15.満月

 蝶の姿で町に戻ってきたイネイは人目に付かないところで人間の姿に戻り、アトラジスタの教会へと急いだ。明らかにアトラジスタの人々と異なるイネイの姿に人々は振り返る。少女なのに肌を露出させて走っているということに、眉をひそめる女性たちも多かった。しかし、イネイは走り続けた。時にはスカリィがしたように町並みの上を飛んだり跳ねたりしながら走った。アスコラクの半身の下僕であるイネイは、主であるアスコラクと同じように、人間の姿の時には人々の記憶に残らないのだ。つまりイネイが今どのように大胆な行動をとったとしても、イネイがアトラジスタを去った後に覚えている者はいない。そしてここは「主」を嫌うドゥーフが守りし土地。つまり、「反主」の土地であるため、同じく「反主」の存在であるイネイの力はいつにも増して強い。

 アトラジスタの教会に着いてもイネイの足は止まらない。そこにはアトラジスタの男たちが大勢いた。アスコラクの消失に青ざめ、人々にどのようにこの事態を説明すればいいのか途方にくれる男たち。その噂で集まった野次馬たちがさらに外側で大きな輪を形成して聞耳を立てていた。イネイは男たちや野次馬を押しのけて礼拝所の前列まで駆けて行く。そこはドゥーフが鎮座する信仰の中心だ。


「大きい……」


イネイはドゥーフの像のつま先の横に立って、巨像を見上げてつぶやいた。そしてイネイは人々の関心が全く自分に向いていないことを確認して、大胆な行動に出た。ドゥーフ像の背後に回りこんで、それを登り始めたのだ。それでも人々はイネイに気付いていない。その隙に、イネイはドゥーフの台座には動かした跡があることを確認した。つまりこの巨大なドゥーフ像は、元々ここにあったのではなく、他から移築されてきたのだ。さらに、衣の隙間に金色の光を見た。祠にあったドゥーフ像を思い出す。金箔をこんなに細かい裏側に貼るには熟練した技術が必要である。金は薄く伸ばせるが、貼るには薄すぎて破れたり、皺がよったりするという。そのため金箔を貼る際には、息を吹きかけ「吹きつける」のだという話をイネイは聞いたことがあった。


「ここを建てたのは何時ですか?」


ドゥーフの像から飛び降りたイネイは、アスコラクの行方について議論する男たちに割って入った。真剣で深刻な議論の腰を折られて一瞬殺場の雰囲気が殺気立ったが、イネイが子どもの姿であったためか場の雰囲気が和らいだ。


「見かけない子だな」


男が物珍しそうに不躾なほどイネイの姿を見ながら言った。この男は、アトラジスタの外に出たことがないのだろう。この男が体を傾けた時、男の後ろにアスコラクの剣があるのを、イネイは発見することができた。


「今流行の見学旅行者じゃないか?」


苛立ちをにじませた男が投げやりに言う。

イネイは「はい、見学旅行者です」と作り笑いで話を合わせた。


「この町の教会の歴史に興味を持っているんです」


イネイは架空の見学旅行をでっち上げた。

実際の見学旅行者を、イネイは知っていた。百年前、ザハトやカーメニを目指す巡礼者に混じって、上流階級の人々が娯楽として見学旅行を楽しむことが流行っていた。確か、ザハトの石の芸術よりも彼らはその反対側に位置するナチャートを好んでいたと、イネイは記憶している。上流階級の人々が、何故こぞって下層階級の人々の土地を訪れるのかは、イネイにとって百年前からの疑問だった。


「ここは古代大戦の後に作られた教会だよ」


教会の管理を請け負っていると言う老齢の男が前に出て、スカリィと同じ十字架をイネイの前にかざした。イネイは後ずさりしたくなるところを必死に耐えて質問を重ねた。アトラジスタの人々がアスコラクを醜いと思うように、イネイはどうしてもドゥーフが苦手だった。


「古いんですね。でも、他の地域の教会にはあのような像はありませんね」


関心と感心を装って、イネイは身を乗り出し、膝を進めた。


「何度も建てかえられているよ」


別の男が割って入った。泥を塗り重ねる手法を用いるため、古い外壁ほど内側になったり、部分によって作られた年代が異なったりしているという。


「大戦の後植民地とされてこの教会が建てられたが、東と西の巨大な大国が分裂し、アトこのラジスタも独立した。そのときに我らがドゥーフ神の像を祀ったのがこの教会の本当の始まりだよ」


「お客さん、もういいかな? こっちは今大変な事になっているんだ」


苛ついたように若い男がイネイを睨んだ。アスコラクの件をどのようにするのか聞いていたいと思ったが、陽が傾きかけている事に気付いた。使いに出された後は、その全てを一度アスコラクに報告する事になっていた。イネイは男たちの一瞬の隙を突いて、男たちを押しのけてアスコラクの剣を強奪した。


「待てっ!」

「貴様っ!」

「捕まえろ! 盗人だ!」


男たちはイネイを追ったが、その差はあっという間に開いた。ただの人間が力を得た使い魔に追いつけるはずもなかった。それに加え、人間の姿をしていたイネイのことは自動的に人々の記憶から抹消されるのである。アスコラクの剣も、自分たちが紛失したと思い込むようになるだろう。

 空に浮かぶ月は、満月だった。

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