10.火災

 その日の夜だった。半鐘が響き渡り、目覚めたツェンリャの部屋の窓から白煙が見えた。白い煙が柱となって漆黒の夜空に立ち昇り、火元が赤く光っていた。火元以外で明るい建物などわずかしかない。それはツェンリャが昼に訪れた教会がある方向だった。ツェンリャは走ったが、部屋にいるようにと止められる。先生役の尼僧が部屋に戻るように叫びながら追ってくる。門の前に門番がいるのが目に入った。門番も火事のことを気にしている様子であった。


「止めて!」


尼僧の叫び声に、門番が振り返りツェンリャを太い腕で抱えるようにして止める。しかしツェンリャはその腕の隙間をかいくぐるようにして逃れ、走り出した。寺院のかがり火から、松明一本を盗って、目の前を照らした。寺院の門を出ると、もう誰も追ってこなかった。寺院から勝手に何の理由もなく出て行った者には、罰が待っているだろう。おそらくツェンリャの場合は、外民に戻されるだろう。それでもツェンリャは構わないと思った。

 石で造られた教会が燃えているとは考えにくかったが、その周りには貧民が住んでいる。教会も慈善活動を行う。そういったことを含めて考えると、寺院と教会は信者の奪い合いをしているのだ。しかし外民にとって、何を信じるかはさして重要ではない。自分たちにより多くの物資を与えてくれる方に集まるだけだ。ツェンリャの実家や友人が炎の中で焼け死んでいく姿を想像するとぞっとした。ツェンリャは何度もその暗い想像を振り払うように首を振りながら煙の元を目指した。


(フォング、ファンカイ)


夜道を走りながら、ツェンリャは二人の存在を近くに感じていた。


(ごめんなさい。ごめんね、フォング、ファンカイ)


二人の友人は、力強く生きていた。外民であっても希望を持っていた。明日を生きようとしていた。それなのに、ツェンリャはそんな二人を家族から奪っておいて、クワリになって喜んでいた。二人の友人のために、泣くことすらしなかった。ツェンリャのために、いや、ツェンリャが、二人の命を奪ったのだ。

 昼間に通った道を、松明を掲げながら逆走する。一緒に暮らすことを選ばなかった両親や、共に過ごすことを拒否した友人たちの顔が松明と闇の間にちらつく。松明を持った手とは反対の手で袴をたくし上げる。髪は乱れ、袂ははだけてもツェンリャの足は止まらない。そして教会の門に出たとき、ツェンリャは信じられないものを目撃する。石造りの教会が燃えていたのだ。骨組みだけを残して無残な姿で炎に包まれている。その熱気は離れて立ったツェンリャの頬も赤く火照らせた。火の粉が羽虫のように夜空に飛んでいく。まるでそれが星になるのだと思わせるほどに、巨大な教会全体から火の粉が舞う。崩れる音が轟音となって響き、木が燃えるような音がする。ツェンリャは呆然と立ち尽くした。

 石とはこんなにも燃えやすかっただろうか。人々が隠れてすがったあの手形は、こんなにももろかっただろうか。

ツェンリャは燃え落ちていく教会の骨組みを遠くから瞬きを忘れて見つめていた。町の人々は、自分たちの家に飛び火することを防ぐために消火活動を行なっていた。もちろんその中には、心から教会を守ろうとした人々もいただろう。今のツェンリャのように焦りを押さえ、心の中で祈る人々も。井戸から水を汲んで、次々に人から人に桶を回した。しかしその努力も空しく夜が明ける頃には、教会は黒い残骸と化していた。人々は様々な表情で帰っていく。ある男は憤怒。ある女は怪訝。ある青年は悲壮。ある少女は楽観。しかしどの表情の裏にも徒労感がにじみ出ていた。

ツェンリャは誰もいなくなった教会の跡地に近づいた。まだ焦げた匂いと弱い白煙が墨から上がってくる。


(何なのだ、これは)


これが石の教会だろうか。あの荘厳で優美な物だろうか。ツェンリャは無意識の内に手形がある柱の残骸を探しかが、見つからなかった。


「奇跡の教会に近づいてはならない」その言葉はこう続くに違いない。「奇跡の教会の前では皆等しく心を奪われるからだ」と。「皆が等しい」という言葉はこの島国の身分制度を否定するものだろう。だから国家は、禁教にしたのだろう。「皆が等しい」ことに「心を奪われる」と国家の制度も、寺院も破滅してしまうだろうから。

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