16.更新
スカリィの家に戻ったイネイは驚いた。アスコラクが青ざめた顔をしていたからだ。元々、アスコラクの肌は芸術家の石膏の作品のように白く滑らかで奥行きがある。しかし今のアスコラクは紙のような白さで、血管が青く浮き出ている。聞けば昨日よりも体調がすぐれないという。
アトラジスタにきてから何かが――――ドゥーフが、アスコラクの体力を奪っているようだ。
「アスコラク、これ!」
イネイは剣をアスコラクに返した。アスコラクは溜息をつくように自嘲をもらした。天使である自分が、今回は使い魔に助けられてばかりいる。しかもこれからこの剣は大いに役立つだろうとアスコラクは予見していた。弱っていたはずのアスコラクは、気丈にもイネイの調査報告を優先した。そして小さく「なるほど」と呟いた。そしてアスコラクは火鉢を抱くスカリィに声をかけた。
「分かったぞ」
フィラソフの居場所が、とアスコラクはあえて続けなかった。おそらくスカリィには、この一言でアスコラクが言いたいことが分かっただろう。
「何が、でしょう?」
スカリィの表情はアスコラク以上に青ざめて見えた。答えはもう分かっているのに、スカリィは会話を成立させるためだけに、そう質した。
「この地で鍵となるのは更新、という考え方だ」
「こうしん?」
イネイとスカリィはそれぞれ「行進」や「交信」を思い浮かべて顔を見合わせた。
「昔、アトラジスタは東の大国の植民地になった」
「待って。古代大戦に勝ったのは西の方よ?」
イネイは鬼の首をとったかのように言った。アスコラクが「西」と言うべきところを「東」と言い間違えていると指摘したつもりだった。しかしアスコラクは、イネイを睨むだけだった。
「勝ったほうがアトラジスタを取った、と誰が言った?」
「おそらく」とアスコラクは続けた。
「アトラジスタでかつて採掘されていたのは『月の涙』だ。『月の涙』は有害だが有益で、これをめぐって東と西の巨大な大国同士が争いを始めた。アトラジスタをものにしたのは東の大国だった。しかしこの闘いが元で戦に歯止めが利かなくなり、ついに力の拮抗をもってにらみ合っていた大国同士の全面戦争になった。この全面戦争に勝利したのは西側だ」
「どうして勝ったほうがアトラジスタを治めなかったと言えるの?」
植民地と言えば、戦いに勝った方が「旨味」のある場所を獲得し、統治するのが一般的だ。
「文字だ」
アスコラクは机のイネイに一冊の本を放り出した。その書物にはイネイが見たことも無い記号の羅列があった。その文字は祠で見たものとは異なっていた。左端には銀色の液体を描いた挿絵がある。ビンに入った銀色の液体と、平面上に一滴垂らしたものだ。その一滴が丸くこんもりとしていることから、随分表面張力が大きい液体であることが分かる。
「これ、もしかして東の文字なの?」
アスコラクは頷いた。
「証拠に、東の者が植民地化したアトラジスタについての書籍を記していた。何の偶然か、フィラソフと同名の著者もいた」
スカリィの表情が一瞬引きつる。アスコラクはそれを見て自分の意見に確信を得た。
「月の涙、って何? そんなに価値があるものだったの?」
「価値はない」
アスコラクは紙のように白い顔をしながらきっぱりと切り捨てた。
「じゃあ、どうして無価値なものをめぐって大きな戦争がおきるのよ?」
「その物に価値は無いが、価値を生み出すことができる」
「何、それ?」
イネイが少し苛立ったように吐き出した。
アスコラクは「これだ」と言ってイネイの右手を摘みあげた。イネイはアスコラクの手のあまりの冷たさに、思わず顔をしかめた。イネイの指の先には祠で見つけた金箔がついている。
「これ? 金箔と関係あるの? そう言えばここには昔、腕のいい金箔葺きがいたみたい。ドゥーフの像の裏にわざわざ貼ってあったの。でも、あれ、やっぱり変よ。わざわざ人の目に付かないように金箔を貼るなんて」
イネイが勝手に悩み始めたのを見かねたアスコラクは、あっさりと答えを出してしまう。
「月の涙とは、金を溶かすことが出来る液体で、その色は銀色をしている。月の涙に金を溶かして塗り、揮発性が高い月の涙がとべば、そこには金だけが付着して残されるという仕組みだ。この月の涙を使えば安価な金製品を容易に生み出し、加工もしやすい」
「それじゃあ、ドゥーフ像は元々、全身金色だったってわけ?」
イネイは黒い色をしたドゥーフの像を思い出したのだ。人の目に付かない所に金細工を施していたから妙には思った。しかしアスコラクが言うことが本当ならば、あれは金細工ではない。
像そのものが元々、薄い金の膜で覆われていたのだ。三つの目だけが本物の金細工で、あとは「月の涙」で加工を施していたから金色が剥がれてしまったのだ。このことで祠の中の壁画の謎も解けた。「月の涙」のせいで患部が悪化して苦しむ人々の様子と、「月の涙」を求めて起こった古代の大戦の図式がそこに描かれていたのだ。
「月の涙は、心身を蝕む毒だ。犠牲者も出ただろう。お前が祠で見つけたという絵文字の羅列は犠牲者名簿である可能性が高い」
アスコラクはベールの裾をイネイに差し向けた。
「あ、文字!」
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