「雨竜」

彼の名は、雨竜。


圧倒的な力を持つ竜族の中でも特異な特徴を持つ、不思議な竜。

「雨の日か認識できない、干渉できない」

という能力を持ち、そのために存在を知るものは少ない。


私が彼と出会ったのは、人生に絶望していた、あの夜だった。


小雨がぱらぱらと降り、アスファルトが独特の匂いを辺りに漂わせている。むっとした暑さが肌に張り付き、シャツが気持ち悪いくらいにペタペタする。

塗れそぼったスカートが脚に纏わりつき、歩くのに邪魔になった。

私はもう、いっそ脱いでしまおうかと悩んだけど、流石にやめた。


がつん


突然何かにぶつかって、私はよろめく。

「すみません」と反射的に謝り、前を見るけれど、何もいない。

私はあれ?と首を傾げた。

恐る恐る指を宙に伸ばしてみると、ゴツゴツとした何かに触れた。


その時初めて、私は上を見上げる。

真っ直ぐ落ちるはずの雨が、不自然に歪んでいた。まるで何かの表面を滑り落ちるように。

それが雨竜だった。


「嗚呼、済まなひ。こんなところで人に会ふなんて思ゐもよらなかった。」


彼は、雨音のような途切れ途切れの声で、やたら古風に語りかけてきた。


「あ、いえ。こちらこそスミマセン」


「こんな夜更けのこんな雨の日に、どふして君は此処に居るんだい。」


「……それは」


「何か、訳有りなのだね。…僕もさふなのだよ」


「そうなんですか」


「嗚呼。何を隠さふ、僕は雨の日しか誰かに会ゑないんだ。」


見ればわかるだろうけど、と彼は付け足した。


「それで、良かったら。僕の話し相手になってはくれまゐか。独りは寂しひものだらふ?」


「えぇ。そう、ですね?」


今の言葉に翻訳するのに手間取って、私は少し、曖昧に返した。


「ありがたふ。それでは少し良ひかな。」


彼は尾を器用に使って、私を押し上げた。

少しびっくりして固まってしまう。

下を見ると、彼の透ける肌から、遠く地面が見えた。


「何時までも首を傾げていると、痛くなってしまふのでね。」


彼がふう、と息を吹きかけると、私の服から水滴が飛び散り、さっぱりと乾いた。

同時に私の頭上の雨が、不自然に曲がって落ちるようになった。まるで見えない傘でも差してるみたいだ。


「これでよし。さぁ、お話しやふ。」


「えっと」


「差し支えなければ、君と会えた理由が知りたひ。どふしてこんな日に外へ?」


私は少し黙った。私の悩みを打ち明けて良いものだろうか。悩むふりをして彼を盗み見ると、とても優しい目で私が何を言うか待っていた。透き通る竜の透き通る眼で。

私の心まで透き通っているのじゃないかと、錯覚してしまいそう。

私は、心を決めて、ゆっくりと最初の一言を切り出した。


「あの、私、職場でいじめられてるんです。」


そこまで言って、私のたがは外れた。


「上司はいつも私を1時間は怒鳴り散らすし、同僚からは「仕事ができない」とレッテルを貼られてます。後輩からも「この人は適当にやっても大丈夫」とやりたい放題。

仕事を辞めたくなるんですけど、独り身の母を安心させてあげたいし、他にアテも無いんです。

でも我慢の限界が来ちゃって、今日爆発しちゃったんです。それで、仕事をほっぽり出してふらふらとここまで来ました。」


社会人失格ですね、私。溜息混じりに私がぼやくのを、雨竜は静かに聞いていた。


「僕は長ひ間生きてきたから、君たちがさふいふことで困ってゐるのよく見る。大変だと思ふけれど、諦めてはいけなひ。人は誰かに従ふものさ。強い言葉を使へば、きっと周りはついてくる。」


「そんなもんですかね」


そう簡単なことじゃないと思うけど。と私は心の中で思った。


「独りになることを恐れてはいけなひよ。周りに合わせてばかりでは、心が死んでしまふ。たまには周りが合わせてくれる日も必要さ。」

「私は何時も独りだから、良いアドヴァイスにならなかったかも知らなひけど」


「いえ、そんな。心に留めておきます」




「そろそろ降り止んでしまふね」


「もう、そんなですか。」


「今日はありがたふ。久しく楽しひ夜だった。」


「私も、少しスッキリしました。」

「また、会えますか」


「きっと会えなひだろう。でもまた会えたら嬉しひ。"もしかしたら"を楽しみにしてゐるよ」


「私も」



その日以来、私は彼には会っていません。

仕事は相変わらずです。前よりは少し減った気がしないでもないですが、もう気にしないことにしました。

今思えば、あの出来事は私の夢だったかも知れません。

けれど、そうではない証明があります。


「あら、雨。」

「ホントだ、嫌だわ。今日傘持ってきてないのに」

「天気予報もしっかりして欲しいわよね」

「そうよねぇ」

「あ、ちょっとあなた!傘も差さずにどこ行くの!」


あの日以来、私は傘いらずなんです。

彼が吹き掛けた魔法が、まだ残っているから。

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サクラの図書館 犬野サクラ @sakura_inuno

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