4.捕縛と観察

 群衆の中に降り立ったのは女が「彼女」と呼ぶ天使だった。人々の輪の中に、無残に散った翼の付け根の部分を背負った銀髪の美女が凛として立っていた。群集はその天使の姿に凍りつき、子どもや女性をかばうように男たちが前に出た。一振りの剣を佩いた天使は自分の背中に残った羽をつまんでみたが、それも凍った花弁を握ったかのようにばらばらに散り、指先からなくなってしまった。その羽を天使は眺めていたが、散った羽の先に人々がいる事にようやく気付いたように顔をあげ、人々を一瞥した。大して興味はない、と言った無表情だった。まるで森の中に降り立って、木々を眺めるような無関心さが伝わってくる。女は自分と天使の目があったような気がして、ベールを目深に被り直し、つま先立ちをやめてしまった。人々は冷や汗と油汗を同時に流し、口は乾いているのに生唾ばかりを何度も飲み干した。歯ぎしりをして、何とかその場に踏みとどまったが、足はがくがくと震えてばかりいる。一瞬でも気を抜くと、自分が尻尾を巻いてその場から逃げ出すという幻想に捕らわれて、それを本当に実行してしまいそうだった。


「カーミュ・デ・ジェイカ!」


しばしの静寂を破って、群衆の中の誰かが叫んだ。それを合図に男たちが洪水のように「広場」の中心に雪崩れ込んだ。


「殺せ!」

「捕まえろ!」


男たちは、物騒な言葉を口々に叫んだ。あっという間に輪の中心が人で埋め尽くされ、天使の姿は見えなくなった。赤い砂埃が舞い上がり、女たちは体を覆う布で口や鼻を塞ぐ。子供たちも服の端で同じようにしていた。

 次に女が見たのは、両手を後ろに金具で縛られ、罪人のように連行される傷だらけの天使の姿だった。唇が切れて端から血が流れ出ている。美しい顔も腫れていたり、痣になっていたりした。ぼろぼろになった天使は両手を縄で縛られた上に錆びた手錠をはめられ、首に巻かれた縄を男に引かれていた。腰に帯びていた剣は、男の一人が大事そうに抱えていた。それでも天使は呻き声一つたてず、涼しい顔でもう一度群集に一瞥をおくった。今度ははっきりと天使の青い目が女を捉えていた。天使の瞳の中に映った自分の姿に耐えられなかった。女は大きな体には似合わない足の速さでその場から逃げ出した。女の目からは大粒の涙がこぼれた。それは大きな幸福と瑣末な嫉妬からもたらされたものだった。そして彼女は天使の強さと美しさを恐れていた。翼を失っても顔色一つ変えず、群衆に取り囲まれても堂々とした覇気に満たされていた。罪人のように扱われ、傷付き、汚れても失われることの無かった気高さ。何人も、如何なるものも「彼女」を穢すことは出来ないと女は思った。それは女にとって恐怖だった。その恐怖に耐えて女は村から町の外れにある集落に逃げ帰り、家に引きこもって夜を待った。

 彼女の家がある集落は、村の中心から離れている。この集落は物質的にも心理的にも、村の周縁にあるのだ。曾祖母の代からあるこの集落の家々は、白い粘土質の壁に赤い屋根が特徴だった。今、この集落に住んでいるのは彼女一人だけだ。周りは全て空き家である。



 一方アスコラクは初めに降り立った市場らしき所から、男たちに連行されていた。顔や体に出来た傷や痣が痛々しい。本来ならば、アスコラクのこの程度の傷はすぐに消えてしまう。しかし何故かここに来てから癒えることを知らないように血がにじみ続けている。男たちはアスコラクを時に殴り蹴り、縄を強く引っ張った。首にざらついた縄が擦れて痛い。男たちはアスコラクがよろめくたびに下品な笑いを浮かべ、楽しんでいるように見える。それは、自分たちが意外にも「怪物」よりも容易く優位な立場に立ったという、確信が得られたからに他ならない。しかしそれでもアスコラクは顔色一つ変えない。

 どこかから投石されることもあったが、アスコラクは顔色を変えずに観察していた。男たちは皆黒い髪と緑色がかった茶色の瞳をしている。黒い髪は真っ直ぐではなく波をうっていた。顔の彫が深く、肌の色は浅黒い。女たちは一様に体を布で覆っている。目元がわずかにのぞいているだけだったため、顔のつくりを窺い知ることはできなかった。しかし瞳の色は男女とも同じだった。アスコラクが周りを冷静に観察している事に気付いた一人の男が、アスコラクを再び殴った。アスコラクの後頭部に鈍痛がはしる。


「女子供を見るんじゃねえ!」


男たちは興奮していた。その姿は恐怖を払いのけるためにわざと自身を鼓舞しているように見えた。男たちはよほどアスコラクの視線が恐ろしかったのか、アスコラクにベールを被せて目隠しをして歩かせた。町の女たちか身につけているベールよりも雑で、雑巾を呼べるものであった。腐りかけの布特有の臭いが顔面にまとわりつき、アスコラクはこの上なく不快に思ったが、表情には出さなかった。黒い布のせいで、さすがのアスコラクも視界を奪われたままでは反抗も出来ず、牢屋に放り込まれた。手足を鎖でつながれて自由を奪われ、布があるせいで視界も奪われたままだ。アスコラクは耳で気配をうかがい、周囲に誰もいなくなるのを待った。足音とアスコラクの処遇をめぐる会話が遠ざかる。


「売ったら高いんじゃないか? この剣なんて、超一級品だろ?」


おどけたような一人の若い男の声がした。確かに、新品と見紛うばかりの細身の剣は、芸術品と言ってもいいくらいに美しかった。


「馬鹿。処刑するに決まってるだろ。その時にその剣も一緒に始末するんだ」


若い男の声を、たしなめたこの声の主は何故か声を潜めていた。まるで誰かに耳打ちするような言い方だった。


「そうだ。この地に災いがもたらされる前に」


低い声が、厳粛な物言いをする。


「でもよぉ」


金に目がくらんだ男が仲間に叩かれたのか、ピシャリと音がして、怒号が飛んだ。


「いい加減にしろ! 死んでもいいのか?」


(死んでもいいのか?)


 この言葉には誤解があった。アスコラクと出会って死ぬことが決まっているのは、常人の生き方を逸脱した者でなければならない。少なくともこの男たちには、アスコラクが殺す理由も権限も、そして価値も持ち合わせていなかった。

 聞き取れたのはこの会話が最後だった。その後に重い扉が閉まる音がして、金属が擦れるような不快な音がした。おそらく外側から鍵をかけたのだろう。

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