喜んでいいことには間違いないみたいだ。よかった、と僕が口に出そうとした瞬間にみんなの表情が急に険しくなる。


「さぁ、今度は悪い方のおでましだぜ」


「それって死霊ファントムってやつですか?」


「いえ、おそらく死獣タナトスでしょう。私たちで対処できますから安心してください」


 跳ねあがった心臓を飲み込んで息を吐いた僕をミオさんがなだめる。その名前は初めて聞いたんだけど。そういうことは先に説明しておいてほしかった。僕がいなくてもなんとかなるから言わなかったんだろうけど。


「え、なに、あれ」


 道の先からゆっくりと死獣タナトスが姿を現す。大型犬くらいの大きさで四肢を地につけているけど、その姿はまったく違っている。体毛がほとんど抜け落ちていて、黒く変色した肌が見えた。それすらもややただれたように腫れているところもあって生きているのか死んでいるのかもわからなかった。暗闇の中赤い瞳を光らせて、荒げた唸り声をあげながらこちらに近づいてきている。


 ホラー映画に出てきただけでも僕は目を伏せて画面を見ることができないかもしれない。それがまさに現実に僕の目の前に現れたのだ。足が地面と一体化したみたいに僕のものじゃなくなってしまったように感じる。


「だから死獣タナトスだ。迷宮ダンジョンには食べ物や道具、そして死霊ファントム死獣タナトスがいる。必要なものは拾い、不要なものは狩る。それが冒険者だ」


 それだけ言い残すと、僕の横に立っていたはずのエレナさんの姿が消えた。


 みんなの隙間を見えないほどの速さですり抜けて、死獣タナトスに向かっていったのだ。僕がそれに気付いたときにはもう死獣の顔にアッパーが入っていて、浮かび上がった死獣タナトスの顔を右フックがとらえて壁に叩きつけたところだった。


 一瞬の出来事で僕はただ茫然ぼうぜんと見ているしかなかった。昨日は一緒に川越の街を観光していただけの人が、まるでスーパーヒーローのような動きをしている。僕はまだ今いる場所が現実じゃないような心地がした。


 大猿コングの打撃が直撃した死獣タナトスはかろうじて生きてはいるものの、のたうちまわるばかりで起き上がってこれる気配はない。あれだけ僕が不安に思っていた迷宮ダンジョンでの戦闘ももう終わってしまったのだ。


 そう安心して息を吐いたところだった。


「叶哉、トドメだ」


「僕が?」


魔剣アリシアで斬ってみろ。この程度ならかすりもすれば倒せるだろう」


 ロウさんの声に少し力がこもった。のたうちまわる死獣タナトスは確かに瀕死と言ってもいいくらいだけど、まだしっかりと生きている。赤く光る瞳はまだその輝きを失っていないし、唾液にまみれた牙は鋭く濡れている。


「む、無理です」


 さっきまでヒーロー映画を見ていた気分だった僕は一気に現実に引き戻される。やっぱりここは川越で、僕は冒険者としてここに立っているのだ。


「やれ」


 鋭い言葉が僕の心臓に刺さる。やらないわけにはいかない。死獣タナトスはよくても死霊ファントムが出てきたらこの背中の魔剣アリシアだけが頼りなのだ。瀕死の一匹くらい倒せなくちゃいけないんだ。


 魔剣に手をかけて、死獣タナトスに歩み寄る。その瞬間に死獣タナトスは最後の力を振り絞って僕に飛びかかってきた。きっとなめられたのだ。こいつなら勝てる、と。それでも僕の体は少しも動かなかった。代わりに伸びてきた勇さんの刀が死獣の体を真っ二つに切り払うと、黒い霧が散っていくように死獣タナトスの姿が消えた。


 怖かった。僕はその場にへたり込んだまま、立ち上がれる気がしなかった。もう前に進むこともその場から逃げ出すことさえできない。


「これ以上は危険みたいだ。戻ろう」


 まだ迷宮ダンジョンに来て三〇分と経っていないだろう。入ってきた迷宮ダンジョンの入り口もすぐ近くにある。


 それでもまったく動けない僕をエレナさんが抱えて、来た道をまっすぐ戻っていく。エレナさんの肩に担がれながら、僕は涙も声も出ないほどに放心していた。

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